3

「はーい、お疲れ様です」


 ぼんやりと目を開ける。視界の中で、アダムが心配そうに智香を覗き込んだ。


「……戻って、きた」

「ここは現実でございます。おかえりなさいませ」


 やたらと重い手をあげて、頬に垂れる涙を拭う。今回の夢は、強烈だった。


「随分とうなされておりました。これ、どうぞ」


 アダムが差し出したのは、蒸しタオルだった。受け取る手が微かに震えている。タオルが思いのほか熱いと感じたが、すぐに気づいた。

 智香の両手が冷えている。血の気がなくて、真っ白に見えた。

 化粧が崩れない程度に、そっと顔にあてがう。香りのついた熱気を吸い込むと、身も心も徐々に落ち着いてきた。


「私は別室にいます。落ち着いたら、戻ってきてくださいね」

「ええ。分かったわ」


 アダムはこうやって、いつも気遣ってくれる。負の余韻を拭い去る時間があるのは、ありがたいことだった。

 落ち着きを取り戻しても、智香のテンションはあがらなかった。いつもなら夢の内容は徐々におぼろげになっていくのに、不思議といつまでも鮮明に思い出すことが出来たからだ。


(由美……すっかり忘れてたな)


 夢の中に出てきた友人とは、大学を卒業して以来疎遠になっていた。

 現実では由美はきちんと就職したし、当時の彼氏を略奪なんかされていない。ただ、会う度に連れてくる男は違っていたから、略奪や二股くらいなら、実際にやっていたのかもしれない。


 直に男性事情を聞いたことはないが、由美に対してどこかふしだらな印象を持っていたのは間違いない。彼女に対するそのようなイメージが、夢の中で悪女として振舞わせたのかもしれなかった。


(幸樹と別れた原因は、由美じゃない)


 十年以上経った今だって、はっきりと思い出すことが出来る。

 それは大学四年生の冬休みだった。就職活動も終わり、卒業に向けた準備と言えば卒業論文を出すのみ。智香と幸樹はのんびりとデートを楽しんでいた。

 映画を見て、買い物をして、流行りのカフェで一休みして、クリスマスの計画を練っていたところだった。


『あれ――お姉ちゃん?』


 聞き慣れすぎた声が耳に届いたときは、時が止まったように体が凍った。


『わぁ、お姉ちゃん! 偶然だね!』


 妹は満面の笑みで近寄ってきた。後ろに彩香と同年代の子が数名いるのを見て、ああ、彩香もここまで遊びに来ていたのか、と納得した。


『え、お姉ちゃんって?』

『あー……妹の彩香』


 幸樹は、智香と彩香を見比べて目を丸くしている。この状況では紹介せざるを得ず、智香は苦い顔をしながら声を出した。


『お姉ちゃん、もしかして彼氏?』

『そうよ。邪魔しないでよね』


 彩香は興味津々そうだ。にやにやと笑っている顔を見て、舌打ちしてやりたい気持ちを堪えた。

 あっちに行ってなさいと言おうとしたところで、ふと智香の胸中に疑問が生じた。なんでこんな遠いところまで来ているのだろうか、と。


 当時智香が住んでいた町は、実家からだと電車を乗り継いで二時間はかかる場所だった。智香より八つ年が離れた彩香はまだ中学二年生で、彩香を溺愛する両親がここまで行動範囲を許容するだろうか、と思ったのだ。


『彩香。母さんか父さんには言ってるの?』

『えっ……とぉ、そのー』


 瞬時に意味を理解した彩香は、バツが悪そうにもじもじとしている。これは両親に内緒で来ている。確信した智香は、呆れ顔で息を吐いた。


『なんでこんな遠いところに来てるの。ダメじゃないの』

『だって……これ、皆と食べたかったんだもん。それに、こっちのほうが遊ぶところあるし』


 彩香が手に持っているのは小豆や白玉が乗った抹茶パフェだった。他の中学生が持っているパフェの色と数を見て、彩香の言う「皆と食べたいもの」を理解する。

 通称、“レインボーパフェ”だ。いちご、オレンジ、パインなど、色がはっきりとしたパフェを揃えることによって、虹に見立てるのだ。写真に収めてはSNSにアップロードする若者が多く、当時のトレンドとなっていた。


『お願い、お父さんとお母さんには内緒にしてて。絶対怒られちゃう――ね、いいでしょ?』


 彩香は焦ったように懇願する。上目遣いの顔は、彩香の得意なそれだった。

 少女らしい幼さと、女性らしい色気を兼ね備えた美貌。

 自分の最大限の魅力は何なのかをきちんと把握し、如何なく発揮できる彼女は、ある意味賢い。勝太郎や智香と比べて、学力では劣る彼女であっても、時としてそれは何よりの武器となる。


 ――でも、私には効かない。


『嫌よ。親との約束を破った彩香が悪いんじゃない』


 小さな口から、えぇ、と声が漏れる。全く取り繕った様子のない、彼女の素の声だ。薄っぺらい猫の皮が剥がれた瞬間だった。

――可愛くしてれば、全部うまくいくとでも思った? ほんと馬鹿な子。


 普段は彩香に甘い父が怒るところを想像して、いい気味だとほくそ笑む。とはいえ彩香の友達がいることだし、両親への告げ口は今日の夜あたりにしてあげよう――そうやって智香が、極まれな仏心をだしたその時、だった。


