58th Chart:比類なき知勇と絶海の古強者に


「ごめんなさい、待った?」

「いいや、まだ3杯目だ」


 空になったエールのグラスを置くと同時に、王立海軍の制服に身を包んだガブリエラが苦笑とともにカウンターの隣の椅子に腰を下ろした。

 ネルソン基地の直ぐ傍に広がる軍港街は、【グレーター・ロンドン】の最上階でも見た様な繁華街が広がっているが、やはりと言うべきかパブを始めとする飲食店や風俗街の規模はより大きく多様だ。永雫が観艦式の打ち合わせが終わるとすぐに足を運んだこのパブは、周りの店舗よりも多様な酒類を提供することで評判の店だった。

 大通りから一筋それた場所にある店舗は、年季の入った椅子、浮き輪や樽の御陰か、何処か帆船時代の雰囲気を醸し出しており、レコード盤から流れるゆったりとしたメロディによって比較的落ち着いた印象を受ける。まさしく隠れた名店と言った趣で、むやみやたらに騒ぐ客が皆無と言う点も理由の一つだろう。

 亜麻色の髪の美女――ガブリエラ・ハーディー海軍大尉は、アルバイトらしい少年に黒ビールギネスを頼み、永雫も先ほど頼んだのとはまた別の銘柄のエールの名前を口にした。


「もしかして、今日中にここの銘柄全部試すつもり?」

「それも良いが、《連合王国》にまで来てスコッチもジンもシードルも試さないのはもったいないからな。適当に堪能したら次へいくさ」

「よくそんなに飲めるわね……」


 冗談のつもりで言ったのに、真顔でさらにドギツイオーダーをする気だと返された彼女の頬が引きつる。ガブリエラも極端に酒が飲めない体質では無いが、流石にそこまでちゃんぽんすれば轟沈は不可避だろう。


「にしても、どういう風の吹きまわし?」

「む、迷惑だったか?」

「いいえ、全然。もう一度ちゃんとしたところで飲みたいと思ってたから渡りに船だったわ。まさか、貴女から誘われるとは思ってなかっただけよ」

「貴様の中で私がどんなふうに認識されているのか急に聞きたくなった」

「警戒心の強い野良猫」


 ノータイムでの散々な評価に「シバクぞ」と反射的に目を細めるが「そういうところよ」と涼しい顔で返され、小さく溜息を吐いた。

 確かに、最低限度以上の社交性はあまり褒められたものではないと自覚はしているが、野良猫扱いは予想の範疇外だった。釈然としない気分のまま、運ばれてきたエールを受け取る。


「フン、とりあえず乾杯だ。こういう連合王国では何というんだ?」

「”比類なき知勇と絶海の騎士に”」


 並ぶもののない巨大海洋帝国らしい、勇壮な音頭を唱和しグラスを軽く鳴らす。先ほど頼んだエールよりも数段黒い液体に口を付ければ、カラメルの様な甘みと濃厚なモルトの香りが際立つ。これはこれで旨い。


「とにかく、貴様を呼んだのは別に大した理由じゃない。アイツが気を回してくれたついでだ」

「アイツって…有瀬大尉の事?」

「ああ。…………まあ、今回は正直助かった。クソの役にも立たん派閥の勧誘を延々聞きながら飲む酒など、時間の無駄どころか美酒への侮辱だ」


 心の底から蔑んだ眼になる当たり、彼女の中の佐伯少佐――正確には皇道派の株価がうかがい知れると言うモノだ。


 観艦式の打ち合わせが終わった夕刻、『吾妻』副長の佐伯近衛少佐は永雫を夕食に誘った。派遣艦隊と駐在武官との懇親会と言う名目だったが、以前『吾妻』において彼にしつこく皇道派に協力するように働きかけられた彼女にとって、佐伯の狙いを看破することは実に容易であり、同時に精神安定上何としても回避せねばならないイベントだった。

 どうやって突っぱねようか考えを巡らせようとした瞬間、幸運にも隣で話を聞いていた有瀬が「副長には既に先約が入っているんじゃなかったか?」と予定をでっちあげ、これ幸いと自分もそれに乗っかったのだ。

 当然、佐伯は立場と皇国海軍内の常識――近衛の意向を無視する下級の女性将校などあってはならない――を盾にその約束を反故にするべきだとのたまったが、有瀬が絶妙に腹の立つ笑顔で「諦めの悪さは近衛艦隊の美徳だったかな?」などと煽り陽動作戦を展開。矛先を有瀬に代えた瞬間に、人ごみに紛れ姿をくらませてやるだけの簡単な作業だった。


