65th Chart:Los!
「
「両舷最微速前進! 舵が効くギリギリの速度でいい! 」
潜水艦特有の、囁きの怒鳴り声が蒸し暑い艦内に満ちていき、無音の中で慌ただしく水兵たちが自分の仕事へと全能力を傾け始める。
海面付近を漂っていた『U-109』が、艦尾の2基のスクリュープロペラをゆったりと回転させながら息を吹き返し。僅かなキャビテーションを引きつつ、死んだクジラが獲物を見定める狼へとその姿を変じさせる。
鮫の背鰭を連想させる艦橋から、するすると潜望鏡が伸びていったかと思うと、目の前に広がる「豪勢な夜食」の光景を艦内へと届けていった。
生きているかのように蠢く海面を、数分前と同じように我が物顔で前進するのは無数の大型海神。これまでも、戦艦級の相手と遭遇したことはあったがこれほどまでに多くの海神を一望できる特等席に座ったことなど一度もない。
白馬が躍る様にも見える白波の向こう側。ウネリの底につかまり不快な上下動を繰り返しながら、高倍率のレンズによって歪められた像がヴェディゲンの網膜に投影される。異様な光景から引き出された結論に、海狼が声なき嗤いを上げた。
「艦長、特徴をどうぞ」
「先任、
「は?」と艦長が噛り付く攻撃用潜望鏡の傍で壁に張り付く様に控えた先任が、分厚いファイル片手に困惑したような顔を向ける。2人が何とか入れる程度の、発令所と艦橋のハッチを結ぶ位置に設けられた司令塔。赤黒い世界の中、攻撃用潜望鏡から目を離した海狼は困惑する先任に揺るがない事実を伝えた。
「本艦はこれより、識別表に記載前の敵新型海神へと攻撃を仕掛けるからだ」
「新型、ですか?それは、どういう」
二の句を注ぐ前に「見てみろ」と潜望鏡のアイピースへ向けて顎をしゃくる。怪訝な顔をした先任は、キッチリと被った官帽の鍔を後ろへ回し外界を覗き込む。直に、驚嘆と呆れが綯交ぜになったため息が漏れ聞こえてきた。
先任が見た物は、一目で近代的と解る巨神の姿だった。
滑らかな背部に背負われているのは、『ドレッドノート』がすっぽり収まってしまいそうな背甲。艦首の様にも見える鋭角な波切構造の向こうには、連装式の主砲が2基、鎌首を擡げた頭部と同じ程度の高さまでそそり立つ2本のマストは十字架の様にも見える。前後に二か所聳えるマストの基部には艦橋の様な構造体――火器管制の補助脳と考えられている――が据えられ、その間には煙突状の排煙器官が2本。煙突と煙突の間には、後方に向けられた主砲塔らしい構造物も見えた。
つまり、この海神は。
「ドレッドノート並みの主砲を、前部に背負い式に連装二基四門、艦の全長からして、後部にも2基。煙突に挟まれた中央の構造体も、後方に向けられた主砲に見えた」
「とすると、連装砲5基10門。確かに――、コイツはよほどの大物ですね」
「ああ、煙突は大型のものを2基。全長も、幅もドレッドノートよりデカい」
「しかし、それでは距離の測定が困難になります」厄介そうなしかめっ面を浮かべて帽子を直しつつ、ヴェディゲンへ潜望鏡を譲った。攻撃の全指揮権も、もちろんヴェディゲンが持つ。潜望鏡を独占して機会を逸するのはばかげていた。
Uボートから目標までの距離を測る際は簡単な算数を用いる。
まず、目標が識別表のどの艦であるかを識別し、その艦の喫水からマストの頂上までの高さを知る。次に、潜望鏡を用いて直角方向の角度を求めれば、直角三角形の高さである1辺と2つの角度が定められ、底辺――目標までの距離が逆算できる。
しかし、この方法を使うためには目標の海面から最高部までの距離が解らなければならない。全てのデータが存在しない新型艦相手には使えない方法だった。
