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 息子を幼稚園に送り届け、智香は一人家に帰った。亮平が生まれてすぐに新築した戸建ては、智香一人には広すぎる空間だった。

 一階部分の洗濯、掃除を終えて休憩をとると、あっという間に午後になる。二階にある寝室の掃除が残っているが、そろそろ庭の手入れをしておかないといけなかったことを思い出し、午後はそちらに時間を費やすことにした。


 玄関を出てざっくりと庭を見渡す。隣家との目隠し用に植えた木々の枝葉が伸び、雑草はぼうぼうに生えていた。

 亮平と一緒に作ったレンガの園芸コーナーも、せっかく咲いている花が雑草の中に埋もれてしまっている。木々の剪定と草むしり、午後いっぱいかけても終わりそうになかった。


(うーん、とりあえず今日は、草むしりかな。剪定は今度、雄太と一緒にやろう)  


 智香は一つ大きく頷くと、手近なところにしゃがみこんで生え始めの雑草をせっせと引っこ抜いた。声をかけられたのは、そんな時だった。


「須藤さん、こんにちは」


 目深に被ったつばの広い帽子をぐいっとあげて振り向くと、見慣れた顔がひらひらと手を振っていた。


「あら、こんにちは」


 智香は立ち上がって会釈する。玄関アプローチの出入り口からひょっこりと顔を出したのは、お隣の森本さんだった。子供の年齢が近く、仲良くしている。


「結構陽射し強いけど、草むしりなんてして大丈夫?」

「大丈夫、ちゃんと日焼け対策してるから。こまめに休憩もいれてるし」


 智香はそのまま森本さんに近寄って、その格好に軽く目を瞠った。いつものラフな格好と違い、今日の彼女はかっちりとしたスタイルだ。

 肩まで伸びた茶髪を後ろでお団子にまとめ、質素な白いワイシャツと黒いスラックスを身にまとっている。化粧もいつもより丁寧に施されていて、ただのお出かけでの恰好じゃないことが窺えた。


「森本さん、お仕事始めたの?」

「うん、パート。今日が初出勤日なんだけど、ちょっと早く出てみたら須藤さん見かけたから」

「そうなんだ。職場は近く?」

「隣町のスーパー。来てくれたら、声かけちゃうかも」


 森本さんの子供は今年小学校に入学した。子供の手がかからなくなり、空き時間を持て余してパートに出ることにしたのだろうか。

 智香は額に浮かんだ汗を手で拭った。腕に塗り込んだ日焼け止めの香りが、仄かに鼻を掠める。


「少しは働けって、旦那が最近うるさくてさ。レジ打ちくらいならお小遣い稼ぎになるかなって」

「いいね、息抜きにもなりますよ。早速今日行っちゃおうかな」

「え、今日? 最初はここに若葉マークがつくのよ。恥ずかしい」


 森本さんは左胸のあたりを指さしながら、照れ笑いを浮かべている。彼女とは長い付き合いだが、その笑顔には初めて見たような新鮮さがあった。


「あ、いけない。そろそろ行くね」

「うん、頑張って」


 扉越しに手を振って見送る。ぱたぱたと小走りに道路を走って右に曲がり、すぐに姿が見えなくなった。きっと、最寄りのバス停に向かったはずだ。隣町のスーパーは自転車で行くには遠く、バスで行くのが一番早い。


(……そっか、森本さんもついに働くんだ)


 彼女がいなくなった方向をぼんやりと見つめる。先ほどの笑顔を思い浮かべると、どうしても心の奥底がざらつく。


(私には、到底無理)


 元々智香はキャリアウーマンだった。大学を卒業して就職した勤務先は一流商社で、きついことも多かったけれど、その分福利厚生はしっかりしていて、高給だった。


 自社で結婚相手を捕まえれば、安泰に違いない――その考えに至るのも、比較的早かったように思う。誰でもいい、というわけではなかったが、社内に手ごろな男性がいれば声をかけた。


