2 邪気の洗礼


 交通誘導員の男はおもむろ玉串たまぐしを左手で引き抜き……七海を包み込むように立ち昇る青い蒸気に、1人立ち向かう――。


『くっ……助かるといいがっ――おおおぉぉぉっ!』


 宙に浮いた七海の真下辺り、彼は左手に握られた玉串たまぐしを青い蒸気に向けて真横から叩き付けた――。




『ちぃっ、浅い……』


 ちょうど水柱が弾けるように、青い蒸気はバサッと飛散したものの、あまり手応えがない。


 それでもどうにか解放された七海の身体はそのまま外へと投げ出された……男は落下して来ようとする地点をいち早く見定めて駆けつけ――どうにか彼女の身体をその両腕で優しく受け止め難を逃れた。


『よし、意識は……うぅっ、まずい。邪気をかなり吸い込んでしまっているようだ……呼吸困難に陥ってやがる』


 救出されたのも束の間、七海は力無くぐったりとしていて目も開けず息もしていない有り様だった。

 それだけではない。どういう訳か、その心臓はまるで負けまいと訴えかけているかのように、彼の両腕の中でトクントクンと静かに鼓動していた。


 その様子を見て、極めて稀に生還することのできる1つの可能性が男の脳裏に浮かぶ……。


『こ、これは……もしやエーテル抵抗!? いや、まさかこんな小娘に限って、そんな事あるハズが……』



 気(エーテル):生物の体内や自然界のどこにも存在し、人間の心身にも深く影響を及ぼすもので、俗に言う気のことである。

 それ自体は一般的に目に見えるものではないが、その力を扱うことができる者のみ、これを目にすることができる。


 エーテル抵抗:エーテルを扱うことができるようになる為には、幼少の頃より厳しい鍛練を積み重ねた上で初めて身に付くものである。

 だがこれ以外に極めて稀有なケースとして、生まれながらにその素質を持つ者がいる。この場合、外部からの何らかの精神的ショックによって無意識の内に、体内に潜在するエーテルが抵抗を示し、その素質が突如として目覚めるという例が少なからず報告されている。

 またこの他にも、当初から遺伝性として親から受け継ぎ、これを行使することができる者もいる。



 彼女の容態には不可解な点があるものの、彼はひとまず後回しにした……というのも、先ほど飛散した青い蒸気がその気配だけを残したまま姿を隠し、行方が分からなくなっていたからである。

 そう……まるで嵐の前の静けさを彷彿とさせるようにじっと息を殺し、どこか物陰からこちらへ追撃する機会を窺っているようにも思えた。


 男は彼女を地面に降ろすとその両肩を掴み、身体を軽く揺さぶって意識を確認する。


『おいっ、嬢ちゃん。さっきまでの威勢はどうした? 現場監督に文句を言ってやるんじゃなかったのか!』


 彼女の意識は一向に戻らないばかりか、血行の良い赤みを帯びた張りのあるその白い肌が、みるみる内に青く染まろうとしていく……。


『――くっそ、じょ……冗談じゃねぇ! こんな所で通りがかりのJKの死に様なんか見せられてたまるかよっ……おれも専門じゃないんだが、どうしようもねえなぁ――御免っ』


 彼は七海の制服の背中部分をやや躊躇しながらもサッと捲ると、玉串たまぐしを握る左手にそっと力を込めた……。


『――ご案善にっ!』


 男は何かを念じるようにそう叫ぶと、微かに玉串たまぐしがブゥウン……と橙色にぼんやりと光り輝き始めた――? 

 すると彼は何を思ったのか、ソレを思い切って振りかぶり……彼女の背中へ活を入れるようにそのままバシンと叩きつけた――。


「かっ――はぁ……!」


 喉に詰まらせた梅干しの種を吐くかのように、息を吹き返した七海の口から、エクトプラズムのように青い蒸気がもくもくと排出されていき、見る見る内に彼女の身体は元の赤みを帯びた張りのある白い肌を取り戻していく……が、未だにその目は開かず以前として気を失っていた。


『ふぅ……ツラかっただろうが、これで大丈夫だろう。時期に体調も快方に向かう筈だ。それでもまだ全快するまで数日は眠りについたまま安静が必要だろうが……まぁ、取りあえずはひと安心といったところか――なあぁっ!?』


 ほっとひと息ついたのも束の間、姿を消していた青い蒸気が男の真後ろから突如として姿を現し、暴風が吹いてきたように男の身体を悠々と上空へとかっ拐っていった――。


 彼の身体は優に5mほど持ち上げられ、青い蒸気は轟音を唸らせ竜巻のように周囲に散乱していた――土木資材のスコップやバール、レンガや一輪車までも巻き込み、凄まじい勢いとなって荒れ狂い始める……。


