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「はい、終了です」

「――っ!」


 場違いな朗らかな声に反応し、体がびくりと跳ねた。一瞬ここがどこだか分からずに、混乱しそうになる。

 薄暗い部屋。智香を覗き込んでくる男性――そうだ、アダムだ。


「お疲れ様です。どうでした?」

「目……覚めたんですね、私」


 そうでございます、という明るい声にいくらか救われる。ヘッドホンを外してふと頬を触ると、濡れていた。寝ながら、泣いていたらしい。

 アダムは、涙の軌跡を拭う智香に気遣うような視線を投げかけた。


「毎日夢を見ているとはいえ、最初は驚きますよね。やはり見るものは悪夢のたぐいですし、大抵のお客様は顔色を悪くします」


 うんうん、と理解しているかのように大きく頷くアダム。


「私は他の作業もありますので、一旦部屋を辞退します。落ち着いたら、さきほどの

部屋にお越しくださいね」

「ええ、分かりました」


 そういうと、視界から彼が消えた。

 扉が閉まる音がして、智香は大きく息を吐き出した。


(いやな夢……悪夢だから当たり前だけど)


 智香に向けられる非難の目。落胆の声。去っていく背中。

 中学一年生といえば、十三歳。それくらいの子供が見るにしては過激な内容だったように思うが、そんな夢を見てしまうのも無理はなかったのかもしれない。


 父は弁護士だった。旧帝大の法学部に入学し、卒業後に弁護士事務所に所属。仕事をしながら弁護士資格を取得し、独立した。

 サラリーマンなら定年退職となる年齢だが、未だに現役で、きっと死ぬまで法廷に立つ気でいる。今年で十五年目を迎える立派な事務所で、安定して顧客を獲得している、らしい。


 そんな輝かしい経歴を持つ父だが、子供たちに対して昔から厳格だった。中学校までは、テストの点数が九十点以上なら特に何事もなく、八十点以上で機嫌を悪くする。学年順位が二十番以内に入らない時も同様だ。どちらも下回ろうものなら、必ず説教が待っていた。


 幸いにして、兄は父に似た秀才だった。勉強を嫌うこともなく勉強したし、地頭も良い。少し努力するだけで父を満足させることができ、高校は地元トップの進学校、大学は父と同じ旧帝大までストレートで合格してのけた。


 問題は智香だった。


 智香だって、決して悪い成績ではなかった。でも、兄には決して勝てなかった。

兄よりも勉強時間を増やし、父の期待に応えようと、いつか父も兄もぎゃふんと言わせたいと願う一心で、頑張っていた。


 智香が中学校にあがると、それまで易々と取れていた百点も学年上位も取れなくなった。勉強の内容は濃く、科目は増え、他の小学校出身の子に成績を追い抜かれる。


 辛うじて兄と同じ進学校には入学出来たが、成績は真ん中ぐらいにとどまった。第一志望の旧帝大は落ち、滑り止めの私立に入学。その私立大学だって、偏差値は決して悪くなかったはずだったのに。


『その程度の私立にしか進めんとは。ダメだな、お前は』


 私立に進学すると報告して、最初に言われた言葉は、今でも忘れることが出来ない。


(夢を見たのは、中一の冬だった。多分、期末テストの前か後ぐらいかな)


 懐かしい冬服姿を思い出す。既に夏の模試で順位転落の兆候が見えていたため、冬こそは挽回したいと躍起になっていたのだと思う。

 もしも前と一緒だったらどうしよう。もしももっと点数と順位が下がったら怒られる。

 多分、そんな恐怖心があの夢を見させたのだ。


(馬鹿らしい。テストの一つや二つが悪いくらいで、死ぬわけでもないのに)


 学校のテストや順位が全てではない。進学した学校で人生が決まるわけではない。兄とは違った、智香だけが持つ能力だって必ずあるはずだった。

 それも、大人になった今だからこそ言えるわけで。

 あの頃は、家族が全てだった。父に見捨てられたら、見限られたら。中学生の智香にとっては、それこそ世界の終わりに等しかったのだ。


 いざ学業を終えて社会に出てみれば、自分の視野の狭さに恥すら覚えたのだ。世の中は、学校の成績で全てが決まるような、杓子定規なものじゃない。


 ただ、それに気づくのが遅すぎた。


 父がこうあってほしいと願う理想通りの兄と、そうじゃない智香。埋まらない差と、空振りに終わる努力。

 頭では理解していても、父から向けられる視線や言葉の一つ一つが今でもトラウマだ。


 どんなに足掻いても勝てない兄。別に兄が智香に嫌がらせをしてくるわけではなく、純粋に彼は頭が良かっただけだ。でも、どうしてもその存在が、憎い。

 智香は顔を覆って、深い息を吐き出した。


「……戻ろう」


 悪夢から引きずる負の感情を、心の底に追いやる。意識もだいぶ覚醒してきた。


「お疲れ様です。どうぞこちらへ」 


 アダムは既に部屋に戻っていた。先ほど智香が座っていたソファに案内され、再度身を沈める。


「あ、これもしかして」


 智香の目についたのは、机の上に置かれた巨大な瓶だ。

 一升瓶ぐらいのサイズだろうか。もちろん、中身は焼酎や日本酒などの酒ではない。夢を見る前にサンプルで見た紫色の液体が入っている。

 照明を反射して、きらきらと輝いていた。美しさに、目を奪われる。


「これが、今しがた須藤様が見られた悪夢でございます。そうですね、買取価格としては、あまり高いほうではございませんが……それでも綺麗でしょう」


 アダムの言葉に合わせて頷いた。もっと上質な悪夢を実体化したら、一体どんな色になるのだろう。


「ご加減はどうです? 大丈夫ですか?」

「ええ、落ち着きました……あれ、でももう、あやふやになってきた。確かに夢を見たのに、細かいところまで覚えてない」


「夢とは、そういうものです。悪夢ですからどうしても寝覚めは悪いのですが、起きてしまえば、記憶は時間の経過とともに現実の出来事に上塗りされていきますから。どんな悪夢も、すぐに忘れてしまう――それが夢売りのいいところですねえ」


