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「――ぁぁあっ!」


 その声とともに、智香はカッと目を見開いた。


「おかえりなさいませ。以上で悪夢は終了です」


 アダムの声が智香に届いたかどうかは定かではない。荒い息と恐ろしく冷えた体に、智香はしばらく呆然としていた。


(夢――)


 智香は震えながら両手を見下ろした。ちゃんと血の通った手を見て、自分が生きていることを確認する。

 大丈夫、私は生きている、あれはただの夢――そうやって、何度も呟いて徐々に落ち着きを取り戻していった。


 智香に無言で差し出される蒸しタオル。固く絞られたそれを受け取ると、アダムはそっと部屋を出て行った。

 体中に冷や汗をかいていた。そのせいで、適温に保たれた部屋の中なのに、寒い。


(なんだか、凄い夢だった)


 いつものようにアダムの元を訪れたが、金額も夢の内容も特段希望はなかった。お任せして選んでもらったものが、今回の四歳の頃にみた夢だった。

 汗を拭いながら、先ほどまで見ていた夢を思い返す。幼児が見る夢にしては、えらく強烈なものだった。


(一番、幸せだった時かもしれない)


 あのころはまだ彩香が生まれていなかった。二つ上の兄ですら義務教育も始まっておらず、ただ遊んで、笑って暮らしていればよかった。


(でもあの人たち、助けに来てくれなかった)


 光の中にいた家族を思い出す。

 智香は異形のモノたちに追われ、彼らから見れば必死の形相になっていたはずだ。

 こっちにおいで、と手招きするだけで、自分たちは安全な場所から一歩も出てこようとしなかった。智香が最後の化け物に食べられそうになるその瞬間ですら、智香を助けに行こうとは、考えていなかっただろう。


 所詮、夢の中だ。思い通りにいくわけはない。そうと分かっていても、どこか腑に落ちない。

 深層心理――そんな単語が頭をよぎる。


(もうあの時から、何となくわかっていたのかもしれない)


 笑顔を向けてくれる両親、遊んでくれる兄。まだ純粋だった智香の心でも、何か引っかかるものがあったのだろうか。

 喉に魚の骨が刺さったような。目に見えない傷を負ったような。そんなものを薄々感じていたからこそ、あんな夢を見たのかもしれない。

 ため息をつくと、智香は席を立った。いつものように、中央の部屋に戻る。


「おかえりなさい。調子は大丈夫ですか、随分とうなされておりました」


 既にソファに座っていたアダムは、心配そうな目で智香を出迎えた。

 初めて彼に出会って三ヶ月が経とうとしていた。最初こそ胡散臭いピエロくらいにしか思っていなかったが、彼の優しい態度はいつも変わらず、悪夢の後は毎度救われていた。尤も、奇抜な恰好も変わらないのだが。


「大丈夫、平気よ」

「それは良かった。――と、紅茶を飲みながら、少しお待ちください」


 アダムは一旦席を立った。いつも智香が夢売りを行う部屋とは反対側の扉をくぐって、姿を消す。言われた通りに待っていると、アダムが大きな瓶を抱えて戻ってきた。

 その色を見て、感嘆の声を漏らす。


「凄い、綺麗――」


 自然と、うっとりとした声音になる。綺麗という表現しか出来ない自分が悔しくなるほど、美しい紫色。

 最初にサンプルで見せてもらったものよりも、遥かに濃く、深い色合い。光に当たると、一瞬だけ青っぽく見えたり、赤っぽく見えたりして、一度として同じ色彩を描かない。

 まるで、宝石が液体になったようだ。


「強烈な悪夢になるほど、このように美しく抽出出来るのです。私は食しませんが、獏様曰く、それはもう極上のお味である……らしいですよ」


 彼は得意げに、嬉しそうな反応をする。

 いつまでも見ていたい。吸い込まれてしまいそうだ。


「ところで須藤様、今日はこの後どうされますか?」


 ぼんやりと魅入っていた智香に、アダムは意味ありげな視線を寄越す。卓上の時計は、まだ十二時にもなっていなかった。時間があるならもう一つ売らないか、ということらしい。

