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 次の日。すこぶる機嫌が良さそうな夫を横目で見つつ、いつも通り朝の支度をした。やっぱ肌の調子がいいなあ、とぼやく夫をつつくようにして見送る。

 雄太が出かけた後に、すぐに亮平を幼稚園に送らねばならない。朝ごはんを食べ終わったことを確認し、洗面所まで連れていく時に、亮平がまじまじと智香を見ていることに気が付いた。


「なあに、亮平。ママの顔になにかついてるの?」


 そう声をかけると、彼の眉毛が、みるみるハの字に変化していった。


「ママ、首。かゆい? いたい?」


と首を傾げた。一瞬何のことかと分からなかったが、すぐに昨夜の情事を思い出す。雄太は、そういった痕跡を残すことが好きだ。


(首だけは止めてって、いつも言ってるのに!)


 にやりと笑う夫の顔が思い浮かんで、歯噛みする。絶対に後で文句を言ってやると決意しつつ、虫刺されを心配する息子に大丈夫だよと声をかけた。

 しっかりと痕を隠したいのは山々だが、亮平の幼稚園の時間が迫っている。已む無くタンスの中から襟のある服を選び、急いで鏡でチェックする。


 長袖のシャツは、今の時期にはさすがに暑くて不釣り合いだ。しかし今は、生憎それしか見当たらなかった。

 舌打ちしながら、鏡の中の自分を隈なく観察する。角度に気を付ければ痕は見えないようだったので、その服で送り届けることにした。

 なるべく知り合いに見つからないよう、細心の注意を払いながら。


「おはようございます、須藤さん」


 幼稚園の先生は小首を傾げて智香の格好を見たが、何事もないように朝の挨拶をしてくれた。よろしくお願いしますと声をかけると、愛想笑いを浮かべて足早に立ち去った。これじゃあまるで怪しい人みたいだ、と智香はため息を吐いた。


「ああ、もう……最悪。これじゃ外に出られないじゃない」


 帰宅して改めて確認してみると、赤いキスマークがはっきりとついている。コンシーラーを塗りたくって絆創膏を貼るだけで、対処出来るだろうか。

 そんなことをしたって、ご近所さんやママ友に見つかれば、絶対に意味深な笑顔を浮かべるに違いないのだけれど。


 苛立たしさが募る。消しゴムのように消せるのなら、今すぐにでもこの首の痣を消し去ってやりたい。

 洗面所にある窓を開ける。見上げれば黒い曇天で、空がいつ泣き出してもおかしくなかった。


 智香は再度ため息をついた。亮平を送り届けた時は大丈夫だったが、今日は朝から雨予報だ。

 午後の買い物に行くことすら今から億劫で、こんな日は家に籠って静かに過ごすに限る。


「今日は何をしようかな……二階の掃除だけじゃ、時間余っちゃうなあ」


 撮り溜めておいたドラマを見るか、だらだらと続けている刺繍の続きをするか悩みながらリビングに戻る。椅子にかけっぱなしだったエプロンが目について、ポケットの膨らみに気が付いた。


「あ、そういえば」


 ピンクのチラシを思い出した。エプロンを畳みながらチラシを取り出すと、そのままソファに腰掛けた。宣伝文句をもう一度読んで、怪しい、怪しいとぶつぶつ呟く。

 しかし、どうしても気になる。バクの円らな瞳が智香を捉えて、離れない。


(……アクセスだけしてみようかな?)


 どうせ今日は、外出する気はない。洗濯も出来ないし、二階の掃除もすぐ終わるだろう。

 ぼんやりと無為な時間を過ごすよりは、少しは退屈しのぎになるかもしれない。


(ホームページを見て、冷やかすだけ)


 概要を見てしまえば、ママ友との話のネタくらいにはなるかもしれない。

こんな変なチラシが入っててね、試しに見てみたんだけど――うん、話のネタ作りには持ってこいだ。


 智香はサイドボードの上に置いてあるノートパソコンを、ダイニングテーブルに運んだ。いそいそとデスクトップを立ち上げると、どんな奇抜な内容が書いてあるのか、もうこの時点でわくわくしていた。


「あ……これだ」


 検索をかけると、すぐにヒットした。【夢、買い取ります】の例の文句とともに、一番上に躍り出る文字は【夢の館】とある。


 クリックすると、画面が暗転した。

 五秒程間があったのち、スピーカーからいきなり音が流れる。思いのほか大きい音に飛び上がり、慌てて音量を調整した。


(変な音楽……怪しいっていうか、暗いっていうか)


 タンバリンやバスドラムが後ろで三拍子を奏でる間を、バイオリンの怪しげな旋律が軽快に踊る。ところどころ変音が混じった曲で、聞いているものの不安を煽る音楽だ。


(これは、動画? ピエロでも出てきそうね)


 音楽が流れ始めて十秒ほどだろうか。突如、画面中央に一つのスポットライトが現れる。

 コツン、と一つ足音が響いたかと思うと、その光の下に向かって、右側から男が現れた。

 こほん、と咳払いをすると、長い両手を前に向かって伸ばし、歓迎のポーズをとった。


『よーうこそお客様、我らのホームページへお越しくださいました』

「わ、すごい衣装」


 思わず口にでる程には、その男の衣装はド派手だった。

 金髪に近い薄めの茶髪はマッシュルームカットに、目元は蛍光色の黄縁眼鏡がかかっている。

 一体どこで売っているのかと問いたくなるのは彼の着用しているスーツだ。


 赤と青の市松模様で、ご丁寧にネクタイも同じ柄だ。唯一というべきか、中に着ているワイシャツは無地の黒だが、彼が動くと反射してやたら光る。ラメでも織り込まれているのかもしれない。


