1 ガス配管工事


「あぁ~ん、もう遅刻遅刻ぅ~っ!」


 どこにでもあるような閑静な住宅地。そのマンションのエントランスから、食パンを咥え新品の学生服を着た少し小柄な少女が、恥ずかしいくらい元気な声を上げて外へ飛び出して来た。

 この春、市内の高校に入学したばかりの女子高生。この物語の主人公の1人、諌早七海(いさはやななみ)であぁっ……!


「――ぅうわあぁあ~っ!!」


 もはや現代日本の風物詩とも呼べるごく普通の朝の日常風景であったが、この朝の出来事が何の変哲もない彼女の平和な日々に終わりを告げ、これから数々の困難が待ち受けていることを予期していたのかも知れない……。


 七海は足下に転がっていた何かにつまずき、ものの見事に前のめりでドサッと倒れてしまった。


「んもぅ~、何よぉっ! どうしてこんな所にカラーコーンとセーフティーバーが置いてあるのよぉっ。あ痛ったたたた……」




 改めて辺りをよく見回してみると、マンションのエントランスを出てすぐ横の歩道沿いに工事規制がされていたようである。

 工事中を示す看板と、赤地に黄色ラインのカラーコーン。そして、コーン同士を繋ぐ黄色と黒2色のトラ柄の棒が、50mほど先にまで設置されていた。



 カラーコーン:工事規制を敷く為に欠かせない三角の形をした保安用資機材である。それ以外にも道路交通上の案内目的の為や、サッカーなどの球技スポーツでトレーニング用の障害物としても使用されるなど、その用途は多岐に渡る。

 赤一色や赤地に白の反射材がライン状に付いているもの。最近では緑地に白の反射材タイプなどバリエーションが無数にある。

 曲がり角に設置した際や、駐車していた作業車を動かす時などには見えづらく、大抵は轢かれて壊されてしまう宿命を持つ。

 

 セーフティーバー:主にカラーコーン同士を繋ぐ為に隣り合う2つのコーンの上に被せ、工事規制区域を囲う目的で使用するプラスチック製で両端が輪っか状の棒のこと。これも同じく最近では白色に緑色や紅白のトラ柄など種類が増えている。

 呼び方としてはコーンバー、または黄色に黒色のトラ柄なのでトラバーとも言うが、作業員側にとっては工事の邪魔になることが多々あるため、雑に取り外されて壊れてしまい消耗が割りと早い。



 工事規制区域内では、小型のユンボ(いわゆるショベルカー)とダンプカー(荷台を傾けて土砂などを下ろすことが出来るトラック)が慌ただしく機械音を立て、スコップを持った作業員と共に歩道を掘削する作業をしているらしい。


 間もなく異変に気づいた作業員の1人が、大声でガードマンを呼びつけた。


「おーい、ガードマンさーん! ほら、誰かが規制帯に突っ込んだぞぉ……ボーッとしてないで見てきてくれやぁっ!」


 調度そこへ白いヘルメットを被り、これまた白っぽい制服に黒のスラックス、橙色地に白のラインの安全ベストを着た男が、申し訳なさそうに駆け寄って来た。どうやら、この工事現場に配置されている交通誘導の警備員らしい。

 男の腰ベルトのホルダーには、車や通行人を案内する為に橙色の誘導灯がセットされているが、通常のものよりもやや長めで、約60センチ程はあるタイプを携行している。

 足には活発に動ける機能性と土や泥汚れ、雨に降られても多少大丈夫なように黒のコンバットブーツを履いている。



 安全ベスト:警備員や作業員が制服の上から着る反射材の付いたベストで、多くのカラーバリエーションがある。

 安全チョッキという名のV字型や、X字型のタイプもあり、夜間業務の際にはLEDライトが付いた夜光チョッキと呼ばれるものを使用することもある。

 これもまた、反射材やLEDライトには赤色や黄色、緑色など種類が豊富にある。



『すいませんでしたぁ。ちょっと、この先でガスの配管工事をしてましてぇ……お怪我などはありませんでしたかぁ?』


 え……何よ、これ?

 まさか、本当にこんなよくあるアニメみたいな展開から、もしかしたら運命的な出会いとか……?