「問題ない。敵新型艦の隣の縦列にはシャルル・マルテル級が見える。そこから、凡その値は推定できる。真に必要なのは正確な彼我距離では無く、正確な移動距離だ。さてこれだと――我々に最も近い目標艦、アントンとしておくか。目標艦アントンまでは約3700mってところだな」
これで距離が――暫定的ではあるが――求まった。探知を避けるため潜望鏡をいったん下ろしつつ『U-109』の舵輪でもある
ヴェディゲンとクレッチマーは発令所へ続くハッチへしゃがみこむと、その真下で発射管室から戻って待ち構えていたリュートを交え、雷撃法について簡単なすり合わせを行っていく。
「艦長、先任。使用できる
「それは博打にすぎんか? 次席。艦長、今『U-109』は先ほど上を通過した護衛艦の推進乱流、ソナーの
慎重なクレッチマーと果断なリュートの意見が対立する。どちらの案にも利があり。不利があった。泣こうが喚こうが、使用できる銛はたったの4本。生死の境を彷徨ってもぎ取った機会は一度きり。
相方たちの言葉を聞き素早く弾き出された艦長の結論は、誰よりも慎重かつ、誰よりも果断な襲撃方法だった。
「目標は先頭に並んだ2艦だ。1艦に対し2本ずつ、体勢はほぼこのまま、距離1000で撃つぞ」
「至近距離からならば正面でも命中の可能性はありますが。1隻に対し2本ですか?」
撃沈は難しいと顔で語る先任に、「解ってるさ」と口角を吊り上げた。
「2本を横腹に叩きこんでも沈まんだろう。ポケットに入れた爆竹が炸裂するようなものだ、運が悪くても火傷ですむ。だけどな、先任。もし仮に、飲み込んじまった爆竹が爆発したら、そいつはどうなる? 」
「ああ、採餌器官! ――ってマジっすか!? 」
成程、と手を打ったリュートが血相を変えて頭上の艦長を見上げる。クレッチマー
も、彼と同じように、信じられない言わんばかりの顔を隣の海狼へと向けていた。
ヴェディゲンが狙うと宣言した採餌器官は、海神が海神である以上避けては通れない弱点だった。
海神はその身の生体金属装甲を同種の共食いによって摂取するが、その躯体を動かす神血、つまりエネルギー源は海中に豊富に分布するプランクトンによって賄われている。
巨大な艦体をもって、海中に漂うプランクトンを効率的に摂取するためには、艦首にあたる部分の水面下に口を作ることが最も手っ取り早く効率的だった。
艦の全幅に達するほどの巨大な
言ってしまえば、海神は巨大なバイオ燃料プラントをその身に持っていることになり、艦首部の開口部はそのプラントへの直通経路となっていた。
そんなところへ、数百㎏の炸薬を満載した魚雷が突っ込めばどうなるか。如何に強固な装甲を持っていたとしても、その装甲の内部から。それも肝臓と心臓を同時に爆砕されるような災難に耐えることは不可能だった。
また、この時代の海神において採餌器官に特筆すべき防御機構は存在せず。せいぜい、整流板の様な器官が大きく間隔をあけて並んでいるのみにすぎない。魚雷がすり抜ける幅は十分に確保されていた。
「採餌器官の大きさは種別によりますが、どれほど大きくても40 m 程度でしょう。――それでも、当てるおつもりですか? 」
クレッチマーの目が試すかのように細く絞られる。
海神が致命的な弱点と言える採餌器官への防御に無頓着なのは、そんな個所を狙って攻撃可能な敵など存在しないからだった。
そもそもの話、海神の戦闘は水上での砲打撃戦が支配的だ。
手前に落ちた至近弾が水中を進み、喫水線下に命中する事例は稀に起きたが、大多数の砲弾は舷側や甲板へと命中する。そんな万に一つも当たらなそうな奇蹟を信じて、採餌器官を狙う敵はいない。