 このところ智香は来店時間を早め、調子がいい時には一日に二つの夢を売っていた。そろそろ夢売りのシステムにも慣れてきたということで、以前アダムから提案があったのだ。


 それも、特典がついていた。一日に続けて夢を売った場合、二つ目の夢は通常価格の十%増で買い取ってくれるというのだ。一体彼らの資金はどこまで潤沢なのかと疑問に思いつつも、その魅力にはやはり惹かれるものがある。貯蓄額もうなぎ上りに増加していった。


 しかし残念ながら、今日の智香はかなりの疲労を感じていた。

 最近夢売りを行うと、いつも頭痛がするのだ。体は背もたれに預けていても、頭の中はフル回転なのだろう。以前に比べて、日常の思考回路も鈍くなった気がする。

 今日は特に疲れが蓄積しているのか、それとも元から体調が優れない日なのかもしれない。

 智香はゆるりと頭を振った。


「今日はごめんなさい。二つ売るのは、また今度で」


 アダムの眉尻がみるみる下がっていく。反応が分かりやすすぎて智香は笑ったが、それでも自分の疲労の方が勝った。「今日はダメです」と念押しして、アダムはやっと諦めた顔になる。


「いえ、無理を申し上げていたのはこちらです。今日はゆっくりとお休みください」


 にっこりと笑った笑顔に、力無く微笑み返す。智香は手元に用意していた携帯電話を見て、一礼して去ろうとするアダムに声をかけた。


「待ってアダム。振込口座を複数指定することって出来る?」


 アダムがきょとんと首を傾げた。大きな「?」の記号が、アダムの頭上に現れて揺れた。


「五十万円以上はAの口座、それ以下はBの口座……みたいに、振り分け出来ないかと思って」


 智香は最近、国内外の銀行についてじっくりと調べていた。

 今は一つの口座に金を振り込んでもらっているが、何らかの拍子で雄太にバレてしまうことを恐れていた。


 ブランドの装飾類を買ったり、エステに通ったりといったことは既にやっている。やっているが、稼ぎが支払いを大幅に上回っているため、智香の口座には潤沢な資金が貯まっているのだ。


 嬉しい悩み、贅沢な悩みと言ってしまえばそうなのだが、じゃあその金の出処は何なのかと万一問われた場合が一番困るのだ。正直に話したとしても、智香の精神を疑われるだけだろう。


 とはいえ、智香はこの夢売りを辞めるつもりは毛頭無かった。既に今持っている口座は、智香の個人的な分も含めて夫も把握している。新しい口座を開設し、雄太に知られない形で振り込みしてもらわねばならなかった。

 アダムは説明を聞いて、納得したように頷いた。


「可能でございます。どのように致しますか?」


 智香は二つの銀行名を挙げた。一つは国内の銀行、もう一つは国外の銀行だ。


「五十万以下は国内の口座に、それ以上は外国の口座にお願い」

「承知致しました。では登録と変更を行いますので、番号をお願いします」


 一連の手続きを終えると、智香は店から出た。真夏の太陽が容赦なく地上を照らしており、照り返しの日差しが、日陰にいる智香の顔まで届いた。

 さっきまで寒いと感じていたのに、もう暑い。首元にじんわりと浮き出る汗を、ハンカチで拭った。


(これで、よし。国内の口座はともかく、もう一つは雄太にはバレないはず)


 新しく作った国内の口座は、インターネットバンキングだ。後にキャッシュカードは届くが、通帳は存在せず比較的隠しやすい。これは、智香が自由に使うための口座だ。


 もう一つの国外の口座。日本の銀行よりも高利回りで、こちらは智香の個人資産として保有しておくつもりだった。将来的に景気に左右され、多少の損が出る可能性も含まれていたが、それでも智香は海外の銀行に拘った。智香は、雄太と違って英語が得意だったから。


 万一銀行の事を調べられても、必ず海外のURLに辿り着く。金融の専門用語が、しかも英語で並んでいるのだ。智香ですら辞書を引きながら読んだ文章を、そう簡単に雄太が理解出来るとは思えなかった。