 うつ伏せの状態の七海は、そんな思春期少女特有の淡い期待を胸に抱き、今にも男からそっと手を差し伸べられて来るのを待っていたが、残酷にも沈黙は続いしたまま数秒ほどの時間が経過した……。


「ちょっとぉ、あなた交通誘導員でしょ? こんなにか弱くて可愛いレディーに、優しく手を差し伸べてあげるとか出来ない訳ぇ?」


『はあ……そう言われましても、簡単にセクハラ呼ばわりされて、警察沙汰になってしまうのがこのご時世でしてぇ……お気持ちは分かりますが、ご理解ください。それとも、お1人で立ち上がることが本当に難しい状態でしょうかぁ?』


 男は、実に理路整然とした返答を腫れぼったい顔で淡々と返して来た。


 ある程度なら頼りになるかも知れないが、全体的に眠たそうにのっぺりとしているというのが印象的で、年齢は20代を超えた辺りの交通誘導の警備員であった。

 それも相当な寝不足が続いているのか、長めの髪はボサボサで目の下にはハッキリと分かるくらい、クマができている。


 男が返した言葉に半ば呆れながら、七海は学生服をパタパタと手で叩きながら起き上がり、この世知辛い世の中で男性も色々と苦労しているのねと、幾らか同情の念を抱いた。


「そうね……分かったわよ。もぅいいわ、怪我もないし自分で立てるから……で、どのくらいで終わるの。その……配管工事だっけ?」


『はあ……詳しくは分かりませんが、たぶん夕方くらいには終わるんじゃないでしょうかぁ。あくまで推測ですが……』


 これまた頼りなく正確性もない男の言葉に、七海はこれ以上話したところでらちが明かないことを察した。


 彼女は一息つくと、朝寝坊したお陰で今まさに登校に遅れそうであることを思い出し、男に軽く会釈をするなりそそくさとその場を後にした……。




『ふぅ……矢鱈と突っ掛かってくるJKめ……どうしようもねえなぁ』


「おーい、ガードマンさん。揉めてたのかい? 何もなかったのなら、早く戻って来てくれや!」


 工事作業の現場監督から呼ばれた交通誘導員の男は、また元の配置へと気だるそうに戻って行った……。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 キーンコーン♪ カーンコーン♪


 夕焼けの空に太陽が沈み始め、七海が通う葦原市立中津あしはらしりつなかつ高等学校の校舎に、終業のチャイムが鳴り響く……。


 週始めの月曜日ということもあり、教室では早々とバッグの中に教科書やノートを詰めて帰りの身支度をする者や、部活動に備えて道具を準備する者など様々である。

 だが、まだ入学したての七海は部活動の選択に迷っていて、放課後の予定は特にこれといってない。


『七海ぃ、このあと放課後は何か予定とかあるの? あなた運動神経いいんだから、そろそろ部活動どこにするのか決めちゃったら? それとも、また中学の頃と同じで剣道部に入るの?』


 そう話し掛けて来た艶々の長い黒髪が印象的な少女は、幼馴染みの尼寺鈴音(あまでらすずね)。

 七海とは家が近所で、小学校の頃からの無二の親友で、学園きっての美少女2人組なのである。


「うぅ~ん……剣道もいいんだけど、親の薦めでやってきただけだったから。そろそろ何か自分で、新しいことを始めてみるのもいいかなぁって思うんだよねぇ。これまでは剣道一本で男っ気もなかったからアルバイトとか……それから恋愛とかもしてみたいしぃ、取り敢えずあたしも鈴音みたく髪伸ばしてみよっかなぁ……」


『うんっ。セミロングもいいけど、髪質がいいから七海もロング絶対に似合うと思うわ』


「えへへ……そっかなぁ?」


 そんな他愛のない話しをしながら、2人は下校の準備をして帰路につき、少女たちの家の近所へとたどり着いた頃……。




『じゃ、わたし塾があるからこの辺で……またね七海、明日は朝寝坊なんかしてはダメよ』


「えぇっ、高校に入ってもまだ塾で勉強するの? あんたの勉強好きには心底感服するわぁ。うん、明日の火曜日は一緒に登校しよ。鈴音また明日……」


 夕陽は沈みかけ、地上はまだ光の当たる陽の部分と闇に包まれた陰の部分とで境界線が別れ、時計の針は調度午後7時近くを示していた……。


「はぁ、自分の進路かぁ……。あたしも鈴音みたくひた向きに進む道もあるんだろうけど、少し横道に逸れてみるのも新たな発見とかがあって、また社会勉強にもなる気がするんだよねぇ……」


