第四話

1


 タクシーを降りて最初に目についたのは、色鮮やかな紫陽花あじさいだった。

 青々とした大きな葉を茂らせて、鞠のような満開の花が天を仰いでいる。定番の赤紫色や瑠璃色、淡い水色、爽やかな黄緑色のものまで実に様々だ。


 朝方に降った雨は花びらの上で細かな粒となり、太陽光を受けて宝石のように煌めいていた。

 その全てが、今日の主役を祝福しているようだ。智香は目を細めた。


 土砂降りにでもなってしまえばいいのに。この花全てが水と泥に流されてしまえば、どんなに胸の内がすっきりとすることだろう。

 とはいえ、そんな願望は智香の想像の域を超えることはない。青すぎるくらいに晴れ渡った空にため息をついて、表の看板を仰ぎ見た。


 高級料亭、蓮乃井はすのい


(わざわざ、ここを結納場所にするなんて)


 創業百年を超える、老舗料亭だった。確かに実家から一番近く、それでいて格式の高い料亭と言えばここになるのだが、何も智香が結納を行った場所であげなくてもいいのではないだろうか。妹は、姉と同じ場所で結納をあげることを、全く気にしなかったのだろうか。


(ただの馬鹿なのか、それとも私へのあてつけなのかしら。どっちにしたって、嫌な子なのには変わりないけど)

「あ! かたつむり!」


 足元から、無邪気な声が聞こえる。幼稚園の制服を身に着けた彼は、いつも通りその格好で遊びまわれると思っているらしい。クリーニングに出して襟の折り目まできちんとついたそれを身に着けて、いくらか身綺麗になっているのに、もう地面にしゃがみ込んでいる。

 ゆっくりと動くかたつむりに手を伸ばそうとしている亮平の手を、慌てて引っ張った。


「だめでしょ、お洋服を汚さないの」

「あー!」


 不満そうな抗議の声は無視する。タクシーの支払いを終えた雄太が、亮平の反対側の手を持った。これで亮平は、もうどこにも逃げられない。


「懐かしいね。またここに来るなんて」


 智香と同じく蓮乃井の看板を見上げて、雄太は別の意味で目を細めていた。

 相変わらずおめでたい人。こっそり心の中で唱えると、三人は門をくぐった。

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