 喋りながら、アダムはチラシを取り出した棚をあけ、数枚の書類を準備した。


「さて、須藤様がこれまで見てきた夢を、少しばかり検索させてもらいましたが――いやあ、まさに宝庫です。先ほどのような軽いものから、獏様が大喜びするものまで揃っていましてね。やろうと思えば、オードブルからメインディッシュまで揃えることが出来そうなほどで」

「はは、そうですか」


 智香はどう反応していいか分からず、苦笑いした。アダムは喜んでいるが、つまり智香が悪夢ばかり見てきたという証拠なのだ。嬉しいかそうでないかで判断すると、あまり嬉しくない。


「私としては、是非ご契約して欲しいと考えておりまして――と、その前に大事なものをお渡ししておきましょう」


 大事なもの、という言葉に、智香の胸が鳴った。アダムの細長い指がスーツの中に潜り込むと、白い封筒を取り出す。


「どうぞ、今回の報酬です」


 相変わらず、シンプルな白い封筒。ガラスのテーブルに置かれたそれを手に取ると、重みと厚みを感じた。


「――!」


 全てピン札。白い紙でひとくくりにされた札束は、パッと見ただけじゃ数えきれない。何万円だろうと疑問に思ったところで、アダムが「三十万円です」と補足した。


「さん、じゅうまん、えん」


 聞きなれた自分の声じゃないみたいだ。頭の真ん中がふわふわしている。


「うそ……たった一回、夢を見ただけなのに。本当に、こんなに貰っていいんですか」

「はい、もちろん。相応の対価ですから」


 アダムの笑顔が眩しい。彼が、天使に見えてきそうだ。


「ご契約して頂けましたら、本格的に夢売りを開始していくことになります。須藤様には、最低限月に一度はこちらに訪れてもらい、夢を売るという義務が生じることになりますが、基本的には何度来ていただいても、一日に何個売っていただいても結構です。

 この取引を辞めたいときは、こちらの規約に則って、契約解除という流れになります」


 アダムが指した書類には、“継続的取引基本契約書”の文字が綴られている。その書類をくるりと裏返すと、細かい文字がびっしりと書かれてあった。


「う、わ。こんなに沢山」

「規約は熟読してください。ご納得いただけましたら、表面にサインをお願いします。印鑑は、次回ご来店時の押印で結構ですので」


 智香は目を細めた。ざっと目を滑らせるが、硬く難しそうな言葉がずらずらと並んでいた。担保とか、包括とか、普通に生活しているだけでは使わないような単語だ。


(まあ……いっか。お金が、こんなに貰えるんなら)


 智香はペンを取ると、契約者の欄に名前を書いた。押印欄を空けて、静かにペンを置く。


「ありがとうございます」


 書き終えたところで、アダムがさっと契約書を回収した。不備が無いことを確認すると、別室に契約書を持っていく。次に部屋に戻ってきたときには、アダムが大きな紙袋を持って来た。


「こちらどうぞ、ご契約者様への特典です」

「……バクゾウ君」


 袋の中身を覗き込んでみると、プラスチック製の円らな瞳が智香を見返してきた。


「次回のご来店は、一ヶ月以内にお願いします。何回来てくださっても結構ですからね。お待ちしていますよ」


 外に出ると、太陽の光がやけに眩しく感じられた。

 智香はしばらく呆然としていた。ゆるゆると時計を見ると、この店に入ってから三時間が経過していた。


(私、まるで白昼夢でも見たような――ううん、白昼に夢を、見たのよね)


 夢の中で、さらに夢を見ていたような、変な感覚。嘘のような出来事だが、嘘でないことは智香のバッグの中にある白い封筒と、紙袋の中のバクゾウ君が物語っていた。


「三十五万円」


 改めて、その重みを感じる。

 自分が社会人として働いていたとき、どれぐらい貰っていただろうと記憶を辿る。

 新卒で入ったばかりのころは、これよりももっと低い手取りだった。二年目か三年目になって、手取りでこれぐらいを貰えていたと思う。


 残業して、休日出勤して、やっとそれくらいだったはずだ。


(でも今回は、三時間しか経ってない)


 時給に換算して鳥肌が立った。たった三時間しか経っていないのに、一ヶ月分の給与に相当する金額を稼いだことになるのだ。嘘じゃないかと何度も自分の頬を叩いたりつねったりしてみるが、手元の金は間違いなく、ここにある。


 震える手で封筒をバッグに突っ込んだ。


「嘘じゃ、なかった」


 こうして智香の日常は、一日にして変貌を遂げたのである。

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