 自転車置き場に向かって歩きながら、むわっとした暑さにげんなりとする。今年の夏も例年並みの猛暑が予想されていて、そろそろ自転車で通うのがきつくなってきたのだ。幼稚園の送り迎えも、車かタクシーに切り替えていいかもしれない。


「あ」


 智香はぴたりと足を止めた。角を曲がって進行方向を向いたとき、視界にソレが映ったからだ。


(また、いる)


 無意識に、マインドウォッチを作動させる。小さな機械は、六十一の数字を叩き出した。

 数字を見て、再び幽霊に視線を戻した。

 このところ、智香は頻繁にソレを目撃していた。出現する時間帯も場所もばらばらで最初は気づかなかったのだが、一定の法則があることを発見したのだ。

 それが、この数字だ。


『この数値が八十以上であれば問題なし、六十から八十の間であれば要注意、それを下回ると危険です』


 アダムの言葉を思い出す。そう、幽霊が出現するのは、このマインドゲージが八十を下回るときなのだ。

 しかも、数字が下になればなるほど、幽霊の出現場所が、近くなるのだ。一番最初に見たときは、目を凝らして見えるくらいの位置だった。最低記録を更新した今、幽霊はその時の距離と比べると半分ぐらいに縮まっている。


 要注意、とは言うものの、智香の身に危険があるわけではない。いつも智香が進みたい先にぼうっと突っ立っている、ただそれだけ。

 相変わらず、恐怖は感じる。感じるけれども、どちらかと言うと不気味な存在という印象に変わりつつある。


 現に今だって、電柱の側に寄り添って立つばかり。すぐ前をのしのしと歩く黒猫に、見向きもしていない。


(……気持ち悪い。もう行こう)


 どうしても智香の行きたい方向にいるため、近寄らざるを得ないのだけが難点だ。なるべく目を逸らして、足早に通り過ぎる。


――もぅすぐだよぉ


「っ!」


 幽霊の前を通り過ぎたその途端。唐突に、脳裏に声が響いた。それと同時に、さっき見たばかりの夢を思い出す。テレビでボイスチェンジされた人間のような、奇妙な機械音――夢の中の化け物の声と、今聞こえてきた声は、あれに似ていた。


 ぎぎ、と軋んだ音でもなりそうな動作で、ゆっくりと幽霊を振り向く。

 黒い影。煙のように揺らめく体。長い手と足。

 初めて見たときのそれと変わらない――かと思いきや、よく見ればそれは、少しだけ様子が違った。


 幽霊の向こう側が透けて見えない。体の色が、濃くなっている。

 口も目も何もないと思っていた顔に、薄っすらと窪みが見える。体よりも深い闇色の眼孔が、ぽっかりと二つ、開いている。


「ひ……っ」


 あまりの不気味さに、一瞬で全身に鳥肌が立った。悲鳴を上げることもなく、一も二もなく走り出す。

 早く自転車の鍵を開けたいのに、こういう時に見つからない。ポケット、カバンの中を何度も探して、ようやく固い金属の感触を発見した。


 追いかけてきていないことを確認しながら、もたつく手でやっと開錠した。

 全速力でペダルを漕いだ。とにかくあれから逃げたい、その一心で。

 ふと、夢のラストシーンの顔を思い描いて、智香は気が付いた。


「え?」


 夢の中ではソレが怖すぎて、異様に大きな目と真っ赤な口の中しか印象に残らなかった。その全貌はただ一つの生き物を連想させる見た目ではなかったか。

 体は人のようだった。二足歩行で、一糸纏わぬ肌は智香と同じ肌色だ。黒の髪の毛はぼさぼさで、腰ぐらいまで長かった。


 その顔は、中心に大きな長い鼻を持っていた。顔の横ではなく、頭の上に対になる耳を備えていた。


(バクの顔に、そっくりだった)


――もぅすぐだよぉ


 一体何が、もうすぐなのだろう。

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