『私の名前はアダムと申します。以後、お見知りおきを』


 耳に心地いいテノールの声。智香はこのインパクトの強い男に、すっかり興味を奪われていた。


『このホームページに訪れたそこのあなた、なんてお目が高いのでしょう。既に富豪への道へ足を踏み入れているも同然ですよ』


 智香に向けているように、彼は優雅に微笑む。まるで、舞台俳優のようなシチュエーション――最初は不気味に感じていたバックミュージックが、彼が現れたことにより調和をとり、吸い寄せられるような雰囲気を醸していた。


『我らの願いはただ一つ。あなたがこれまで見てきた悪夢を、是非、お譲り頂きたいのです』


 智香が見ている目の前で、アダムが画面右に向かってゆっくりと歩く。左側のスペースに、山のようにつまれた大金の画像が現れた。


『もちろん、タダではございません。一回およそ二時間の夢売りで、最低金額十万円を保証致します。夢の内容によって、一度で百万円以上お支払いする事も可能です。高額な報酬をお約束いたしましょう。

 さあまずは、お近くの店舗にご来店を。いつでもお待ちしています』


 舞台の電気が落ちるように、アダムを包んでいたスポットライトが消えた。それとともに音楽も切れ、ドリームハンティングのホームページ画面が現れる。やはりこれは、アクセスした人向けの動画だったようだ。


「二時間で、最低十万円?」


 嘘みたいな話だと頭の片隅で思いつつ、智香の喉が鳴った。

 今、もしも智香の手元に十万円があったら。ポケットからスマートフォンを取り出すと、靴を扱うブランドのページを開いた。


(ピュアマーキュリーの、パンプスが買える)


 小さな画面に、黒を基調としたシンプルな靴が映し出されていた。

 無意識に、ほう、と息を吐き出した。好きな人を見るような気持ちで、うっとりと眺める。


 これくらいの靴なら、独身のころは迷わず手を出していた。今よりも高価な化粧品を買い、流行りの服を身に纏い、若さと美しさを全身で謳歌していた。


(――欲しい)


 自分の中に潜む欲が、現実という壁を乗り越えたがっている。いつもの鉄壁が剥がれかかっていた。


「でも……夢を売るって、どういう意味なんだろう」


 まさか本当に“夢を売る”などとは、智香だって思っていない。チラシには悪夢と書いていたが、それはきっと何かの隠語だろう。

 智香は再びパソコンの画面に向きなおると、概要が書かれたページを開き、じっくりと文章を読む。


 が、そのどこにも、夢が何を指すのかは書いてなかった。夢とは何かから始まり、夢売りのメリットが書かれたあと、近隣店舗の検索へつながるリンクが貼られているだけだ。


「え……美原みはら商店街の中にある」


 あまりの近さに、智香の心臓が一つ鳴った。

 美原商店街は、亮平の幼稚園にほど近い場所にある。

 商店街が出来て四十年弱、一時は町のシンボルの一つとして数えられる程賑わっていたという。しかし、大型ショッピングモールの設立や利用者の高齢化に伴って、今ではすっかり廃れている。


 平日、休日問わず人通りは少なく、真昼間だろうがシャッターを下ろしている店は少なくない。


「そっか、行かない間にこんな新しいお店が出来てたのね」


 亮平の送り迎えの際に通ることもほとんど無く、前回いつ行ったかも思い出せないほどだった。

 智香以外の地元民も滅多に使わないような商店街。だからこそ、人目を憚って利用するには、持ってこいではないか。


 そこまで考えて、智香はぶんぶんと頭を振った。


(ダメダメ、こんな怪しいお店、絶対変なものを扱ってるに決まってる)


 結局、彼らが言う“悪夢”が何を指しているのかは分からない。このホームページを見た者に理解されないよう、意図的にぼかしているのだろうか。


 こうなると、危険なものや違法なものを扱ったりしている可能性だって出てくる。

 頭をもたげていた物欲が、元気を無くしたように小さくなった。いくらなんでも、危険を冒してまでパンプスが欲しいわけじゃない。


 智香はブラウザを閉じて、庭に繋がる窓を見た。

 いつのまにか雨が降っていた。大ぶりな雨粒が地面を濡らし、いくつもの水たまりを作り出している。


(あーあ、お金が欲しいなあ)


 雄太には、一定の生活水準を保つだけの給与と一流企業勤めの肩書きはあっても、それ以上の欲を満たすだけの余裕がないのだ。


(良いものを買えれば、もっと――)


 兄妹の顔が思い浮かんで、消えた。智香の願いを叶えたいのは本望だが、現時点で兄とは一線を画しているし、妹だってまだ大学を出て二年と少し。多くない給与でやりくりしながら、地味な生活を送っているはずだ。


 少なくとも、智香のプライドは満たされている。こんな怪しげなものに頼って飢えを満たすのは、良くない。

 智香はパソコンの側に置いてあったチラシを掴んだ。


 明日は燃えるごみの日だった。そう思いながら、くしゃっと丸めたそれを、ゴミ箱に投げ捨てた。

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