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「ん?」
それは買い物と亮平のお迎えを終えて帰宅した時だった。ポストの中にあった郵便物を全て回収し、不要なチラシをゴミ箱に捨てようと、リビングの机の上で選別していた。
そしてふと目に留まったその文字に、手が止まった。
”あなたの悪夢、高く買い取ります!”
ピンク色の紙に、掠れた印刷文字。二つ折りにされた紙の一番上に、太い文字でデカデカと書かれていた。そんな安っぽい広告は、不動産会社か何かの宣伝かと思って一瞬スルーしかけていたのだが。
「……あくむ?」
見間違いじゃないかと、ゆっくりと声に出す。しかし何回見ようと文字を逆さにしようと、それは悪夢としか印字されていない。
智香は他のチラシを捨て去ると、興味本位でそれを開いた。
”あなたの悪夢、高く買い取ります!
【よく悪夢を見る】【夢見が悪くて寝付けない】
そんなお困りのあなたに朗報です。その夢、売れるんですよ!
謝礼は少なくとも十万円、過去には百万円を超えた方も⁉
作業はとっても簡単! お好きな時間に来店して、夢を見るだけ!
さあ、まずはこちらにアクセス! あなたのご来店、お待ちしております♪”
(うわあ、怪しい)
ポップな文字が紙面に踊っていた。QRコードとアドレスの下に、【夢売り専門店・夢の館】と記載されている。一番下には動物のようなイラストが載っていて、手を挙げて片目をウインクしながら、智香を見つめ返していた。
「何だろうこれ……カバ? 象?」
しかしカバにしては鼻が長く、象にしては耳が小さい。腹部と背中にかけては白く、顔や足は黒かった。どこかで見たことはあるのだが、今の智香にはそれが何だかさっぱり思い出せない。
「ねえママ、おやつ」
チラシに集中していた智香を現実に引き戻したのは、亮平だ。エプロンの端をくいっと引っ張って、上目遣いに見上げる。可愛いと分かっててやっているのか、目がうるうるとしていると智香の気持ちまで揺さぶられそうだ。
「ごはんの前だからダメ。もう少しでパパも帰ってくるから、皆で一緒に食べようね」
しかしこれも躾の一環だ。心を鬼にして、亮平の頭を優しく撫でた。
天使の顔が一瞬でむくれる。両頬を膨らませて、とぼとぼとテレビの前に戻る息子に、苦笑した。
智香はチラシを、エプロンのポケットにねじ込んだ。ちらりと時計を見上げて焦る。夫の帰宅時間まで、一時間を切った。
(えっと、まずはお味噌汁とお肉の仕込み)
小鍋に水を張って火にかけて、豚肉に下味をつけている間に野菜を切って―― 一連の流れをばたばたと行ううちに、チラシのことなど頭から消えた。
雄太が帰宅するまでには、どうにか食事の準備を終えた。ジャストタイミングで帰ってきた夫とすぐに夕飯を済ませると、その後の家事もいつも通りこなし、やがて亮平を寝かせて夫婦の時間となった。
一日の出来事を報道するニュースを流しながらまったりと過ごしていた時、智香の脳裏にそれが唐突に閃いた。
「そうだ、あれ――」
「え、何?」
三人掛けソファに座った夫がすかさず反応するが、慌てて何でもないと首を振る。
(あのイラスト、バクだ)
昔家族三人で行った動物園の一角で、本物を見たことがある。夢を喰べるという伝説のある、奇妙な獣にそっくりだ。
悪夢を売るという宣伝文句に、夢を喰べる動物のイラスト。まさか、そのバクの餌を売ってくれという意味なのだろうか。
智香が無言で思案していると、視界の片隅で雄太が欠伸した。
「智香、俺先に寝室に行ってるよ。早くおいで」
同じくソファに腰掛ける智香に、雄太が腕を伸ばしてきた。肩を抱きながら智香に密着すると、至近距離にある雄太の目が熱を帯びているのに気が付く。
「眠くないの?」
額や頬に軽い口づけを残す雄太に、智香はなるべく興味があるフリをして聞いた。雄太の吐息が、徐々に過熱する。
「今、目が覚めた」
雄太の軽口に智香は笑いかけ、手を引かれて二人で寝室へと向かった。智香は再び、チラシを脳の片隅に追いやった。
雄太は二人目の子供を熱望している。少なくとも智香も、その考えには賛同していた。
なるべく早く終わることを願って、智香は静かに目を閉じた。
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