純粋に喫水線下への攻撃を企図して開発された魚雷は、無誘導な上に速力が遅いという致命的な欠点を持っており、左右に舵を切っても回避しづらい真横からの攻撃がセオリーとされていた。
左右に機敏に動く40 m の目標と、200 m オーバーの鈍重な目標。1本で家が1件立つとされている、高価な魚雷を発射する目標として適当なのは何方か。考えるまでもなかった。
少なくとも、この男以外は。
「当てるとも」
静かながら確信に満ちた声に、疑念を感じていた2人の将校は互いに顔を見合わせ「いつものことか 」と呆れが混じった笑みが浮かんだ。
以前からそうだ。このアドルフ・オットー・ヴェディゲンと言う海狼殿は、自分たちの思いもよらない無茶を、道理と言う名の固定観念を蹴り飛ばしながら断行してきた。事ここに至って、超高難易度のピンポイント雷撃を前に怖気づいてしまうようでは『U-109』の幹部は務まらない。
顔を見合わせた2人の幹部は互いい頷き合うと意識のスイッチを切り替える。あらゆる方策を探り、対立する意見すらも平気で披露する有能な参謀から、『U-109』と呼ばれている鋼鉄の海狼を十全に駆動させる精緻な歯車へと。
「んじゃ、魚雷の調停深度は採餌器官中央の5.5mに。最大速度で接触信管。遅延は5秒。1、3番と2,4番を斉射にセットします。散布角は1度ってところですか? 」
「それでいい。先任、舵と周辺警戒は任せた」
ヴェディゲンの命を受けたリュートが
「潜望鏡上げ、最終観測。体勢良ければこれで撃つぞ」
再度、せりあがる潜望鏡に取り付き外界の様子を伺う。相変わらず波に洗われるレンズの向こうには、海上を我が物顔で進撃する神々の姿。自らの懐に性質の悪い狼が潜り込んだことなど露ほども思っていないのだろう。
約3分前に当たりを付けていた先頭の新型戦艦へと潜望鏡のメモリを合わせ、角度から距離を読み取りつつクロノメーターを確認。最後の計測から3分15秒経過した瞬間に計測した距離――2200 m 程度――を引けば、その移動距離は1500 m。
1ktは時速1.852 ㎞ であり、秒速に直せば0.514 m。この速度で3分15秒進めんだ場合の移動距離は約100 m であることと自艦の速度を考えれば――――相対速度は13.5 kt とはじき出される。
無論誤差もあるが、反航する敵艦に対し真正面から襲撃をかけているのだ。この時代の潜水艦において、敵速の測定を完璧に行うことは不可能に近く。その精度は乗組員の技量と経験、そして勘に大きく左右される。
『U-109』にとって幸運だったのは。ヴェディゲンがこの世界において有数の潜水艦乗りだったことだろう。
ヴェディゲンの最終観測結果。敵速、距離、
目標が移動している以上、魚雷の針路と敵の針路の交点で両者が出会うように、発射する方向とタイミングを正確に求めなければ、命中は見込めない。敵速と敵針、彼我の位置関係を正確に掴んで初めて、
「斜進角、距離1300にて第1目標アントン、0-1-3。第2目標ブルーノ、3-1-8。魚雷諸元入力良し」
「全魚雷装填完了。発射管扉閉鎖良し」
「発令所より司令塔、1番から4番魚雷発射用意良し」
「前部魚雷発射管注水」
「了解、1番から4番注水、ゆっくりだ音を立てるな」
リュートの指示通り4か所のバルブが慎重に捻られ、海水がウナギの寝床へと満ちていく。巨大なT-Ⅰ魚雷に多くの容積を占有された発射管が水没するまで、それほど多くの時は擁さなかった。
「注水完了」
「1,2,3,4番前扉開け」
「
