後編<安樹>3

 過去と未来を結ぶ、私と竜之介の祝言の日がやって来た。

 竜之介の家の客間で、ふすまを取り払って祝言会場が設けられた。杯や盆、壁掛けや衣装、朝から準備に大忙しだった。

 けれど出席者は、浅井家の人たち十名ほどと、招待客が数名、カルナコフ家からはアレクと祖父のイヴァンだけだった。竜之介が旧家の子息であることを考えると、信じられないほどひっそりとしたものだった。

 私はというと、一応主役でもあるし、怪我もしているので準備には参加しなかった。ただ控室で、壮年の女性に白無垢の着付けをしてもらっていた。

「遥花様のお嬢さまの白無垢姿を拝める日が来るなんて」

 母が子どもの頃からこの家に仕えていたという女性は、感慨深げに着付けを終えると、目元を押さえてしずしずと下がっていった。

 着付け以外に私に任された役はなかったから、時間まで庭を見ていた。そのとき、龍二さんがやって来た。

「怪我は大丈夫か」

「気になさらないでください。痛み止めもありますし」

「客人などいなくてもよかった。すまないな」

 龍二さんは立ち上がりかけた私を座らせたまま、ふと感嘆のため息をついた。

「……美しい。はるかはやはり白が似合う」

 龍二さんは少しやつれて見えた。長身に堂々とした袴姿が似合っていたけど、目の下に隈が見えた。

 彼は遠くに見える離れを背にしながら、独り言のようにつぶやく。

「知らないだろう。子どもの頃、私ははるかと結婚するのだと決めていた」

 疲れは見えるのに、瞳だけはどこまでも澄み切っていた。怖いほど美しい目に見えた。

「もう十二、三歳にはなっていたのだがな。周りが何を言っても聞かなかった。兄妹だから無理なのだと教えられても、頑なにその日を夢見た」

 龍二さんは弱弱しく微笑んで私から目を逸らした。

「ようやく……夢が叶うんだな」

 そう言いながら、龍二さんは少しも嬉しそうじゃなかった。

 彼は私をみつめてひととき黙ると、そのまま部屋を出て行った。

 最後に私を迎えに来たのはミハルで、私の体調が大丈夫か注意深くたずねた後、私に手を差し伸べた。

「僕がいる。何も心配しないで」

「うん」

 スーツ姿のミハルに支えられて、私は一歩前に踏み出した。

 廊下を渡り、式場に足を踏み入れると、人々の視線に一瞬足が竦んだ。身にまとう服と儀式という枠があるからか、そこは別世界だった。

 畳の上を歩くだけでも緊張に身を固くする。だけど私が転ばないように、ミハルがしっかりと後ろから支えてくれた。

 きっと普段より何倍も時間をかけて、めったに座ることのない上座に腰掛けた。

 右側の竜之介の席はまだ空いているのを横目で確かめた。

 竜之介の一番近いところには、竜之介の父親の龍二さんと楓さんが既に座っている。私に近い左側には、父の席が一つ空いていて、その横にミハル、アレク、そして正面におじいちゃんが掛けていた。

 ふいに戸口の方に視線が集中する。新郎の登場だ。

 龍二さんがその姿を見て眉をひそめる。

「……竜之介」

 新郎は紋付き袴ではなく、黒いスーツを身に着けていた。

「用意した袴はどうした」

「今日俺が身につけるのは、これがふさわしいんです」

 竜之介は龍二さんを見据えながら告げた。

「叔母の遥花さんが、成人式を迎える俺のために、俺に贈ってくださったものだから」

 龍二さんの表情に戸惑いが走ったとき、どこかから風が入り込むような声が聞こえた。

「うん、時間ぴったりー」

 かわいらしい桃色の振袖を振りながら、りょうちゃんが子どものように竜之介の腕の下から顔を出した。

 父を除く全員がこれで揃った。私は美晴と目配せする。

 さあ、始めようと心を決める。

「りょうちゃん、来てくれてありがとう」

 私は席を立ってりょうちゃんに近づくと、きょとんとしたりょうちゃんに言う。

「贈り物があるんだ。りょうちゃんに」

「え?」

「屈んで」

 私は袖から包みを取り出して、りょうちゃんの首にペンダントをかけた。

「……私の母さんから、りょうちゃんに。成人式のお祝い」

 訝しげに金貨のペンダントを持ち上げた、りょうちゃんの手が止まる。

 目を見張ったりょうちゃんに、私は母からのメッセージを伝える。

「母さんは竜之介とりょうちゃんに、成人式のお祝いをしようとしてたんだ。でもりょうちゃんのことを知ったのは亡くなる直前で、お金を貯めてる時間がなかった。……裏を見て」