『――いてっ、痛てててて……こ、これは地味だがかなり痛いっ! しかも、これはどうだ……う、うまく身動きが……取れん。どうしようもねぇ――』




 青い蒸気に男が苦戦を強いられていたその時――あたかもこの世に新しく産声を上げるかのように、ゆっくりと起きて上ちがってくるモノが、不意に彼の視界に飛び込んできた……。


 それは――母体にいる赤子が胎動するかの如く。生まれたばかりの子鹿が、足を震えさせながらも立ち上がるかの如く……小さくて弱々しくまだか細いが、横たわっていたその身体を静かに起こしてきたソレは――何と先ほどまで得体の知れない蒸気に襲われて意識不明となっていたあの女子高生――諌早七海であった。


『ばっ……ばかなっ! あいつ、もう既に覚醒してやがる……だとっ!? それもほぼ自力で?』



 覚醒:エーテルの素質を持つ者がこれに目覚め、エーテルの存在を認識することができた状態を言うが、男が言うように通常は全快するまでに数日は眠りについたまま安静が必要で、完全に覚醒するにはエーテルを扱う者の中でも特殊な能力者による活入れが必要となる。

 また、素質や遺伝などのケースはすべて異例中の異例であり、彼らの能力は通常のそれと比べると成長の度合いも伸びも他より抜きん出て高くなる傾向が強い。というデータもあるが定かではない。



「ちょ、ちょっとぉ……誰が、あいつよ! 七海っていう名前がちゃんとあるんだからぁ。それに何か服が少し乱れてるんだけど、あなたまさかあたしが気を失ってる間に変なことしなかったでしょうねぇっ? このロリコン中年!」


『だ、だぁれがロリコン中年じゃいぃ! ちょこぉっと背中を捲っただけだろうがっ。ああでもしないと完全に邪気ってのは排出できないんでなぁ! どうしようもなかったんだっ――』


「邪気? 排出……してくれた、あなたが? ――っていうか、あたしの制服を捲ったですってぇ!? 完全にセクハラじゃないのよ! たとえ恩人だとしてもそれは許せないわ……ちょっと、いつまでもそんなモノ・・に襲われてないで、こっちに降りて来なさいよぉっ――!」


 七海はそう言うと、彼と瓦礫を巻き込んで荒れ狂う青い竜巻を何と軽く片手で引っ叩いた――。


 すると、彼女が片手で竜巻を掻いて触れた部分の辺りが、何と一瞬だけ微かに紅色に光り輝いたのである……。


 七海は一瞬だけ紅色に光った片手を掲げて空を見上げると、未だ土木資材と共に上空に舞っている彼と、竜巻のように荒れ狂う青い蒸気をしっかりとその眼で見据えていた。


『もしやとは思ったが、やはり……そして、今のお前なら――もう見えているな? ハッキリとコイツ・・・が!?』


 七海は少し顔を強張らせながらゆっくりと首を縦に振り、自分が得体の知れないモノに襲われたこと。それが青い蒸気のようなモノであり、自分を助けてくれた男が今またこの竜巻のようなモノに襲われている状況を改めて理解した。

 恐怖は確かにある。けれど今は震えている場合じゃない。それは、彼女がこれまで剣道を通して経験してきた数多の勝敗を分けた試合――そこで学び取ってきた闘争本能こそが、なし得たものかも知れない。


 そう、今は殺るか殺られるかの瀬戸際であり、七海は自分にも差し迫ろうとしている恐怖を怒りに変え、自身を奮い立たせていた。


『聞こえるか……七海、これを使え。さっきの平手打ちより効果が期待できる筈だ。いいか、思い切りやるんだぞ! お前の全力を見せてやれっ――!』


 男は青い竜巻に翻弄されながらも、七海の方に向けておそろくこの勝敗の鍵となる玉串たまぐしを託し放り投げた……。

 すかさず七海は飛び上がりしっかり受け取ると、玉串たまぐしは彼女の右手の中で今また力強くブゥウン……と紅色に光り輝き始めた。

 間髪を入れず地面に降り立つや否や、七海はこれが初の立ち合いとは思えないほど冷静かつ大胆に玉串たまぐしを文字通り大上段に構え、青い竜巻の根元付近を袈裟掛けに力の限り振り下ろした――。


「――でえええぇぇぇいっ!!」




 それは……彼も目を疑うようなまさに芸術とも言っていいほど、見事で素晴らしい足腰の運びと技のキレであった。


 剣道によって培われてきたであろう無駄のないその引き締まった身体、猫のようにしなやかで程よく柔軟性のある四肢と、くびれた腰から鞭のような弾力性と共に放たれる強烈な一撃。

 そして軸となる前足を地面に激しく叩き付けることで、より強い踏み込みの力を得ると言う中国拳法の八極拳を思わせる震脚。これが女子制服スカートの絶対領域から覗かせたその美脚から、繰り出されたのである。

