第二話

1

「獏、という存在をご存知ですか?」

「チラシに描いてあった、イラストの?」


 アダムは楽しそうに笑った。彼の背後にあったアンティーク風の棚から、二種類の紙とペンを持ち出す。智香が家で見たチラシと、もう一枚は印刷用紙のような真っ白な紙だ。アダムは白い紙に、二つの単語を書き並べた。


 バクと、獏。


「今須藤様がおっしゃったものは、バクと呼ばれる動物ですね。バクにもいろんな種類がおりますが、その多くは南アメリカやアジアに生息しています。このチラシに描かれているものは、マレーバクと呼ばれる種類にあたります。

 ほら、見た目が特徴的で愛らしいでしょう。白と黒でパンダっぽいというか。うちのシンボルにもなっていて、バクゾウ君って呼んでおります」


 ここでアダムは、一旦席を立った。別室に行ったかと思うとすぐに智香のもとに戻る。その手に、およそ五十センチほどあろうかというぬいぐるみを抱えていた。


「これがバクゾウ君。このサイズだと、抱き枕になってちょうどいいんですよ」


 アダムは満面の笑みを浮かべると、バクゾウ君をぎゅうっと抱きしめた。腕の中でバクゾウ君の顔がぐにゃりと潰れる。


「でも、僕がさっき言ったバクは、こっち」


 アダムはバクゾウ君を自身の隣に置くと、白紙に書かれたもう一つの単語を指差した。獏のほうだ。


「名前の響きは一緒ですけど、この二つは全く異なります。バクはあくまでも、動物のバク。我らと同じようにモノを食べ、寝て、子孫を作り出すものですね。

 ところがこちらの獏は中国の霊獣です。特に人の悪夢を食べる伝説の生き物なんですね――これは有名ですから、ご存知かもしれませんが」

「はあ……」


 獏が夢喰いと呼ばれていることは、おぼろげに知っていた。昔読んだ本の中に出てきたような気がする。しかしまさか、こんな時に改めて獏の解説を受けるだなんて、いったいどこの誰が想像しただろう。


「ですが、それは嘘です。何が嘘かというと、獏が伝説上の生き物だということ。本当は実在しておりまして、ここの店長であり、そして私の主人なのです。つまり、私は獏様の従業員であり、しもべ、ということになりますね」

「はあ、そうですか。店長さん、ご主人様。アダムさんは、従業員で、しもべ」

「呼び捨てで構いません。アダムとお呼びください」


 彼が嘘をついているようには見えない。むしろ自信満々に語るアダムだが、智香は自分がその説明に追いついているのかどうなのか、よく分からなくなってきた。

 頭の真ん中が麻痺している。冷めかけた紅茶は冷えても美味しくて、つい口に運んでしまう。とろんとした舌ざわりが、智香の中に芽生える疑心を溶かしてくれた。


 夢を売るとか、霊獣とか、全部非現実的だ。でも、それが一体なんだというのだろう? すぐにお金をくれた親切な男が言うのだから、真実なのかもしれない。


「じゃあ、その店長さんは、この部屋の奥にいらっしゃるんですか」

「いえ、いませんよ。店長は多忙ですから、ここはほぼ私一人が切り盛りしているようなものですね」


「大変ですね。じゃあアダムさ――アダムは、ご主人様の下で、何をしているんですか」

「例えばレストランなんかで食事を用意する人のこと、ウェイターもしくは給仕って言いますよね。イメージは、そんな感じです。良質な美味しい悪夢を世界中の人から集めて、獏様に献上する――それが、私のお仕事」


 アダムは下を向くと、悲しそうなため息を吐きだした。真横にいるバクゾウ君の頭を、まるでペットのように撫でる。


「昔は別に、こんなことをしなくても良かったんです。人々が悪夢を見たときに、食べて欲しい、見た夢をあげますと願ったことから、それらを獏様が糧にしていたのです。これが、獏が夢喰いと呼ばれる所以になります。


 ところが、時代を経て獏様への信仰が薄くなりました。そもそも獏様を知らない人も増え、次第に提供される夢も少なくなってきたのですね。

 ですから、獏様は立ち上がりました。悪夢を貰うのではなく、人々から買おうと――それが、この夢売りの始まりにございます。いくらご自身が神だの霊獣だのと言っても、もう人々から夢や信仰心を貰い受けるだけの存在では生き残ってはいけないのです。これからはギブアンドテイクの時代なのだと、感じられたのでございます」


 ふぅん、と智香は声を漏らした。

 理屈としては理解出来る。企業で例えるなら、従来のやり方では顧客の確保が難しくなったため、事業転換した、ということになるのだろう。神様の世界も大変そうだと思えば、目の前のアダムが急に不憫に見えてきた。