「呆れた。いきなり護衛隊司令部に電話かけてきたから、何か緊急の相談でもあるのかと思ったのに」

「迷惑料代わりに奢ってやるから、それでチャラだ。ストレスを金で買う機会を逃す手はあるまい?」

「どうせ暇だったからいいけどね。……ところで、有瀬大尉の方は大丈夫なの?」

「大丈夫だろう、アイツなら適当にあしらう。それに、住田少将も強くは止めなかった。持つべきものは真面な上司と機転の利く艦長だな」

「へえ…………」


 生暖かい視線に居心地の悪さを感じ、「なんだその眼は」とジト目を向けつつエールを傾ける。しかし、対する蒼玉の中にそんな自分の様子を揶揄うような色を見つけてしまい、いたたまれなくなって殆ど無意識に視線をずらしてしまった。

 頬が熱い様な気がするのは、酔いが回ってきたせいに違いない。

 瑠璃が逃げた先にあったのは、ガブリエラの足元に置かれた大振りのファイルだ。書類の束と言うよりはもはや鈍器と表現すべき質量を誇っており、その内容の膨大さをうかがわせる。

 恐らくは軍の書類だろうと当たりを付けた。司令部から出た足でここまで来たのならば持っていてもおかしくは無いが、これが機密書類なのだとしたら、人がそこまで多くないパブとはいえ足元に置くには少々不用心に思える。


「ああ、これ?何なら見てみる?」

「いいのか?」

「ええ、いいわよ。大した資料じゃないし、来週には書店に並んでいる程度の代物だから」


 小エビのフライとチョリソーの皿を押しのけて置かれた黒革のファイルの表紙には、王立海軍の紋章がレリーフとして浮かび上がっている。決して高いモノでは無いが、繰り返し使える程度の耐久性が保証された軍御用達の一品だ。

 ちなみに、皇国海軍では、いまだに古臭い紙製の紐綴じ式が大半である。金具などが劣化する超長期の保存には利点があるだろうが、普段使いの物はそろそろこういったリングファイルに移行するべきだろう。そんなことを思いつつ表紙を開けば、シンプル極まりない書類の名称が記されていた。


「統一名称版海神識別表?」

「そのまんまの意味よ、個人的にはやっと出来たかって感じだけど」


 パラりと数枚を捲った先に載っていたのは、ページの上半分を利用して描かれた平甲板型の船体を持つ護衛級海神のイラストと、下半分に記載された詳細な説明だった。見開きの反対側のページにはその海神の方位角0度正面45度右斜め前135度右斜め後ろ180度方向真後ろからの見え方まで乗っている。

 中でも特徴的なのが、ページの左上に目立つように乗せられた名前だった。


「コールドウェル級?」

「今まで海神の名称って色んな国が好き勝手に決めていたじゃない?各国が単独で戦ってきた今まではそれでも不都合はなかったけど、これから先はより密な協調が必要ってことで、《海洋連盟》の加盟国は今後この名称を使う事になったのよ。……まさか、知らないの?」


 信じられないと目を丸くするガブリエラに「知らん」と即答する。この件についてはしばらく前から新聞などで騒がれてきたが、基本的にメディアや世の動きに無頓着とも言って良い永雫にとっては自分の世界の外の出来事だった。


「そういえば、有瀬が”また識別表の覚えなおしだ”なんだとぼやいていたが、其れか」

「……………一応聞くけど、貴女軍艦の副長よね?」

「それ以前に造船将校だ。そもそも、観艦式を終えれば元の仕事場に戻る予定であるし、艦政本部に戻ればこんなモノを諳んじる必要はないだろう」


「一度見れば大体覚えるられるしな」と退屈そうにつぶやき、パラパラとめくっていく。オブライエン級、タッカー級、スパローホーク級、シャルル・マルテル級、ロンバルディア級、ヴィットール・ピサーニ級、エルツヘルツォーク・カール級、キアサージ級、ウネビ級などなど、現れる名前は実に多様で、中には艦政本部の資料で見かけた海神もあった。