 現役の女子高生に、これ程の洗練された体術を見せ付けられれば、まさに圧巻と言う他はない。


『あいつ、遂にやってくれやがった……』


 彼女の右手に掴まれた玉串たまぐしからは、まるで絶好の使い手を見出だしたかのように光りがほとばしり、散々と彼を蹂躙して荒れ狂っていた青い竜巻はフッと何かへと姿を変え、ドサッと崩れ落ちた……。


 人のような形を模したその何かは体長2mくらいだろうか、頭の部分には1本の角のようなモノを生やし、筋肉と呼んでもいいのかゴワゴワした青色の体型はさながら鬼のような形相であった。しかし、その姿は体格とは裏腹に弱々しく点滅していて、透き通ってさえ見えた。


「ちょ、ちょっと……一体何なのよコレ? こんなの聞いてないわよ。どういうことか説明してちょうだい」


 一方やっと……竜巻の渦から解放されそのまま5mの高さから外へと放り出されていた男は、下にいる七海に気付かれることもなく、自身で受身を取ったが着地に失敗しふらつきながらこう答えた。


『ぐぅっ、あぁ……コ、コイツも元は人間から産まれた成れの果てでな。こういう薄暗い路地とかにはよく溜まっているんだ。その名も……鬱鬼うつき! 巷で今大流行している憂鬱だの鬱病だの呼び方は様々だが、要は人の鬱憤が行き場もなく積もり積もって一定量まで集まると悪いエーテルに邪気化してしまう。お前がここに来るまでの間、ずっとおれはコイツらを云わば浄化するために幽導・・してたって訳さ……で、コイツらが1つに凝縮されて出来上がったモノが、その本体となるこの悪鬼エビルエーテルだ……後はこの本体の姿を晒した状態であれば、コイツそのものを浄化することができるようになる。まぁ、七海の渾身の一撃を食らって、既に昇天前ではあるが……あ、昇天って言っても生命体じゃあなくエーテル体と言うんだけどな。そうそう、そもそもエーテルってのは気のことで……って、もう話しができる状態じゃなかったのかこの嬢ちゃんは――どうしようもねえなぁ』


 ふらふらと倒れ込もうとした彼女を、男はあわてて両腕に抱きかかえると、七海は彼の胸の中でまた気を失っていた。

 しかしながら、今度はすやすやとその可愛気な寝息が聞こえてくる……。


 どうやら、一気に全力でエーテルを使い果たしてしまったことで、気絶してしまったようである。


『憂鬱なエーテルの集合体鬱鬼、中々手強い相手だった……だがもし、この場に七海という逸材がいなかったとしたら、あの竜巻の猛攻からおれは果たして抜け出せたかどうか……まだ身体のあちこちが痛いが、これでようやくおれも心置きなく家に帰って寝れるってもんだ。さぁ、お前も帰る所に帰るんだ……これから往く旅路が善きエーテルの流れに導かれんことを!』


 男は七海を一旦地に下ろして誘導灯を両手で握り締めながら念じると……再びその誘導灯がブゥウン……と橙色に力強く光り輝いた。

 そして、片方の肩から胸のポケットまでに掛けて吊るされたチェーン付きの笛を取り出すと、ピ・ピーと景気よく2回吹いた……。


 鬱鬼は笛の音を聞いて何かを察したのか、静かに立ちすくんでいる。


『妙に往生際が良いな――ご案善にっ!』


 彼は叫びながら右手に掴んだ誘導灯で鬱鬼を下から上に薙ぎ払った――。

 心なしか鬱鬼は穏やかにその姿は再び蒸気となって天高く消え行き昇っていく……。




『ふぅ……さてと、この嬢ちゃんはどうしたもんか、こんなひと気もない場所にこのまま置いておく訳にもいくまいし……どうしようもねえなぁ』


 ッ――!?


 その時である……鬱鬼の竜巻によって舞い上がっていた一輪車が今頃になって上空から降って来た――。

 当然お約束のようにゴツンと金属音をたて、一輪車はヘルメットではなく制帽を被っていた男の頭上へと激しく命中した。


 一気に来た身体の痛みと疲れ、そして眠気も相まって彼の身体がフラリとぐらつく……それでも男は彼女を無事に家へと送り届けるため、ガクガク笑う膝に一層力を込め、しっかりと大地に足を付けた。


『はぁはぁ……ゴソゴソ、良かった。どうやら家はこのすぐ近くのマンションらしい……はぁはぁ』


 男は七海の女子制服のポケットを勝手に漁り、その中から学生証を確認すると彼女の身体を自分の背に乗せ、すぐそこのオアシスを目指すキャラバンのように七海のマンションへと向かった……。


 まだ高校生ながらも、幼気な少女と密接に身体が触れてこれもまた小さな幸せかと彼は思ったが、成長期にも関わらず担いだ背中から伝わってくる彼女の胸の感触は、残念ながら実に乏しいものだった。



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