 そして結婚したのが雄太だ。


 雄太の最初の印象は、冴えない普通の男、という感じだった。

 社内では目立たず物静かなほうで、一度も染めたことが無いような黒髪を小綺麗に整えて、男女問わず柔和に接して争いごとを避けるような、そんなタイプだ。


 正直、もっと魅力的な男は、社内にも社外にもいた。智香の見目ははっきり言って悪くなかったし、当時の同僚には「なんであんな男と?」と何度も驚かれたくらいだ。


 それでも智香は雄太を選んだ。彼は出会った当初から、智香に対して熱い視線を注いでいたから。

 経験と直感で、最初から分かっていたのだ。“雄太は尽くす男だ”ということを。

 自分の見た目を最大限に利用して、虜にさせた。適度なわがままと健気さを演出し、時々雄太を立ててあげれば、雄太はもう智香のものだ。


『結婚したら、智香は仕事辞めて、好きにしていいよ。俺、智香と将来の子供のために、仕事頑張るからさ』


 プロポーズを受けてちょっとして、希望と熱意に満ちた声音で言われた言葉だ。

雄太と付き合うことになった時よりも、プロポーズの言葉を言われた時よりも、それを聞いた瞬間に、智香は勝利に似た感覚を覚えた。

『おめでとう智香ちゃん、幸せになってね』


 笑顔で祝福をくれたのは、既に一児の母となっていた智香の義姉だった。


浜紅はまべに商事の義弟かぁ……はは、俺も負けてられないなあ』

 苦笑しながらそう言ったのは、智香の実の兄、勝太郎しょうたろうだ。彼は雄太が勤める商社の子会社に勤務していた。


 その時何よりも智香が欲していたのは、この二人よりも秀でた地位だ。

 嫌いな兄よりも上の企業で働く夫と、専業主婦の座。兄は甲斐性なしだから、義姉は姪を産み育てている今もずっと、仕事をしている。


(惨め。ああはなりたくない)


 子育てと仕事をしているからなのか、義姉が浮かべる笑顔の中にはいつも徒労感が混じっていた。

 寿退社した後、智香はすぐに妊娠した。子供がお腹の中にいる時に、性別が男の子だと分かった時には、更に嬉しかった。両家どちらにも、男の子はまだ生まれていなかったからだ。


 亮平が生まれて少しして、今の家を建てた。実家から車で三十分程の、近くもなく遠くもない場所だ。

 町を一望出来る美原ヶ丘みはらがおかは中流以上のファミリー層に人気が出始めていた場所で、そこに智香好みの間取りとデザインを設計し、自分にそっくりな息子とゆっくり向き合って、子育てをした。


(私はお兄ちゃんとは、義姉さんとは違う)


 天使のような寝顔を眺めながら、智香はよくそんなことを考えていた。

 智香の脳裏に他のママ友の姿が浮かんだ。育休を経て職場復帰した人、森本さんのように働きに出る人は何人も見てきた。その度に智香は、友人達に対して密かな優越感を覚えていた。


(みんな、大変ね)


 とはいえ、さすがに独身の頃に比べると、智香の生活スタイルは質素になった。

いくら雄太が高給取りだからといって、家のローンもあれば教育費もかかる。小学校から私立に通わせたいと考えていたため、亮平の塾代や貯金を最優先にした家計となっていた。


 それに従い、自分好みのブランド服を買うことは無くなった。服も化粧品も、そこそこなものしか買えない。

 街へ行けば様々な誘惑が智香に襲い掛かるが、すぐに亮平の顔を思い出して、頭を振る。今は子供のために、資金を費やさねばならないのだから。


(でも、オレンジクイーンのバッグも、メチルダ・デニーのお財布も、新作出てたなあ)


 暇だった時、何気なく見ていたネットショッピングのページ。つい先日、夏の新作として特集を組まれていたのだ。

 シンプルなデザインなのに、そのブランドが放つ気品さを十分に兼ね備えていた代物。一目見て、直感にも似た感覚で、欲しいと思った。


 値段を見て泣く泣くブラウザを閉じたものの、商品を見た時の胸のときめきと輝きが、未だ智香の胸の中に宿っている。


(お金が欲しい。けれど、働くのは嫌)


 生活に困窮しているわけではないが、須藤家に個人の贅沢品を買う程の余裕はない。喉から手が出そうなくらいにはそれらが欲しいが、働くという行為に対しては、どうしてもプライドが邪魔をする。


 そういうわけで、物欲に対する羨望の思いは、結局自分の中で消化するしかない。

 智香は頭を勢いよく振ると、草取り作業に戻った。自分の雑念もろとも引っこ抜く勢いで、次々に雑草に手をかける。


 だいぶ長くなった影に気づいたのは、草むしりに目途がついてきた時だった。無心になって引っこ抜いていた雑草の山と室内の時計を見比べて、一息ついた。


 今日はもう森本さんの勤務先に行く時間が無い。家から最寄りのスーパーに行くことにして、智香は草取りを切り上げた。

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