月明かりが揺らめく中、海中にひっそりと浮かぶ『U-109』の艦首下部。長方形の整流カバーが内側へと引き込まれ、その奥に除いた円形の魚雷発射管の水密扉が微かな気泡と金属音とともに口を開けた。『U-109』の艦首に備えられた4門の発射管が、巣穴に籠り威嚇するウツボの如く開かれ、攻撃命令を今や遅しと待ち構えた。
「まず、左舷側の
「1,4番いつでもどうぞ」
「発射時期近づく」の艦長の言葉を聞きつつ、リュートの親指が1,4番が選択された発射釦に添えられる。
夕暮れの荒野で向かい合うガンマンの様な、あるいは月夜の晩の草原で向かいあう剣士の様な。銃声と剣戟が響く数秒前の、荘厳とすら形容できる静けさにも似た静寂が艦内を包み込む。
聞こえるのは数十名分の呼気、耐圧殻の呻き声、天井から滴る水音、そして己の心音。
十数秒か、はたまた数秒かは定かでは無いが。まもなく、哀れな獲物はヴェディゲンの覗き込む潜望鏡のクロスヘアへと映し出された。
「
「
海狼の低くも明瞭な指示に従い、やや重いスイッチがガキリと押し込まれる。直後、右舷側上部の1番発射管から圧搾空気の泡が漏れたかと思うと、それを引き裂く様に鈍色の魚雷が海中へと踊りでた。2秒遅れて対角線上の左舷側下部に配置された4番発射管からも繰り出された魚雷は、先発した方のキャビテーションに引き付けられるようにほぼ同じ針路をめがけて疾走を始めた。
「
「次! 第2目標、2,3番か」
そこまで言ったとき「艦長! 」と発令所から先任の切羽詰まったような声が届く。同時に今最も聞きたくない音が、断頭台が落ちるかのような響きとともに『U-109』の鈍色の艦体を打ち据えた。
コーン――――コーン――――コーン――
規則正しく紡がれる、生気を感じさせない高音。誰かが絞り出すような声で「
海中に能動的に音を発射し、跳ね返ってくるまでの時間を元に目標までの距離と方位を割り出すアクティブ・ソナーは、当然の様に小型の海神にも装備されており。今まさに『U-109』はその音の鼻先を向けられていた。
数も一つや二つではない。ざっと聞くだけで少なくとも3隻分の探信音が海中へと発射されている。
水面下に潜む海狼を勢子の様に追い立てる、艦隊を守護する猟犬達の吠え声が木霊し、戦闘速度へと加速を初めた護衛艦により海面が俄かに慌ただしくなる。
何分、敵艦との距離が近い。先任の報告では、つい先ほどやり過ごした防護巡洋艦クラスの海神とその取り巻きまでもが、大慌てで反転をし始めたようだ。音に捕まるのは時間の問題だろう。
並みの艦長であるのならば、襲撃を中止し即座に潜航に移るのが定石だが、それは勇気と無謀をはき違えた愚か者と、それらの尺度では測れない海狼には当てはまらなかった。
「この2本を打つまでもう少し待て、その後で遊んでやる」
聞こえるはずもない嘲笑とともに、半ば力任せに潜望鏡を右方向へと回転させ、反対側の第2の目標へとクロスヘアを合わせる。潜望鏡の角度はTDCと連動しており、諸元さえ正確であれば、敵が移動していてもクロスヘアを合わせた目標の未来位置へ正確に魚雷を送り込めた。
波に洗われ滲む世界の向こう側に、慌てて面舵を切ろうとしている敵戦艦の姿が浮かび上がる。
――祈る時間ぐらいはくれてやる
「2,3番用意、発射! 」
「
続いて、残されていた左舷上側の2番と右舷下側の3番発射管から鈍色のウナギが、キャビテーションのヴェールを纏って解き放たれる。
「
「
「潜望鏡下げ、無音潜航! 両舷前進微速! 深度100へ!」
海中を轟く破壊と悲鳴、そして怒り狂った海神の巻き起こす水流と
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