「話は分かりましたけど、じゃあ、神様の世界の資金源ってどうなっているんでしょう? アダム達が夢を買うばかりなら、すぐに赤字になってしまいますよね」


 アダムは智香のほうに振り返った。謎めいた笑みを浮かべて、「いい質問ですね」と語りかける。しかし、右手の人差し指を唇にあてた。


「それは、まだ秘密です。もしも夢売りを続けていけばいずれ分かる事ですし、あくまでも今は契約前ですからね」


 守秘義務ってやつです、とアダムは続けた。


「さて、次に夢を売る方法ですが」


 そこまで言うと、彼はおもむろに立ち上がった。ちょうど智香の真横にあった扉を開ける。どうぞこちらに、の声を受けて、智香は小部屋に入った。

 甘い香りが一層強くなった。どうやらこの店に入ってきたときに感じた香は、主にここで焚いているらしい。


 部屋の隅に置かれた間接照明が、夕日のような色で輝いている。一分もここで目を瞑っていたら、すぐにでも寝てしまいそうだ。


「これが、夢を回収する装置です」

「マッサージチェア?」

「に、見えるでしょう。夢を売っている間、お客様は睡眠状態になるため、このような見た目をしているんですよ」


 智香の目の前には、黒光りするチェアが置かれていた。近寄ってしげしげと見てみるが、見慣れたマッサージ部分が見当たらない。どうやら、ただのリクライニングチェアのようだ。

 アダムもチェアに近づく。智香の目の前で屈んだかと思うと、足元から何かを引っ張り出してきた。


「ヘッドホン、ですか」

「リクライニングチェアに寝たあとは、このヘッドホンを装着してもらいます。ヘッドホンをつけている間は夢を回想するので、このコードをずっと伝って、夢がこちら側に回収されるのです」


 アダムの説明通りに目を滑らせる。ヘッドホンのようなものは長い有線で繋がっていて、それはチェアの足元と繋がっている。更にチェアから別の有線が伸びていて、それはそのまま壁際の機械に繋がっていた。

 大人の腰くらいまでの高さだ。今は、モニター部分が真っ黒だった。


「データ化された夢は、隣の部屋で特殊製法により実体化させます。これが、そのサンプルです」


 アダムは胸ポケットを探ると、一つの小瓶を取り出した。思わず声を出した智香に、そっと瓶を差し出した。


「綺麗」

「そうでしょう。実際はもっと大きな瓶に詰められるんですよ」


 手のひらに収まるほど小さな瓶の中に入っていたのは、紫色の液体だった。

 とろりとしている。星の光を散りばめたように光を放っていて、如何いかんともしがたい魅惑を持っていた。


「悪夢の内容によって、色の濃度や発光具合が変化します。これは最低価格の部類に入るものですね。高額になるほど、それはそれは美しくなるのですよ」


 データ化した夢がどうやってこうなるのかという疑問が湧いたが、特殊製法という言葉を思い出して聞かなかった。きっとまた唇に指をあてて、「秘密です」と言うからだ。


「さて、それでは早速」


 智香の手から素早く小瓶を回収したアダムは、目の前のチェアを指し示した。


「どうです。一度、体験してみませんか、夢売り」

「え、今?」

「もちろん今です。夢を売るだなんて、滅多にない機会ですし。古来から百聞は一見に如かずと言いますから。まあ、もちろん無理強いはしませんが――」


 アダムは意味ありげに言葉を切った。智香を見下ろして、勿体ぶるように声を潜めた。


「初回サービスで、軽めの悪夢でも今なら相場から十万円アップでお引き取り致しますよ」


 十万円アップ、の単語に胸がざわめく。智香の脳内で冷静な判断をしろと言っていた自分の声は、今やすっかり小さくなっていた。


「今回だけやってみて、もう来ない……なんてことも、出来ますか?」

「ええもちろんです。お客様は神様ですからね。私の立場上、営業案内はさせてもらいますが、押し売りのようなことは一切しませんよ。全てのご判断と決定権は、あくまでも須藤様にございます」


