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「智香! ちょっと降りてきなさい!」


 気づけば智香は、実家にいた。見慣れた自分の部屋の真ん中で、何故か体操座りをしている。勉強机の横に懐かしい中学校の鞄がかけられていた。目の前に姿見の鏡が置いてあり、目を丸くしてまじまじと自分を観察する。


(私、制服着てる。冬服? 眉毛も剃ってない、お化粧もしてない、地味な一つ結び……)

「はーい、今行く」


 口が勝手に動いた。でも、大人の智香としての意識がある。体を乗っ取られたかのような不思議な感覚だった。


 もっと昔の自分を見ていたいのに、体が後ろを向いて居間に向かう。昔のままの部屋を懐かしいと思う自分と、母の声にうんざりする中学生の自分とが混在していた。

 智香の部屋は二階の一番端っこで、途中に妹と兄の部屋に繋がるドアを見かけた。どちらもぴったりと閉じられているが、果たして二人は在宅しているのだろうか。


 中学生の智香の足取りは重い。ゆっくりと母の元まで向かう。


「これは何? 数学も国語も、英語も赤点じゃない」


 居間には目を吊り上げた母が、仁王立ちしていた。

 ご丁寧に智香のテスト用紙を机に並べて、きぃきぃと怒鳴っている。確か、この時期の智香は反抗期真っただ中だった。テスト用紙を素直に親に渡すはずがないのに、不思議と全教科分揃っていた。


「このザマはなに? 一言くらい、なにか言うことがあるでしょう」

「……うるさい。別に、無い」

「うるさいとは何だ。見ろ、勝太郎は今回も学年トップだったんだぞ。その妹のお前がこの結果で、恥ずかしくないのか」


 いつの間にか父が加わった。いや、父だけじゃない。制服姿の兄が、満点のテスト用紙を抱えて意地悪な笑顔を向けている。

 同居していないはずの祖父と祖母や、叔母や従兄弟が智香を取り囲んでいた。皆して智香を睨み、鬼のような形相で口を開いている。


 母に対して反抗したときの威勢はどこへやら。多勢に無勢となると、智香の中に焦燥感と恐怖心が一気に溢れる。

 この場を逃れるためにはどうすればいい。言い訳でもなんでもいい、皆を納得させる理由を言わねば、智香の袋叩きが続いてしまう。


――くす。


 ふいに聞こえた嘲笑の声。顔をあげると、父の後ろでこちらを見つめる妹が目についた。


(そうだ、確かこの時、彩香が勉強の邪魔をしたんだっけ)


 テスト勉強をしている智香の部屋に、妹が頻繁に遊びに来たのだ。邪魔だと叱っても姉の勉強を妨害するのに躍起になって、結局喧嘩に発展して全然勉強が出来なかったのだ。

 逃げ道を確保した。憎い妹の悪事を暴露してやろうと、彩香を指差して口を開いた。


「彩香が悪い、勉強の邪魔ばっかりしてきたの!」

「人を指差すなんてはしたない、やめなさい!」


 即座に母の手が伸びてくる。智香の手は叩くように払われて、鋭い痛みが走った。


「またそうやって言い訳ばかり! 彩香がそんなことをするわけないでしょう、人のせいにするなんて悪い子のすることよ!」

「そうだ智香。まだ小学生にもなってない子が、そんな意地悪するものか! みっともないぞ!」

「そんな……だって、本当にことなのに」


 智香の主張はあっけなく散った。父の後ろであっかんべぇをしている彩香を見て、頭に血が昇りそうだ。

 妹の肩しか持たない両親に対しても、自分の主張が一切通らない理不尽さに対しても、様々な感情が昂っている。気を落ち着かせないと、このままでは妹に襲い掛かってしまいそうだった。


 そんな智香に対して、両親はさらに追い打ちをかけてくる。


「勝太郎はきちんと結果を出して、本当に親孝行。それに比べて智香、あなたはどうなの。毎月の塾代だって馬鹿にならないのよ。一体これまで、どれだけあなたにかけてきたと思っているの⁉」