『可哀そうじゃん。秘密にしてやれよ、智香』


 まさかの方向から、非難の声が飛ぶ。え、と幸樹を見るが、彼は彩香のほうを向いていた。


『これくらいの年齢ってさ、親にしちゃだめって言われることをやる年じゃん。友達とこっそりパフェ食べに来るぐらい、可愛いもんだよ』

『こ、幸樹?』

『智香だってあるだろ? 親の命令に逆らってなにかをしたことの、一つや二つ。ここは一つさ、彩香ちゃんの味方になってやりなよ』


 なんで? どうして? 疑問と不満が、次々と湧き出す。幸樹と彩香はついさっき初めて会ったばかりなのに、どうして自分の彼氏が彩香の肩をもつのか。


『それにさ、なんかお前、さっきから冷たくない? 自分の妹なら、もうちょっと優しくできないの?』


 やっと智香に返ってきたその目を見て、スッ、と胸が冷えた。

 女優やアイドルを眺めるそれが、どこにでもいる大衆を見る目に変わったような、その感覚。智香はこの妹のせいで、それを何百回と経験してきたし、これからも彩香が生きている限り経験していくことになるのだ。


 ああ、こいつもだったか。こいつも、そういうたぐいの人間だったのか。


『ここは俺が智香を説得しておくからさ、ほら、友達のとこ行ってきなよ。楽しんどいで』

『えっ、いいんですか。ありがとうございます!』

『いいよいいよ。またね、彩香ちゃん』


 彩香がまた、猫の皮を被る。しっかりと幸樹の目を覗き込んで、花が咲いたような笑顔を浮かべる。

 これもまた、得意の“お礼スマイル”だった。誰をも満足させる技に、もちろん幸樹も引っかかる。彩香という蜘蛛の糸に、既に何重にも縛られている。


『かっわいいなー。あんな妹がいるなんて、いいなあ智香』


 元気に友達のもとへ去っていった彩香の後ろ姿を見て、名残惜しそうに発した言葉。多分、彼との間に生まれた溝は、この時に出来たのだろう。

 それを境に、幸樹の発言が変わった。恋愛対象はどれぐらい下まで許容出来るかとか、智香の地元に行ってみたいとか、遠出の計画をたてようものなら彩香とその友達を呼んで行こうだとか。


 彩香は何もしていない。偶然カフェで鉢合わせして、姉の彼氏と知り合って、成り行きでかばってもらっただけ。全ては幸樹の興味が妹へと移ってしまったことが破局の要因だ。


 そんなことは、頭の中では理解していた。でも、心は全く追い付かなかった。

 両親と兄から見れば、“姉よりも可愛い末っ子”。友達や歴代の彼氏から見れば、“可愛い彩香ちゃんの姉”。

 いつも智香は二の次だ。小さくて可愛い妹は、常に智香の前に立っている。所詮智香は、“彩香の〇〇”でしかない。

 いつだってそう。昔も、今も。


「失礼します、須藤様。具合はどうですか?」


 控えめなノック音が、思考の底にいた智香の意識を浮上させる。

 リクライニングチェアに腰掛ける智香の顔を、アダムが心配そうに見下ろす。


「お疲れですね。どうします、もう少し休んでおきますか?」

「いえ、大丈夫。ごめんなさい」


 アダムの声がいつもより優しい。彼なりに気遣っているようで、智香は少しだけ微笑んだ。


「今日も、報酬はお振込みでよろしいですか」

「ええ。お願いね」


 夢売りを始めて少し経ったときから、報酬は直接銀行に振り込んでもらうようにしていた。現金を手にした時の充実感はあるものの、大金を手にしていると様々な危険性が伴う。


 ひったくりのような犯罪の危険性と、雄太に見られたときの危険性だ。

 どちらかというと、後者のほうを危惧した。いつかは雄太にも何かを買ってあげるぐらいはしてもいい。だが、今はまだ秘密にしていたいのだ。バレると、色々と面倒だ。


 外に出て、空を見上げた。明るい灰色の雲から、しとしとと小雨が降っている。夢の館から出るといつも太陽を眩しく感じていたが、これくらいならきつさは感じない。


(なんだか、凄く疲れた)


 いつもと比べて体が重い。重労働でもしたあとのような節々の痛みを感じるし、脈打つように頭痛がする。

 彩香に対する負の感情は、いつものことだ。


 こんなに疲れているのはおそらく、友への嫉妬、親からの圧力、自分への忸怩たる思い――そんな感情を、久しぶりに思い出したからだろう。昏い水底に潜む澱を見てしまったような気分だ。出来ればもう、二度と経験したくない。

 違和感を覚えて、口元に手を伸ばした。カサカサとした感触の何かが付いており、そっと剥がすと乾燥した自分の血液だった。


 そういえば夢の中でも、唇を噛んでいた。それがまさか、実際の出来事になってしまっていたとは。

 バッグの中に忍ばせているポーチから、錠剤を取り出す。頭痛薬を飲み込むときに、ふとマインドウォッチが目についた。


 踊るバクゾウ君が弾き出した数字は、七十四になっていた。

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