 そういえば、私の主人も神様みたいなものなんですけどねえ、とおどけた口調で言う彼は、余裕の構えを崩さない。

 智香は躊躇いがちに、ゆっくりと、リクライニングチェアに腰掛けた。


「では、夢売り体験のご説明です。最初は、これまで須藤様が見てきた夢を総ざらいします。一分ほどで終わると思いますので、これを装着して下さい」 


 嬉々とした声。どきどきと鳴る心臓を意識しながら、智香はヘッドホンをつけた。

 先ほどのソファと同じように、クッション部分は埋まりそうなほど柔らかい。チェアの後ろで、機械が息を吹き返したような唸り声をあげた。


「ではいきますよ。少しだけチクリとするかもしれませんが、ご心配なく」


 そのすぐあとだった。ヘッドホンのすぐ上あたり、智香の右のこめかみから左のこめかみ部分にかけて、針でつついたような痛みを感じた。微弱な電気が走ったような感覚だ。

 だが、これといってその他の変化はない。しばらく無音が続くと、段々瞼が重くなってくる。


「ああ、これは――すごい」


 意識が沈みかけたところで、アダムの声が耳に入る。智香に話しかけたというよりも、興奮した気分がそのまま口に出てしまったような感じだ。案の定、アダムはその後に智香に話しかけてくる気配がない。


 一分とは、こんなにも長い時間だっただろうか。いよいよ眠くなりかけたところで、ようやくアダムがチェアを回り込んで、智香の視界に入ってきた。


「お待たせいたしました。いや、すごい。なかなかのボリュームで腕が鳴りました。須藤様、夢を見やすいほうではございませんか」

「ええ、多分そうだと思います」


 バキバキと肩を鳴らすような動作を、ぼんやりと見つめる。確かにその通りで、智香が夢を見ない日はほとんど無い。

 それに気が付いたのは、雄太と結婚してからだ。雄太は逆にほとんど夢を見ないという。智香は未だに怖い夢を見ては真夜中に飛び起きることがあるというのに、その体質を何度羨ましく思ったことか。


「ああ、ありがたいです。夢をたくさん見れば見るほど、上質な悪夢が発掘される可能性が高いのです。つまり、私も仕事がしやすい。獏様もお喜びになるんです」


 眠い。今の智香はそれしか考えられないくらいに、急激な眠気に襲われていた。

 部屋をゆるやかに照らすオレンジ色の光。甘美な匂い。体を柔らかく受け止めるチェア。アダムが話しかけてこないと、すぐに意識が飛びそうだ。


「それで、私なりに手ごろな悪夢を探してみたんですが。このあたりなんかどうでしょう?」


 アダムは、いつの間にかタブレットを手にしていた。数度タップして、ずいっと智香に画面を向けた。

 三つのアドレスが表示されている。


「一つ目は、小学二年生の時に見たものです。かくれんぼをしていて、いつの間にか皆に置いてけぼりにされてしまうようです。

 二つ目は、中学一年生の時のものです。模試で酷い点数をとってしまい、親御さんに怒られる夢ですね。

 三つ目は最近見たもので、息子さんの教育方針について旦那さんと言い合いになる夢ですね。

 一つ目と二つ目はもう覚えてないと思いますけど、どれにしましょうか?」


 三つ目の夢の説明を聞いた時、智香はぞっとした。確かに最近、そんな夢を見たのだ。本当に、あの数分でこれまで見てきた夢を読み取ったのだろうか。


「質問いいですか」

「ええ、どうぞ」

「さっき私の夢をスキャンしたって言ってましたけど、どういうことですか? スキャンしたのに、改めて私の脳内から夢を抜き取るってことなんですか?」


「そうですね――例えるなら、私からすれば、それは言わば夢のタイトルを見たに過ぎないのです」

「……?」


「例えばお客様が、DVDを買いにお店へ行くとします。そこには膨大な数の映像作品が陳列されていて、パッケージにはあらすじが書いてありますよね。

でも、そこまでしかわからない。その作品の中身は、見てみるまで分からないでしょう? つまり僕が先ほどのスキャンで行ったことは、お店に行ってどんな作品があるのか見て回っただけ、ということなんです」


「じゃあ、実際に面白そうな映画――ここでは夢ですか――を買い取らないことには、あなた達の取引は成り立たないってわけですね」

「仰る通りです。ですからお客様が夢を売るには、その夢をもう一度見てもらう必要があります」


「もう一度、見る? あ――回想って、そういうこと」

「はい、そういうことです。ヘッドホンをつけてもらえば、後は私にお任せください。須藤様が夢を見ている間、私がコチラ側でその夢をデータ化します。別室にある機械が、同時並行で実体化し、先ほどのように瓶詰されていきます。

 須藤様はこのチェアで、ヘッドホンを装着して寝るだけです。目覚めた時には全てが終わっております」


「……じゃあ、真ん中でお願いします。その、夢」

「親御さんに怒られる夢ですね。いってらっしゃいませ」


 アダムが手に持つタブレットが揺れている。

 ここまで眠くなるのも久しぶりだ。今日はどうしてしまったんだろうか。


 急速にアダムの声が遠のいた。ギリギリのところで保っていたコップの水が決壊したように、眠気が溢れる。

 今度こそそれに飲み込まれ、視界が暗転した。

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