第一話

1

「じゃあ、行ってきます」

「あ、待って雄太ゆうた


 須藤智香は、玄関で振り返った夫の首元に手を伸ばした。不自然に折れた襟を調整すると、ついでに全身を隈なくチェックする。黒い革靴、濃いグレーのスラックス、淡い水色の半袖シャツ。そのどこにも埃一つついていない。


 髭は綺麗に剃られているし、軽くワックスをつけた髪型もバッチリだった。うん、と一つ大きく頷くと、「いいよ、大丈夫」と声をかけた。


「ありがと」


 微笑んだ夫が、智香の頬に口づける。結婚して今年で六年目、新婚と言える期間をとうに過ぎてもなお、雄太は妻に惜しみない愛情を注ぐ。

 開けたドアから光が差し込み、雄太は陽射しの中に消えた。それと入れ替わりに家の中に入ってくるのは、ふわりと香る春の匂いと鳥の声だった。


 桜の花は満開を迎えている。ついこの間まで身を切るような風が吹いていたのに、気付けばうぐいすの声があちこちから聞こえるようになっていた。

 春は、様々な動植物が芽吹く季節だ。息子の亮平りょうへいは、蝶々やてんとう虫のような昆虫を毎日捕まえてきては、智香を辟易とさせる。


 玄関のドアを閉めると、智香の背丈ほどもある靴箱の前に立つ。付属している全身鏡で自分の見た目をチェックした。

 今日はジーパンと白黒のボーダー柄のチュニックを身に着けた。肌寒いかもしれない、カーディガンでも羽織って出掛けよう。


 既に薄化粧を施した顔が、こちらを見返している。若いころは美人ともてはやされたが、三十代を少し過ぎると可もなく不可もないくらい、といった平凡な顔におさまった。胸まで伸びた長い黒髪を後ろで束ねながら、小さく「オッケー」と呟いた。智香も、すぐに出掛ける用事があるのだ。


「ママ! こっち来てー!」


 幼稚園児の体力は無限大だ。元気いっぱい叫ぶ声は、何故か脱衣所から聞こえる。

彼は確か、リビングで朝ごはんを食べているはずだったのに。


 はいはい、と返事をしながら息子の元へと急いだ。

 いつもと変わらない風景。平和で平凡な智香の日常が、今日も始まろうとしている。

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