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 そこは当時の自宅だった。大学生の時、下宿していた狭いアパートの一室。小さな机に座って、智香は一台のパソコンを睨みつけていた。

 震える手が、大手就活サイトを開く。今日の二時に、合否結果を一斉送付すると人事担当が言っていたのだ。


 長針は間もなく、二時一分に達するところである。

 ログインすると、受信ボックスに一通の新着メールが確認出来た。早鐘のように鳴る心臓を抑えようと、鼻から大きく息を吸い込んで、口から大きく吐き出した。


 第一志望の企業だった。主に衣類を取り扱う貿易会社で、海外支社も多数存在する大手だった。

 智香は在学中、名の知れたブランド服を取り扱う店でアルバイトをしていた。きらびやかな服を取り扱う仕事は予想以上に楽しく、卒業後も美しい服に囲まれていたいと考えるようになった。


 それに、智香は昔から英語が得意だった。英文学部に在籍しており、在学中に短期留学を二回、個人的な海外旅行も三回行っている。

 自分の好きなもの、得意なものの両方に携われる仕事は魅力的に映った。


 流暢な英語とまでは言わずとも、スピーキング・ヒアリングどちらも日常会話に問題はない。海外支社でも問題無く働ける、私であれば御社に最大限の貢献が出来る――面接中は必死にアピールした。


 面接官の反応は決して悪くなかった。期待は、今にも割れてしまいそうな風船のように膨らんでいた。


(お願い――)


【最終選考の結果について】


 そのメールに書かれている内容は、選考の結果採用を見送りたいということ、今後の智香の発展を願うということがつらつらと書かれていた。

 いわゆる、”お祈りメール”と呼ばれるものだった。


 智香の心は一気に萎んだ。何が、いけなかったのか。あんなに頑張ったのに、あんなにアピールしたのに。智香の努力は、たかだか数行の無機質な文字列の前に砕け散った。


「どうして」


 思わず口に出すも、眼前の文章に理由など書いてあるはずもない。ただ着飾った綺麗な言葉が並んでいるだけだ。

 ふらふらとベッドに寄ると、糸が切れたように倒れこんだ。


 まるで鉛を背負ったかのように、体が嘘のように重い。全世界から見放されているような感覚で、悔しくて寂しくて仕方が無かった。

 握りしめた手のひらから血が滲む。伸びた爪が皮膚に食い込んでいたことにすら気づかない程、智香の胸中は絶望に満ちていた。


 智香は世間を恨んだ。就職活動というシステムを憎んだ。協調性が大事だと画一的に教育してきたくせに、社会に出ようとした途端に個性を求め、特徴のない人間はつまらないと非難する。


 必死になって見つけ出した自分の特徴や功績も、面接官の気分一つで左右されてしまうのだ。

 自宅には一人しかいなかったが、涙はぐっと堪えた。泣きたい気持ちは山々だったが、ここで泣いてしまえば何かが決壊しそうな気がしたのだ。


 智香の携帯が震えたのは、その時だった。胡乱気にディスプレイを見ると、同じ学部の由美ゆみからだった。

一体何なんだ、このタイミングに。投げやりな気持ちで、乱雑に電話を取る。


「はい」

『あ、智香。最終選考どうだった?』

「え――」


 智香の心臓が大きく鳴った。何で、知っているんだろう。由美にこの企業を受けるなんて、一言も言ってないのだ。


『ふふ、言ってなかったけど、実は彼氏さんが同じところを受けてたの。彼氏さんは、内定とれたんだって!』


 由美には最近、彼氏が出来たばかりだった。同じ学年で違う学部ということのようだが、智香は顔も名前も知らない。

 この大事な時期に彼氏なんか作ってる場合じゃないだろう、自分の彼氏にいつもさん付けなんかして、可愛いとでも思ってるんだろうか――と由美に反発すら覚えていたので、あまり彼女の彼氏の話は聞いていなかった。


 最終選考を思い返したが、個人面接だった。とすれば、智香の先か後に由美の彼氏がいたのだろう。


『もちろん受かったんでしょ?』

「……」


 無邪気な由美。甲高い声が、むき出しの智香の心を容赦なくえぐる。無言の智香に対し、由美はあれれえ? と声をあげた。


『智香、もしかして落ちたの?』

「……うん。彼氏に、おめでとうって伝えてて」


 自分でもびっくりするくらい硬い声だった。今は誰も受け付けたくない、そんな感情を露骨に表していたが、智香には由美を気遣う余裕など無い。それでも最後の理性を振り絞って、どうにか祝福の言葉をかけることが出来た。


 それだけ言えば上等だろう。いけ好かないところはあるにしろ、由美は馬鹿ではない。相手の気持ちや状況を慮ることくらいは出来る子だ。


 とにかく一刻も早く、由美の電話を切りたかった。

 これ以上彼女の声を聞いていたら、自分の中で何かが弾けてしまいそうで。


「ごめん由美、ちょっと体調悪いからもう切るよ」


 早口に嘘を言いながら、通話終了のボタンに指が伸びる。だがその後に続いた由美の言葉に、手が止まった。


『なんだ。智香って、大したことないんだね』

「――」


 息が詰まり、胃の腑が震えた。彼女が言った言葉の意味を理解するのに時間を要し、文字通り智香はぽかんと口を開けた。


 今何て言った――? そう聞き返そうとする智香をよそに、電話口の由美は面白そうに笑っていた。


『もう郁美いくみ春乃はるのも随分前に内定出てるよね。智香のゼミの堂崎どうざきさんだって、木下さんだって――智香が一番頭良かったのに、何でまだ内定ないのかなあ? 卒業まで、あと半年しかないよ?』