「んんん………ほんとに名前はごちゃまぜだな。統一名称の癖に統一性の欠片もないのはどういうことだ?」


 もしも、有瀬がこの場に居れば「お前が言うな」と苦笑するだろう。彼女が海に放ち続けている娘も、この新たな海神の呼び名と同等かそれ以上に多種多様だった。


「その海神を始めに発見した国が、その国の命名規則に従って名付けてるだけだから仕方ないでしょう?それに名前の方向性まで統一しても、大きな効果があるわけでもないし。語句の量にも限りがあるから、発見者が名付けるのが一番面倒が無いのよ」

「ふーん………ん?これは」

「ブリュッヒャー級ね、私たちの装甲巡洋艦に匹敵する強力な新型海神。『綾風』が沈めたのも、これと同型の海神だったんでしょう?」


 頭の中の記憶と手元の資料を比較すれば、なるほど良くできていると無意識に頷いてしまった。日付を見るに自分たちが出航する直前に発見され、そこから急速に数を増やし始めているらしい。20ktを軽く超える俊足を誇っていながらも、防御は重厚であり駆逐艦の主砲では歯が立たない。

 しかし主砲を多く載せている関係上、弾薬庫に相当する部位が近接した位置に配されており、当たり所が良ければ一撃で轟沈させることが可能と記されていた。もう一度記憶をたどる。そういえば、片方のブリュッヒャー級が被雷した時、やたらと大きな爆炎が上がっていた。恐らく、弾薬庫直下に直撃弾となったに違いない。

 そんな考えを巡らせながらページをめくっていく。目につく海神は、当たり前ではあるがその全ての基本構造は同一だ。ダメ元ではあったが、やはり写真で見たステルス艦の姿は無い。仮に見つけていたとしても、軍機として秘匿されるだろうが。

 ふと、紙面から視線を上げる。隣に座った連合王国淑女はチョリソーを齧って顔を顰め、慌ててギネスで流し込んでいる。どうも辛いのは苦手らしい。表面上は固く生真面目な優等生と言う印象を受けるが、彼女の素は案外抜けているような気がした。


「なあ、ガブリエラ。貴様も観艦式には出るのか?」

「え?あ、うーん、そうね。残念だけど、『オフィーリア』は呼ばれてないわ。明日には哨戒任務に就かなきゃいけないから。…………それと、次の航海が彼女の最後の奉公になるわね」

「『オフィーリア』と言えば、アドミラリティ級か。確かに、第1線を退いてからずいぶん経つものな、耐用年数的にもそれがギリギリだろう」


 王立海軍の士官でも正しく把握しているものが少ない情報をさらりと言ってのける永雫に「妙なところで情報通よね」と呆れと関心が混ざった感想が漏れる。


「列強の艦の配備状況と就役年数は把握しておくものだろう?」

「退役寸前の補助艦まで把握してるのは貴方ぐらいのモノよ」


「そんなものか」と納得したような納得していないようなあいまいな返事をし、新たに運ばれてきたスコッチに口を付けている。

 既に、永雫が何杯飲んだのかカウントする好奇心はすっかり失せてしまっていた。ありていに言うならば5杯目以降数えていない。


「…………『オフィーリア』は、いい艦だったか?」


 スコッチを味わうようなしばしの沈黙の後。ある種厳かに問いかけられた言葉に、幸いにも自分は一点の疑問も無く頷くことができた。


「ええ、いい艦よ。小回りが効いて、素直で扱いやすい。兵装も索敵装備も必要十分で練度も最高。全速を出したら流石に振動は酷いけど、船団護衛は大規模海戦ほど極端に走り回ったりしないからね。最初に彼女を任されたときは「老朽艦かー」って思ったりもしたけど、初めて足を踏み入れた瞬間にそんな考えは吹っ飛んでたわ」

「どうして?」


 からり、と小さな音を立てて溶けた氷が琥珀色の液体に崩れ落ちる。


「錆だらけだと考えながら乗ってみれば、錆どころか埃一つない駆逐艦を目の当たりにすればそうなるわよ。副長が「新艦長が来るってんで頑張りました!」なーんて嘯いてたけど、それが『オフィーリア』の日常だってことは勤務するまでもなく肌で感じ取れた」


 瞼を閉じれば今でも着任当初の風景や、これまでの航海がつい先ほどの出来事の様によみがえる。

 真新しい軍服の匂い、整理整頓が行き届いた艦橋に鎮座する年季の入った艦長席。鼻歌を歌いながら甲板を磨く航海員、この艦の火器ならばお任せくださいと豪語して見せた砲術士、少しでも異音がすれば徹底的に修理しなければ我慢がならない機関長。

