3

 智香は一人、長い道を歩いていた。周りには住宅が並ぶが、どの家も窓のカーテンを閉めている。人がいる気配が、全くない。

 やたらと塀が高いなという印象を受けたが、そこで智香は自分の手のひらを見下ろして気が付いた。手の大きさが亮平と同じくらい小さい。


 遥か先に続く道を眺める。驚くほど長い一本道が続いていた。

 試しに後ろを振り返ってみても、やはり同じように道が続くだけ。左右に曲がる道は無く、先の方がどうなっているのか、目を凝らしてもぼやけていて見えない。


 空は一面、赤黒く質量のある雲が広がっている。異様に低い位置に垂れこめていた。

 妙に現実感が薄い。ここは現実の世界じゃなさそうだが、果たしていつの間に寝てしまったのだろう。誰かいないか、と智香はゆっくりと歩き始めた。


「おかあさん」


 母を呼ぶ幼子の声は、自分の口から勝手に漏れていた。現実の智香よりもだいぶ幼く、多分まだほんの子供だ。返事は無く、続けて父や兄の名を呼んでももちろん返ってくるものは無い。


 徐々に不安になっていき、気づけば歩調が速くなっていた。この道がどこまで続くのか全く分からないけれど、とにかく先に進まなければならない気がしたのだ。


「だれか、いませんか」


――ここにいるよぉ


 思わず吐露した言葉に、反応するもの。智香は驚いて立ち止まると、きょろきょろと周りを見回した。今の声が一体どこから聞こえてきたのか、いまいち方向が分からない。


――ここだよぉ


 ゆっくりとした口調で、最後は決まって潰れたように間延びした声。聞いたことがない声で、それが誰なのか見当もつかない。


――もぅすぐだよぉ


 そこで、はたと気が付いた。声が、だんだん大きくなっている。近づいてきている。

 智香の脳内で警鐘が鳴った。駄目だ、この声は。絶対に、捕まってはいけない。

 急速に鼓動が速まる。ただひたすら前を向いて、走り出した。


――もぅすぐだよぉ


 確実に大きくなる声は野太く、奇妙に高い。これが男なのか女なのか、そもそも人の声なのかどうかさえ分からなかった。

 既に智香は恐怖に包まれていた。走る足がもつれそうになるが、懸命に走る。後ろを振り返ったら、捕まってしまう。このよく分からない何かから、逃げないといけない。


「たすけて、だれか、たすけて」


 走りながら言ったせいか、途中で舌を噛む。刺すような痛みに顔を顰めながら、それでも助けを求めずにはいられなかった。気づけば智香は、全速力で駆けていた。

 そこで智香は気が付いた。周囲に並ぶ家々から、視線を感じる。カーテンを開け、窓を開け放ち、身を乗り出して智香を凝視していた。


 それに気づいた瞬間、背筋に鳥肌がたった。智香を見ているそれらは、到底人間と呼べるものではなかったからだ。

 のっぺらぼう、小鬼、口裂け女、天狗、河童――本やテレビの世界でしか見たことがない魑魅魍魎が、智香を笑い指差していた。


 空を見上げて悲鳴を上げた。大小様々な目が、瞬きしながら智香を見下ろしている。瞳の色も角膜の毛細血管も、はっきりと見ることが出来た。物を言わない目の群衆全てが、ねっとりと絡みつくような視線を注いでいた。


「っ、やめて!」


 左腕をつかむ感覚に驚き、慌ててそれを振りほどく。塀の向こうから伸びた長い手が、智香を捕えようとしていたのだった。

 智香の邪魔をしようとするものは他にもいた。家の中に引きずりこもうとする骸骨、長い触手を伸ばし、智香の足を払って転ばそうとしている宇宙人のような生き物、今にも道に躍り出ようと、塀の上から見下ろす狒々。


――もう、すぐだよぉ


「いやだっ、たすけて、おかあさん! おとうさん! しょうにいちゃん!」


 智香は恐怖に慄いた。謎の声は、智香のすぐ後ろから聞こえていた。

 遠くに光が見えた。おいでと手を招く複数の人影が、光の中に影のように見える。そのシルエットは智香の家族のものだった。智香がこんな状況なのに、ゆっくりのんびりと手を振っている。


 既に智香の息は切れていた。足の筋肉は悲鳴をあげているし、脇腹が走るのをやめろと訴えるように痛む。

 だけどあそこに辿り着けば、この妖怪たちは智香を捕えることは出来ない。この地獄を抜け出す唯一の突破口、それがあの光だ。


「ひっ!」


 しかし智香の希望を打ち砕いたのは、左肩をがっしりと掴む感覚だった。何者かが、智香を捕らえている。それまでの妖怪達と違って、恐ろしい程強い力だった。

 絶対に振りほどけない――それを悟った瞬間に、智香の恐怖は最高潮に達した。


「や……やめて……」


 蚊のようなか細い声が大きく震えていた。智香を掴むソレは痛いくらいに力を込めて、無理やり後ろを振り向かせる。限界まで首を背けて、父や母を呼び続けた。彼らは、のんびりと手を振るだけだった。


「あ……」


 智香の頭部を、もう片方の手が掴む。強制的に、ソレに振り向かされた。


――おぃしそうだねぇ


 ソレは、異様に大きな目で智香を凝視していた。血走った瞳、高速で萎縮する瞳孔、その中に映った智香の顔が、恐怖に慄いていた。

 声を無くした彼女を面白そうに見つめる。熱っぽい吐息が智香の首筋を撫でると、本能がソレを拒絶した。しかし、もう智香に逃れる術は無かった。


 パカン、と音でも聞こえてきそうなほどにあっさりと口が開かれた。智香の頭が小さく思えるくらいには顎が大きく、口腔内は真っ赤な血の色をしていた。


 智香は絶叫とともに、気を失った。

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