 りょうちゃんは金貨を裏返して、目を見開く。

「その製造年月日は、りょうちゃんの誕生日だろう?」

 りょうちゃんの黒い瞳が揺れる。

「年は永遠に十六歳でも、生まれた日はあるよね。母さんは知ってたよ。りょうちゃんが生まれた日」

「あ……」

 りょうちゃんは一瞬言葉を失ったようだった。

 信じられないといった様子で、りょうちゃんは虚空をみつめる。

「そうだった。最後のあの日、遥花さんは僕のことを知ってた……」

 金貨を握りしめて、りょうちゃんはかみしめるようにつぶやいた。

 りょうちゃんが無防備に笑ったそのとき、誰かの冷たい目が場を射抜いた気がした。

 撃鉄を起こす音がどこかで響いた。取り去ったふすまの向こう、誰もいなかったそこに踏み込んだ人がいた。

 父は銃を構え、そこから銃弾が放たれようとしたとき……鈍色に光るものが飛んだ。

「つっ!」

 父が撃つ前に、拳銃は父の手から弾かれた。拳銃と共に人差し指ほどの小さなナイフが落ちる。

 祝言会場を横切ってアレクが素早く間合いを詰める。父が拳銃を拾うその前に、アレクはその手を掴んで畳に引き倒した。

「……遅刻ですよ、レオ」

 アレクは一言つぶやいて、完全に父の動きを封じた。

「アレクセイ、私に歯向かうか!」

「ええ」

 私では震えあがるような初めて見る父の恐ろしい目にも、アレクは動じなかった。

「私は安樹のお母さんです。娘の晴れ舞台を妨害する者は許しません」

 アレクは父を膝で押さえて、私に向かってうなずいた。

 私が楓さんに目配せをすると、彼女は艶やかな着物姿で立ち上がる。

「客人、動かないで!」

 楓さんが声を張り上げると、浅井家の者、おそらく楓さんの配下の人たちが、一斉に客人たちの前に立って制止する。

「あなたもよ、龍二」

 楓さんが見下ろした先には、竜之介に腕を押さえられた龍二さんの姿もあった。

 祖父だけははじめから座したまま、その一幕を静かにみつめていた。

 一同の動きが止まったのを見届けてから、竜之介も私にうなずく。

「……つ」

 私はりょうちゃんの前から歩き出そうとして、肩の傷の痛みにその場に膝をつく。

「大丈夫。ミハルは父さんのところに」

 駆け寄ろうとしたミハルを制止して、私は自分で起き上がる。

「私は龍二さんに、ミハルは父さんに渡すものがあります」

 私は場を見回して告げると、二通の手形を出して示した。

 ミハルはその一通を受け取って、父の元に歩み寄る。

 私は重い体をひきずりながら、龍二さんの前に進み出た。

 龍二さんの前に、私は手紙を広げた。

「龍二さん。二十年前から届きました。……お母さんからの、「お願い」です」

 幼い頃、母は私に一つの秘密を教えてくれた。

――安樹、お母さんの一番得意な技を教えてあげる。

 優しく、悪戯っぽく、母は告げたのだ。

――どうしても困ったら、「お願い」をするの。

 武器も説得も必要ない。ただお願いをするのだと、母は私に教えた。

 龍二さんの目が紙面を動く。母の筆跡か疑っている様子はなかった。彼以上に母の筆跡を知っている人はいないと聞いていた。

 次第に龍二さんの目が揺らいでいく。少年のような瞳に戻っていく。

 みんな大切なの。母の手紙は告げる。

 傷つけあってほしくない。本当は誰もそんなことをしたくないはず。

「僕は手紙を読んだことはありませんけど、知ってます」

 りょうちゃんが静かに告げる。

「……遥花さんが最後まで案じていたのは、「にいさま」だった」

 金貨を握りしめたまま、りょうちゃんは俯く。

「だから僕は、龍二さんを見守ってきました。それが遥花さんの望みでしたから」

 りょうちゃんは、母の望みを叶えるためにあらゆることをしてきたのだろう。