 子供と大人の分岐点に差し掛かる高校生は、そこが今後の人生でも岐路となり、何かと思い悩むことが多くなってくるもの……。

 その青春時代に経験することというのは、後になって貴重な体験となることもあるのだ。


 七海は、現実を楽しむことと将来のこととを秤に掛けながら、地平線に揺らぐ夕陽に移ろい行く自分の気持ちを重ね、思いを巡らせていぃっ……!


「――ぅうわあぁあ~っ!!」


 何かをしようとすれば、何かと災難に遭うことが多いことを、犬も歩けば棒に当たると言う。


 彼女は今また足下に転がっていた何かにつまずいてしまい、ものの見事に前のめりでドテッと倒れてしまった。


「んもぅ~、何よぉっ! これじゃあ朝とまったく同じパターンじゃないのよぉ!」




 改めて辺りをまた見回してみると……七海のマンションまであと50mという角の路地に、昼間はなかった別の工事規制がされていた。

 進入禁止の看板と、先端に太陽電池式のLEDライトが付いた紅白のカラーコーンが、ネオンライトのチューブが巻き付けられた紅白のセーフティーバーで囲われていた。

 考え事をしていた七海はそれに気づかず、転倒したことでその標識類を押し退けてしまったらしい。


「えぇ……と、たしかこの奥は新しいマンションの建設予定地になっていたはず……」


 奥の方からは何故か物音1つしないばかりか辺りは闇と静寂のみが支配し、工事重機はおろか作業員などの気配もない。

 しかも奇妙なことに、この辺は閑静な住宅地にも関わらず、規模の大きな建物周辺の狭い範囲に発生するビル風のような生暖かい空気が、断続的にびゅうびゅうと吹いて来るのだった。

 それは……あたかも何者かの息吹きのようにも感じられた。


 ……そしてここから先が、今朝とは明らかに大きく違っていた。

 彼女が興味本位で薄暗い路地の奥へ少し足を進めてみると、そこには紙垂(しで)と呼ばれる四角くヒラヒラした白い紙が垂らされた注連縄(しめなわ)で仕切られ、両端にはその縄を結び付けた提灯台が設置されていたのである。

 ぼんやりと提灯の明かりで赤く灯された奥の区画には四方を祓串(はらえぐし)で囲われ、その中央に玉串(たまぐし)のようなものが立てられているのが微かに見える。


 更に、時折聞こえる不気味なうめき声……。


『らぁあぃ、らぁあぃ……』



 紙垂しで:稲妻を表す四角くヒラヒラした白い紙のことで、日本の神道において神事や祭礼などに用いられる。


 注連縄しめなわ:縄に紙垂しでを付けたもの。そこが神聖な場所であることを意味したり結界の役割として使用される。


 祓串はらえぐし:細い木の棒に紙垂しでを付けたもの。主に罪穢れを払う道具として使われる。


 玉串たまぐし:同じく紙垂しでが付けられた榊の枝葉で、神前に供える用途などで使用される。



「ふ……ふんっ、何よっ……よくも人の家の近くでこうも工事工事って、一体誰に断りを入れているっていうのよ。もう今度こそ絶対文句言ってやるんだからっ!」


 朝の出来事を思い出して苛立った七海は、そう息巻いて提灯と注連縄しめなわで仕切られている方へ、ズカズカと向かっていった……。


『ストーップ……ちょっとそこのあんた、悪いがここは規制中だ。そこから先には1歩も足を踏み入れるんじゃあない!』


 ッ――!?