「私、別に塾に行きたいなんて一言も言ってない。お母さんが勝手に決めたんじゃない」

「なんですって⁉ 親に向かってその態度は何なの!」


 智香を責める母の口調は荒い。ヒステリックに叫ぶ声が耳に突き刺さる。隣に立つ父は、固い顔をして腕組みをしていた。


「智香」


 その父に名前を呼ばれて、体がびくりと震えた。この口調で、この声音で名前を呼ばれたくない。


「お前は、もうダメだ」


 興奮した母と対照的な、落ち着いた声。でも、智香にとっては母に口汚くなじられるよりも、父のこの言葉が、一番堪えるのだ。


「あ……」


 次第に、周りの親戚がざわめきだす。熱気を帯びるこの場の空気から、父だけは背を向けた。自慢の息子とまだ幼い妹の肩を抱いて、去っていった。

 俺の子供は勝太郎と彩香だけだ。何も言わない広い背中はそう語り、智香に拒絶の意を示した。


 待って、待ってお父さん、置いていかないで。その声は、いくら訴えても、もう届きそうになかった。

 ちらりと振り返った彩香が、優越感を帯びた目でにやりと笑った。


 あーあ、お姉ちゃん可哀そう。でもごめんね、可愛いのは私なんだって。


 そんなことを言いたくてたまらないような笑顔が、智香の心にぐさりと突き刺さる。


「一族の恥だ」


 それは叔父の声だった。ぽつりと投げ出された言葉を皮切りに、祖母や、従兄弟や、色々な親戚が、言いたい放題野次を飛ばしてくる。


「出来損ない」

「お前なんかいらないよ」

「君がいなくなったって誰も困らない。勝太郎君も彩香ちゃんも、君と違って出来の良い子だ」


 君なんて言わないで。名前で呼んで。

 自分の家なのに、とてつもない居心地の悪さを感じる。怖くて怖くて、その場に縮こまった。


 確かにテストで悪い点を取ったのは智香だ。でも、何でここまで責められなきゃいけないのだろう。

 一度の失敗も許されないの? 誰も私の声を聞いてくれないの? その想いが溢れるように、ぽろぽろと涙がこぼれる。絨毯に染みを作ってゆっくりと吸い込まれていく。


「お……母さん」


 父と兄妹が去っても、母はまだその場に突っ立っていた。親戚に罵倒される智香をじっと見下ろしている。

 まだ、母がいる。


「ごめんなさい……ごめんなさい、次はいい点取るから、ごめんなさい」


 周囲の圧の強さに、智香は参っていた。

 いいよ、仕方ないね。次は頑張ろう。


 罵倒されなければなんでもいい。一つでいいから、そんな言葉が欲しかった。

もはや妹が勉強を邪魔した事実はどうでもよくなっていた。許して欲しい、助けてほしい。その一心で、謝罪の言葉をつぶやき続けた。

 母は笑った。いつも浮かべる笑顔だ。智香は目を見開いた。


「お母さんの子供は、勝太郎と彩香だけよ」


 スッと無表情になる母。瞬時に、智香を見る視線が変わる。まるで、虫でも見るような冷たい目。

 それを最後に、母も背を向けた。父の後を追うように、智香から遠ざかっていく。


「出てけ」


 馬鹿にするように言い出したのは誰だろう。それを皮切りに、周囲の親戚は狂ったように笑い始めた。

 容赦ない哄笑が、あられのように降り注ぐ。うずくまる智香は、気づけば小さくなり、周りの人間は見上げる程高くなっていた。


 智香はたまらず逃げ出した。引き留める人は、誰もいない。

 家の外にはたくさんの人がいた。昔馴染みの近所の人、友達のゆっちゃん、中学校の先生に、小学校の先生までいた。どれも見知った顔なのに、その全てが智香を責める表情だ。


 走って走って、やがて知らない人ばかりの町に辿り着く。全員が智香をじっと見ていた。助けてくれそうな人は、誰も、どこにもいない。


「ごめんなさい、ごめんなさい……誰か、助けて」


 声が震える。虚空に放たれた言葉に呼応するものは無かった。

 智香は、この世界で一人だ。

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