 私とミハルを引き離すように画策したのは、龍二さんが父に似たミハルを傷つける前に穏便に解決しようとしていたのだと、ミハルは私に教えてくれた。

 自分が母を殺したと言って自分に龍二さんの矛先が向かうようにしたことだって、龍二さんに生きる糧を与え続けるために違いないのだから。

 父は手紙を読み通してため息をつく。

「うん。知ってるよ。君はそういう子だったね……」

 父の言葉尻が震えた。

 私は何も言わない龍二さんをみつめていた。

 不思議だったことがある。これだけの家に住んでいる、富も権力もある人なのだから、龍二さんはその気になれば母をみつけて連れ戻すことができたのではないかと。

 でも五年経っても、龍二さんは母に何もしなかった。二十年近く、私を外に置いたままだった。

「俺は、ただ……」

 ぽたっと手紙に雫が落ちる。

「どこかで、遥花が生きていてくれたなら、それで……よかったんだ……!」

 手紙の上の文字が滲んだ。

 にいさま、愛してる。

 ……幸せでいて。その文字が見えた。

「アレク。もう離していい」

 やがて父が目を伏せて言った。

「僕はこの件から手を引こう。ハルカのお願いだから」

 父はそれきり何も言わなかった。誰にも縛られない人だけど、父は母の言うことだけは聞く。

 私は前に視線を戻して息を呑んだ。

 龍二さんがナイフを持っていた。その刃先は自分の胸の方を向いていた。

「おじさん」

 私はためらいなく刃を手で掴んだ。じわりと滲む血に、龍二さんの瞳が揺らぐ。

「……手を離せ」

「五歳の頃、おじさんが私をこの家に連れてきた時のこと、ほんとは覚えてる」

 伯父さんも本当のことを話したのだから、私も本当のことを言おう。

「私はわんわん泣いてた。でもそうしてたら、おじさんは私を抱っこしてくれたね」

 あの時の低い声とぬくもりを、私は覚えている。

 畳に血が落ちても、私はナイフを握りしめていた。

「おじさんは、「お母さんより、お前のことを想う。大切にする。だから泣かないでくれ」って」

 おじさんも、泣いていた。泣きながら、それでも私を包み込んでくれた。

 自分の悲しみでいっぱいだっただろうに、私に愛情を降り注いでくれた。

「あの時、おじさんのこと、好きになったよ」

 私はおじさんをみつめて告げる。

「手を離すんだ!」

 私の指をこじ開けようとしながら、おじさんは叫ぶ。

「……嫌だ! おじさんが離さなきゃ、私も離さない!」

 ぎっと私は彼を睨みつける。

「ずるいじゃないか、お母さんばっかり。私とミハルのこと見てよ!」

 私の隣にミハルが膝をつく。ミハルも刃の部分を掴んで、おじさんの手を引きはがした。

 私一人では龍二さんの力に敵わなくとも、いつも私にはミハルが力を貸してくれる。

「構ってよ、かわいがってよ、愛してよ!」

 二人分の血が畳に流れていく。私たちは力を緩めなかった。

 龍二さんの目を見返しながら私は声を放つ。

「お母さんのお願いを聞いてくれるなら……私たちのお願いも聞いて!」

 力いっぱい叫んだ私に、おじさんはぴたりと動きを止めた。

 私は大きな体にせいいっぱい片腕を回して、ぎゅっと力をこめる。

「大好きだよ、おじさん。だから……幸せでいて」

 五歳の時から大好きだった伯父を、私は今ようやく抱きしめた。

 おじさんは長く黙って、呆然としたように息をつく。

 言葉を放つにも長く、長く考え込んで、やがて口を開いた。

「お前たちは……わがままで、危なっかしくて、憎らしくなるくらいに」

 伯父の手からはらりとナイフが離れた。

「……かわいい、子らだ」

 その手をのろのろと上げて、おじさんは私とミハルを抱きしめ返した。

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