第三話

1

 扉を開けると、身を包む甘い香り。この匂いにも嗅ぎなれて、今ではほっとするような気分になる。


「いらっしゃいませ須藤様。お待ちしておりました」


 アダムの笑顔はいつも変わらない。奇抜なスーツは色も模様も毎回変わっているが、一様にしてピエロみたいな恰好なのは変わらなかった。

今日はトランプの四つのマークが規則正しく並んだ衣装だった。

 不思議の国のアリスの兵隊が全部一つにまとまれば、こんな服装になるのかもしれない。その考えは口に出さず、智香はにこりと微笑んだ。


「今日はどんな夢にしましょう? 雰囲気やシチュエーションを基準にしても、ご希望金額を基準にしても構いませんよ」

「じゃあ、金額基準にしようかな」


 これまでの最高報酬は、一回六十万円だった。金額があがれば夢の中身も濃くなるが、起きてしまえばどうせあやふやになる。

 起きた直後の精神的なきつさはあるが、報酬を考えればほんのちょっと我慢しさえすれば大金が手に入るのだ。智香はこの夢売りの、常連客になっていた。


「あとちょっとで目標金額が貯まるの。百万円くらいの、ないかな?」


 最初の目標は五百万円にしていた。初めて利用してからおよそ一ヶ月。少なくとも二日に一回は、この夢の館を訪れている。ついに先日四百万円を上回ったのだ。


「そうですねえ……」


 いつも通り、アダムの手元が動く。ピアノでも弾いているように軽やかに、タブレットをタップしていた。

 今日の紅茶は、ローズの香りがする。独特のとろみと甘みが、本当に美味しい。


「では、この辺でいかがですか? 大学生の時と、息子さんの妊娠中にご覧になっているものです」

「うーん、そうねえ」


 どちらも智香の情緒が不安定だった時期と重なる。なかなか就職先が見つからず、周囲の内定報告や両親からの期待に、板挟みになっていた時期。

 もう一つは、臨月にさしかかろうかとしていた時期だ。雄太の仕事が忙しく、なかなか帰ってこなくて不安に感じていた。


 初めての出産は期待よりも不安が勝っていた。出産日は近くなるし、お腹はどんどん大きくなってゆく。ストレスで雄太とも喧嘩ばかりしていた。

 智香は唸った。どちらも出来れば思い出したくない頃のものだ。しかし、少しの我慢で目標を達成出来るのだと思うと、やはり夢を売りたい気持ちのほうが勝る。


「じゃあ……大学生の時ので、お願い」


 散々悩み、就職活動の時を選んだ。怖いものなんか何もない、現実ではきちんと内定を取れたのだから。


「了解しました。ただ、いつもより内容が濃いので、気合を入れて夢を見ないといけません。マインドゲージが結構減りますが、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。九十以上あるから」


 智香は左手に着けている、腕時計型の機械を触った。

 この機械は、二回目にアダムの元を訪れたときに貰ったものだ。


『これはマインドウォッチというものです。大事なものですから、ここに来るときは絶対に身に着けてくださいね』


 アダムの目が、いやに真剣だったのを覚えている。


『これは、夢を売った方の疲労度と精神力を示す装置です。健康な状態を百として、その都度観測します。この数値を、マインドゲージと呼んでいます』


 悪夢を見るという行為は、それを見た者に少なからずストレスを与えるという。客の意向によって一日に何度でも夢売りを行えるが、それにはリスクが存在するのだとか。


『一回の悪夢がどれほどのダメージを与えるのかは、人の精神状態や夢の内容によって変わります。ですが、おおよその目安として覚えていてください。

 この数値が八十以上であれば問題なし、六十から八十の間であれば要注意、それを下回ると危険です』

『危険? 一体どうなるの?』


『なってみないとわかりません、人によります。ですが、須藤様に何かの影響が出てくることは間違いないでしょう。

 しかし、心配には及びませんよ。一度受けたダメージは、時間の経過とともに回復していきます。無理をしなければ、安全に夢売りを続けていけますからね』


 謎めいた説明と言葉。普通契約前に言うことじゃないのかと、一瞬むっとしたが、それほど気に留めなかった。

 確かに夢を売ったあとは必ず数値が下がっている。しかし、すぐに回復していくのだ。念のため様子を見ていたが、一日も経てば、数値は百近くに戻った。


(数字に気を付けてさえいればいいなら、大したことない)


 ボタンを押すと、小さな画面にバクゾウ君が現れる。数秒踊ると、画面に九十五と表示された。アダムに示すと、満足そうに頷いた。

 促されるままに、隣の小部屋に移動する。躊躇なくリクライニングチェアに腰掛けて、慣れた手つきでヘッドホンを装着した。


「では、いってらっしゃいませ」


 目を閉じると、こめかみにチクリと痛みが走った。急激な眠気も、この感覚も、もうすっかり慣れてしまった。

 一気に意識は闇に飲まれ、そして智香は二十二歳に戻っていた。

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