 路地の先の深い闇の中、注連縄しめなわの奥の方から聞き覚えのある声がしたので、彼女が目を凝らしてみると……。


 約50m四方の無人の更地に建設工事作業に使用する土木資材が各地に転がり、その真っ只中の玉串たまぐしが立てられた付近には……今朝の工事現場でも見かけたあの眠そうな交通誘導員の男がこちらに背を向け、周りにはこれといって何も無いにも関わらず、点灯させた誘導灯を真横に倒して構え、反対方向にいわゆる止まれの合図を送っているように立っていた。


 しかも朝とは服装が少し違っていて……相変わらず制服上下は昼間と同じだったが、ずらした黒色の制帽をだらしなく被り、制服の上には夜光チョッキを着ていた。

 その夜光チョッキも見たことがないような趣向で、黒地に橙色の反射材が付いていたが、その部分を駆け巡るようにLEDライトではない橙色の何かが発光しているようだった。


「妙な声がしたから、どんな変質者がいるのかと思えば……またあなたぁ? 昼間でもあんなに眠そうだったのにこんな怪し気な路地裏で一体何してんのよ……見たところ素振りの練習か何かみたいだけど、この辺に交通誘導員は、あなたしかいない訳ぇ?」


『ふぅ、昼間の矢鱈と突っ掛かってくるJKか……ったく、どうしようもねえなぁ。練習だと? ふ、確かにお前にはそう見えるだろうがなぁ……こっちだって好き好んでこんな連続勤務をしている訳じゃないのさ。っていうか……もしかしたら、またあんた転倒でもしたんじゃないだろうなぁ?』


 その時、男は誘導灯の素振りに余程忙しかったのか、あるミスを犯してしまった……それは、新しい知恵を付けては主張をしたがる年頃の高校生の彼女に、至らない売り言葉をウッカリと言ってしまい、その反感を買ってしまったのだ。


「ちょっとぉ、誰が矢鱈と突っ掛かってくるJKよっ! えぇ、転倒したわよっ……もっと気づかいなさいよぉっ。それとも近隣住民の怒りを買って、工事の進捗を遅らせて欲しいのっ!? 工事が稼働してる真っ昼間でもないのにどうして中に入ってはいけないのかしら? 現場監督さんはどこにいるっていうのよ、いたらあたしが色々と文句を言ってやるんだから。ふざけないでよね、ふんっ――何よこんな規制帯!」


 男の言葉に腹を立てた彼女は、とうとう注連縄しめなわを払い退け……その中に足を踏み入れてしまった――。


『今は、ちょっ……おまっ――!』


 注連縄しめなわが振りほどかれたことで、両端に結び付けられ設置されていた提灯台が、そのまま崩れるようにガシャンと横に倒れ、遂に灯火が消えた……。


 ――シュ……ボッ!




 その時……どういう訳か湯気のようなものと共に、周囲に一瞬だけ青い炎のようなものが揺らめく。


『や、やっちまった……もうこの距離じゃ間に合わん。出て来るぞぉっ、避けろ――!』


「……えっ、出て来るって何――!?」




 それは……まさに突風が吹いてきたような物凄い速さで敷地内から彼女に襲いかかり、七海の身体が2mほど宙に舞う――。


 その……青い蒸気のようなものは、水柱のように立ち昇って容赦なく彼女をその渦中へと包み込み、七海はたちまち意識混濁いしきこんだくとなった。


「ガボッ――、ガボガボガボガボ……」


 七海は自分の喉に手を当てながら足をバタつかせて苦しんでいる。まるで海にでも溺れてもがくように呼吸をすることが出来ないのか、彼女は悲鳴の一つも出せないでいた。


『ちぃっ……ガードマンの注意を素直に聞かないからだ。もっとも一般人のお前には、おれがここで何に対して・・・・・その出入りする為の誘導業務を行っていたのかは分からなかっただろうが……』


 注連縄しめなわで仕切られていた更地の中央にポツンと立つ榊の枝葉、玉串たまぐしに男は目をやると、急いでそちらに駆けつけた……。


『しかし、まだ身も心も未発達の少女にまで襲いかかるとは、くっ……どうしようもねえなぁ。助かるといいがっ――』


 彼はおもむろ玉串たまぐしを左手で引き抜くと……七海を包み込むように立ち昇る青い蒸気に、1人立ち向かっていった――。


『――おおおぉぉぉっ……!』



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