 初陣早々に、群れから逸れた護衛級と遭遇し死に物狂いで退けた朝もあった。月の無い夜を、僚艦の艦尾灯だけを目印に航行したこともあった。暴風と波浪が吹き付ける嵐の海で、業火とともに沈んでいく商船から一人でも多くの乗員を救おうと躍起になったこともあった。数時間もの間、しつこい潜航型海神を音と爆雷で追い詰め、遂に葬り去ったこともあった。


 その全てが、今の自分を形作っている。


 かつて書類上だけで『オフィーリア』を廃艦寸前の老朽艦と認識した世間知らずの小娘は、彼女や彼女の乗員たちと過ごした時の中で、ほんの少しは王立海軍士官として胸を張れる程度には成長できたはずだ。


「これから先、いろいろな艦に乗るでしょうけど、『オフィーリア』の事だけは絶対に忘れない。それが、次の航海を終えれば新しい艦の鋼材になる彼女への、せめてもの恩返しだと思うから」


 他者に聞かせるというよりも、神とでも呼ぶべき超越的な存在に宣誓するかのように紡がれていく言葉。その一つ一つが、実際に海に出て死線を潜ってきた重みを感じさせるものであった。

 永雫の口に、静かな微笑が浮かぶ。友人は決して多くは無いが、その友人の質は間違いなく一級品であるのだと自覚したが故だった。


「『オフィーリア』も、貴様が最後の艦長で誇らしいだろう。…………ガブリエラ、一つ忠告をしておく」


 ほんの少しためらいの色を見せた後、レンズの向こうの瑠璃が鈍く光ったような感覚を覚え、釣られるようにガブリエラの蒼玉に微かに警戒するような光が灯った。


「何?」

「最近になって、各地の拠点級の護衛艦隊から、戦列級……いや、これからは戦艦級か。とにかく、大型の海神が姿を消していることは知っているな?」

「ええ、そうね。情報部も探っているそうだけど、目立った成果は上がってないわ」

「これは個人的な予想だが、姿を消した戦艦級は当然の様に餌を求める。いま、この世界で最も餌に満ち足りた場所はどこだ?」


 永雫が言わんとすることを理解した蒼玉が大きく見開かれ、続いてそんな筈はないと亜麻色の髪が揺れた。


「面白い推理だけど、現実的じゃないわ。観艦式に集まる、貴女が言う餌はそうやすやすと狩りつくされるような存在じゃない。世界最強の水上打撃艦隊よ?いくら腹が減っていたとしても、鯱の群れに鮫は突っ込まないわ」

「その鮫が、鯱の群れと同等。いや、それ以上の規模を持っていたとしたら?」

「観艦式への待ち合わせ場所で謝肉祭が始まるでしょうね。同胞の海神とはいえ、群れの外の個体は全て等しく餌だもの」


「考えすぎよ」と肩を竦める戦乙女に、小さくため息を吐いた。やはり、説得には材料も立場も発言力も何もかもが足りない。そもそも、あの女の言葉が真実であるという証拠はどこにもなく、よく解らないがなぜかそうなるという確信だけがある現状では何かを変えることなど土台無理な話だった。


「でも、そうね。もしも、本国艦隊が窮地に陥る様な敵の大艦隊が迫って歴史に残る大海戦が始まるのなら、何とか駆けつけてみるわ。流石に、司令も祖国の危機を指をくわえて見ていられるほど度胸は無いだろうし」

「本国艦隊に喧嘩売る様な大艦隊に、歴戦とはいえ旧式駆逐艦で突っ込むつもりか?」


 そんな愚行を選択するとは全く思っていなさそうに、揶揄い交じりの苦笑いを浮かべる永雫に、まさか、と自分も笑って見せる。


「正面切ったダンスの相手は、貴方達のような現役艦に任せるわ。古強者オールド・レディでも、深淵に導かれようとしている騎士達に手を差し伸べることはできる。舞踏会があるのなら、仲間外れにしないでね?」

「フ。お互い、ダンスの相手が不運でない事を願うばかりだ。ともかく、『オフィーリア』の最後の航海が無事に終わることを祈る」

「ええ、ありがとう。異国の魔女さん」



――比類なき知勇と、絶海の古強者に



 何杯目か分からないシードルとジンライムが注がれたグラスが掲げられ、小さく硬質な音が鳴った。


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