「……めて」


 第一志望の、しかも最終選考での落選。それだけでも智香の心はかなりの傷を負っている。

 そればかりではない。智香の個人的な情報を勝手に知られていたことは、立派なプライバシーの侵害だ。


 勝手に覗き見されていた気分で、非常に不愉快だ。

 それに――由美の彼氏がいなければ、内定者の椅子は智香に渡っていたかもしれないのに。


 悔しい。恨めしい。

 奥歯が音を立てて軋んだ。顎が砕けそうなほど力強く、歯ぎしりをしていた。

 これが逆恨みに近いものだという自覚は、心の奥底で気が付いていた。でも、止められない、止まらない。


 自分がなれなかった内定者の情報なんて、知りたくなかった。

 傷口に塩を塗られ、嫉妬の刃が抉る。もはや智香の精神は限界に達そうとしていた。


 そんなタイミングでの、この言葉――あまりにも酷い掛け声では無いか。

 いくら友人でも、言って良いことと悪いことがある。怒りは沸点を通り越し、手足の先を急激に冷やしていった。


 だが、由美の言葉は止まらなかった。智香の気持ちなどお構いなしで、甘ったるい声音は電話口から垂れ流された。


『私は卒業したら彼氏さんと結婚するから、就活なんてしないんだけど。智香大変だね、無能なのに、どこかで働かないといけないなんて。私だったら惨めで死んじゃうかも』

「やめて!」


 叫んで、強制的に電話を切った。ああ、やっぱり無理――と思った瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。お祈りメールを見て必死に抑えていたものが、一気に自分の中から噴き出てくる。


 友達への猛烈な嫉妬が智香を満たした。惨めで、自分が矮小な何かに思えて、無意識に噛んだ唇から血が流れていた。


「智香、いつになったら内定がもらえるの。早く私達を安心させてちょうだい」


 気づけば、母が目の前に立っていた。ここは実家から数県離れていて、すぐに来ることは出来ないはずなのに。

 ちらりと足元を見ると、母は土足で勝手に部屋に入っていた。智香は母を仰ぎ見ることが出来なかった。もう娘には期待出来ないというような、蔑んだ声を聞いただけで、どんな表情をしているのか容易に想像がついた。


「ここまで育ててやってその程度か。情けない」


 母の横に現れた父は、血も涙も無い言葉を浴びせる。

 これが果たして、家族に向ける言葉なのだろうか? 確かに、もう智香は父の期待とは大きく外れているのかもしれないけれど。

 でもこれは、あんまりじゃないか。


「智香、別れよう」

幸樹こうき……」


 当時付き合っていた恋人、幸樹。リクルートスーツに身を包み、智香を見下して立っていた。その腕には、由美がねっとりと絡みついている。


「俺、卒業したら由美と結婚するんだ。お前にはもう飽きた」

「ごめんね智香、悪く思わないでね」


 違う学部の同じ学年。幸樹もそれに当てはまる。確かに智香が就活に励んでいた時期に疎遠になっていたが、ついこの前まで連絡を取り合っていたのに。少し目を離した隙に、由美に幸樹を略奪されていた。


 目の前で交わされる、熱い口づけ。薄く開かれた由美の目が優越感をたっぷりに、智香を見下ろしていた。


「ああ」


 母が、父が、幸樹と由美が、目の前から消える。昼間なのに何故だか薄暗い部屋の中に、机に置いたままのパソコンの光が、煌々と輝いていた。


『貴殿ノ採用ヲぉ』


 いきなり、パソコンから音声が漏れた。驚いて固まる智香をよそに、機械音が部屋に鳴り響く。


『見送リまス』

『今後のゴ活躍ヲ期待、期待、お祈リ』

『益々オ祈り申シ上げマス、マス、貴女ハ不採用、不採用、不採用』


 耳に不快な音声が狂ったように流れ出る。壊れたスピーカーのように、延々と不愉快な言葉を紡ぎだす。

 目を見開いて凝視する智香の前で、パソコンの画面が盛り上がった。宿主の体を食い千切って溢れ出る寄生虫のように、黒くて細いものが次々に躍り出る。


 それは文字だった。”不採用”の三文字がパソコンから這い出て、節足動物のように動き出す。高速でベッドまで移動すると、智香の腕を、肩を、顔を蜘蛛のように這いずり回り、先ほどの機械音で囁いた。


『お前ハ社会ノオ荷物ダ、出来損ナイだ、はみ出シ者ダ!』

「嫌、離れて、気持ち悪い!」


 凄まじい嫌悪感に肌が粟立った。がむしゃらに引き剥がそうとしても、すばしっこく動いて掴めない。智香をあざ笑い、嘲笑の声がいつまでも響き渡る。

 頭がおかしくなりそうだった。いつの間にか血の涙が流れていることに、智香は気づかない。


 声にならない絶叫をあげながら、智香は意識を失った。

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