5
「――結婚?」
咄嗟に出た自分の声音は、驚くほど素っ頓狂だった。
ごく普通の、平日の朝。亮平を幼稚園まで送り届けた時、実家から着信が入っていたことに気が付いたのだ。
母にしろ父にしろ、彼らは智香に明確な用事がなければ連絡を入れない。折り返し電話をかけるのを億劫に思いながらも、すぐに電話をかけた。
幼稚園からの帰りであれば、話が長引きそうになっても何かと都合をつけて電話を切りやすいからだ。
そしてそこで聞かされたのは、妹の
『そぉなのよー、おめでたいでしょう』
電話口の実母の声は、まるで自分のことのように浮足立っていた。あまりにも対照的すぎて、智香の顔が引き攣る。
『しかもね、お相手は、
「花田病院――」
聞き覚えのありすぎる病院名。智香を含めた兄妹全員が、幼少時からそこに罹っていた。
外科・内科をはじめとし、一通りの診療は受診出来る総合病院だ。地元で知らない人はいないくらいには、大きい。
「どうして、彩香が花田病院――そんなの、一回も聞いたことない」
『そんなのって、彩香に彼氏がいたこと?』
きょとん。母は不思議そうだった。
『智香、あなたが家に来ないからじゃない。彩香は社会人になってから、頻繁に寄ってくれたから、それで母さんは知ってたけど――』
「付き合いは長いの? どこで知り合ったの?」
『どこで知り合ったのかまでは知らないわよ。でも、社会人になってから付き合い始めたみたいだから……そうね、一年以上は経ってるんじゃないかしら』
智香が発言を遮ったからなのか、母は若干不機嫌になった。
しかし、今の智香にはそんなことはどうでもいいことだった。スマートフォンを握る手が固まってしまったかのようで、口の中がからからに乾いている。
黙ったままの智香に呆れるように、母はため息まじりに話を続けた。
『とにかくそういうことだから、来月お相手のご家族と顔合わせがあるのよ。しっかりしたご家庭だから、家族みんなで参加して頂戴。勝太郎のところもそうするって。細かい日程が決まったらまた連絡するから』
ぶつん。一方的に切られた電話が、ツーツーと一定間隔で音を鳴らし続ける。
「彩香が……医者と結婚」
あまりに驚愕しすぎて、呆然とする。鳴いている蝉の声がいやに遠く、水の中にでもいるように、世界が遠く感じた。
(また、また彩香のほうが、上になる――)
真っ白な肌。小さな顔。ぱっちりとした二重。母譲りの美貌を色濃く受け継いだ彩香は、その謙虚な性格から男女問わず誰からも可愛がられる。
見た目だけじゃなくて、中身も可愛い彩香ちゃん――彼女は昔から、両親自慢の末娘だ。
智香は知らぬうちに、歯ぎしりしていた。乱雑にスマートフォンをバッグに仕舞いこみ、自転車に跨る。
(嫌よ、彩香の下になるのは)
智香の中のピラミッドがぐらついている。
昔から可愛さに秀でていた彩香だったが、大学を出て就職したのは意外にも地方銀行の一般職だった。
なろうと思えばモデルの道だって進めるほどには可愛い。大学ブランドだってそこそこあったのだから、彼女なら上を目指せばもっといい就職先だって見つけられたはずなのだ。
本人が選んだ道だから口出ししないだけで、智香のみならず、兄や両親でさえ、それを疑問に思っていたのだ。
数ある選択肢の中で、何故そこを選んだのか――まだ彩香が大学に在籍していた時の、正月。一族が集まったその席で、何気なく義姉が聞いていた。
智香は、その時の答えを、今でもはっきりと覚えている。
“お父さんとお母さんの近くにいたら、これまで育ててもらった恩返しが出来ますから”
恥ずかしそうに、はにかむように笑いながら言う彩香。聞けば、兄は転勤の可能性があり、当時は県外で働いていた智香も将来どうなるか分からなかったことから、就職は地元ですると決めていたのだという。
純粋無垢な少女がそのまま大人になったようで、その言葉を聞いただけで両親は嬉し涙を流していた。
なんて親思いな子。なんて優しい子。新年の宴は、そんなほっこりした空気に包まれた。
氷点下まで気持ちが冷めていったのは、きっとその場に一人しかいなかったのだろう。
――何それ。偽善ぶって、気持ち悪い。
こんな子だから、智香は彩香のことが嫌いなのだ。同じ両親を持つ妹でも、智香は両親に対して、決してそんな風には思えない。
智香にとって幸いというべきか、それから彩香は地味な見た目になった。おそらく銀行の規定だろう。染めていた髪は黒くなり、細い指先からネイルが消えた。
持ち前の可愛さは相変わらずだったが、それでも彩香から華やかさが格段に失われた。
大学生の時から一人暮らしをしていた彩香だが、「もう社会人だから」と親からの資金援助を一切断っていたらしい。
一般職でそんなに給与だって良くないくせに、一丁前にそんなことをいうものだから、決して裕福な暮らしは出来なかったはずだ。会う度に化粧はナチュラルになっていき、機能性や実用性を重視したシンプルな服装が増えていった。
量販店にあるようなスカートやトップス。品のあるコートやジャンパーを着ているかと思えば、それは二年前から彼女が着回ししているものだった。
パッと見れば綺麗に見えるそれも、智香の目は欺けない。袖口のほつれを見つけては、誤魔化そうとした彼女の貧相さを見つけたようで、嬉々とした。
(その彩香が、医者と――)
花田病院は昔からある病院だ。婚約者がそこの息子というのなら、おそらく現院長の跡取りなのだろう。
彩香の将来は安泰。富も地元での名声も、彼女は易々と手中に収めてしまった。
医者の妻ともなれば、当然彩香は今よりも綺麗になるはずだ。
どうすればいい? どうすれば、彩香よりも上になれるだろう?
(……お金が、あれば)
持ち前の美貌は、彩香に負ける。だが、智香だって美人の部類に入るほどには、顔は整っている。
もっといい化粧品を使って、もっと綺麗な服を着て。彩香よりも、良いもので着飾れば、あるいは勝てるかもしれない。
“高額な報酬をお約束いたしましょう。さあまずは、お近くの店舗にご来店を。いつでもお待ちしています”
鮮やかに蘇る、テノールの声。
智香の自転車は、自然と美原商店街のほうへと進んでいた。
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