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食器用洗剤を切らしていたんだった。それに気が付いたのは、夕飯を食べて一休みをしたころだ。
濡れただけのスポンジを持ったまま、途方に暮れる。いつもなら詰め替え用まで常備しているのに、今日はそれも無い。
雄太に買ってきてもらおうか――そう考えた矢先に、つけっぱなしにしていたテレビの音が聞こえなくなる。八時になり、雄太が消したのだ。
「よーし亮平、お風呂の時間だ。入るよー」
智香の後ろで、おっふろー! と元気な声が返ってくる。いわゆるパパっ子である亮平にとって、雄太とのお風呂タイムは楽しみの一つだ。
間が悪い。二人は賑やかに準備をしていて、とてもじゃないがこのタイミングでお使いを頼むことは無理そうだった。
(仕方ない……コンビニまで歩くか)
最寄りのコンビニは、美原ヶ丘を下ったところにある。智香の足で歩いて十分ぐらいだ。身に着けていたエプロンを脱いで、脱衣所に向かう雄太の背中に声を投げかけた。
「雄太、ちょっとコンビニ行ってくる」
「あ、そうなの? 分かった、気をつけてな」
「ママ、アイス! アイス食べたい!」
コンビニ、の単語に亮平が反応する。まだ小さい子供だ、幼稚園児だと思っているのに、最近やたらと目ざとくなってきた。
「お前ねー、さっきゼリー食っただろ。ほら、行った行った」
呆れ声の雄太が亮平を追い立てる。亮平は、パパのけちーと甲高い声をあげて風呂場に走っていった。
「なんだとぉう、パパにそんなことを言う子には、お仕置きだぞぉ」
にやりと笑った雄太が、どたどたと音を立てながら亮平のあとを追った。きゃーという嬌声を背中に浴びながら、智香は家を出た。
五月も終わりに近づき、日中はじっとりと汗をかくほど暑くなってきた。だが、太陽が落ちれば湿気のない心地いい夜風が吹いている。
仄かに、夏の香りを含んだ春の夜。どこからか聞こえてくる虫の声に耳を傾けながら、綺麗に舗装された歩道を歩いた。
時間はまだ九時前とはいえ、住宅街は既に静まっている。智香の前にいたはずのサラリーマンがいつの間にか消えると、時折通る車以外の人気は無くなった。
とはいえ、家の明かりと街路灯があるため夜目には困らないし、慣れ親しんだ大通りだ。特段警戒する必要もなく、その時も無心だった。
智香の歩みが止まったのは、家を出て五分もした頃だった。
「ん?」
前方の街路灯の下に、何かがいる。
正確に言うと、それは反対車線側の歩道にいた。一番近いところから数えて三つ目の明かりの下に、ぼうっとした黒いものが見えるのだ。
だが、ここからだとよくわからない。ゆっくりと歩きながら、目を細めてそれが何なのかを見極める。
(何、あれ)
距離が縮まったとき、思わず背筋が凍った。立ち止まると同時に、反射的に鳥肌が走る。冷たい風が吹いてきたからではない。人でも、生き物ですらないものを見たことによる、一種の本能のようなものだった。
黒い、煙のようなもの。向こう側が透けて見えるほど薄っすらとしたそれが、人の形をとって突っ立っていたのだ。
煙ではない証拠に、どこにも火は上がっていない。こんなに風が吹いているのに、ただその場で揺らめくだけ。流されずに形を保っている時点で奇妙だった。
男なのか、女なのかはよく分からない。細くもなく、太ってもいないシルエットだが、遠目から見ても分かる程には、やたらと背だけが高かった。
二メートルくらいはあるかもしれない。股下の足が長く、どこに関節があるかも定かではない腕は、力が無いようにだらりと垂れ下がっていた。
咄嗟に口を押さえて、声が漏れないようにした。油断すると、あまりに不気味なそれに対して悲鳴をあげてしまそうだったからだ。
(幽霊。初めて、見た)
奥歯をぐっと噛み締めた。こういうものを見たためしはなく、純粋な恐怖で心が支配されそうになる。
智香はちらりと進む方向を見た。人工的な光を放つ看板はすぐそこにあり、あと三分も歩けば目的地だ。
しかし、そこに行くためには幽霊の前を通らないといけない。反対車線とはいえ、足がすくんでいた。
どうしよう。智香は再び幽霊に視線を戻した。
相変わらず、ぼうっと突っ立っている。右に左に、海藻のようにゆらゆらとしている。
(あ――)
その時だった。向こう側から、誰かが歩いてくる。帰宅途中のサラリーマンがまた一人、美原ヶ丘を目指して歩いていた。
(あの人、幽霊の真ん前を通る)
智香が見ているとも知らずに、サラリーマンはくわっと口を開けて大あくびをしている。彼は幽霊に気が付いていないようで、手元のスマートフォンに視線を戻すと、足早に幽霊が立っている街路灯に向かう。
(あ、もうダメ。突っ込んじゃう)
歩道はそれほど広くない。このまま歩けば、彼は間違いなく幽霊と正面衝突する。はらはらと見守っていると、彼は智香が見ている前で、幽霊を難なくすり抜けた。
(あの人には、あの幽霊が見えてない……私だけ)
幽霊のほうも、自分の体を通っていったサラリーマンに対して、特別何かをした様子はない。
それを見て、智香はごくりと喉を鳴らした。もしかして、害は無いのだろうか。不気味なのは変わらないが、最初に比べると恐怖心が少しだけ薄らいだ。
意を決した。幽霊から視線を外さずに、走ってコンビニまで向かう。
前を通り過ぎても、何かが起きる様子はなかった。
自動ドアをくぐって、クーラーの効いた空間に足を踏み入れる。
「一体、何なの」
店内に流れる軽快なメロディ。雑誌を立ち読みしている人。アイスを物色しているカップル。
いつもと変わらない、何気ない日常だ。
首を傾げたい気持ちを抑えて、食器用洗剤を手に取った。
「お会計、三百二円ですー」
いかにもだるそうな声だ。何気なく店員の体つきを観察する。制服から生えるひょろりとした腕は白く不健康で、ちらりと覗く二の腕は柔らかい脂肪だらけだ。
手入れのしていない茶色い髪は寝起きのようにぼさぼさで、半開きの目はまだこんな時間なのに眠そうである。
「ありがとっざいやしたぁ」
いざとなれば、ここに来たら助けてくれるだろうか。頼りないアルバイト店員だが、誰もいないよりはマシだろう。
「……いない」
そっとコンビニを出て、再び幽霊がいた場所を確認する。しかし、つい先ほどまでいた幽霊は、跡形もなく消え去っていた。
早歩きで帰りながら、周囲にも目を凝らす。帰りは、何事もなく家に帰ることが出来た。
智香は首を捻った。一体、今の出来事は何だったのだろうか。
(見間違い? 幻覚?)
しばし一人で考えるが、答えが出るわけではない。
『いーち、にーい、さーん』
風呂から、亮平と雄太の声が聞こえる。カウントダウンが始まっているのなら、二人があがってくるのももうすぐだ。
(気味悪かったな。もう見たくない)
疲れているのかもしれない。気を取り直して、台所へ向かった。
今後何度もアレを見る目にあうとは、この時はまだ、考えてもいなかった。
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