前編<美晴>3

 およそ十五年前の春、草花が芽吹き、氷の世界に温もりが目覚める時期のことだった。

 北の彼方の片田舎で、刀傷沙汰が起こった。

 十歳ほどの東洋系の少年が、二十代半ばほどのやはり東洋系の女性に切りかかった。

 少年は浅井竜太郎という日本人だった。ある暴力団の現組長の甥にあたる血筋だった。彼は父親の仇として、女性を狙った。

 対して女性の方は、春日遥花といった。少年の叔母であり、その時は現地のファミリーの三男坊の妻だった。

 遥花は武術に心得のある女性だった。竜太郎をたった一人で取り押さえて、どちらにも怪我ひとつなかった。

 まもなく遥花の夫のファミリーの者たちが駆け付けたが、遥花は自分に任せてほしいと言って彼らを遠ざけた。

 それから遥花と竜太郎は二人で話をしていたらしい。

 そこで何を話していたのかは、ファミリーの者たちも知らない。およそ一時間程度の、短い時間だったという。

 その話の後、遥花は竜太郎を解放した。ファミリーの者たちに、何もせずに帰してやってほしいと告げた。

 けれどその一部始終をファミリーのボスであるイヴァン・カルナコフは見ていた。

 イヴァンは密かに部下に、竜太郎を始末するように命じた。

 外国人とはいえ、遥花はファミリーの一員だった。一度でも一族の命を狙った者は生かしておかないという、ファミリーのルールに従った。

 竜太郎が人気の少ない道に出た時、ある一台のトラックが疾走した。

 背後に裏社会が絡んだ事件だったが、表面上はありふれた田舎の交通事故だった。

 残った事実は一つだけ。竜太郎を突き飛ばした遥花がトラックにはねられて死んだ。

 それで記録は終わっている。あっけないほどの短い記録を閉じて、祖父は口を開いた。

「私はボスとして過ちを犯したとは思っていません」

 俺は祖父の言葉を日本語に訳しながら告げる。

「何度同じ時が巡っても、私は同じ命令を下したでしょう。私はボスでしたから」

 どんなに幼い子どもであっても、一族を危険にさらした者は生かしておけなかった。ただそれだけの判断だったと祖父は言った。

「ただ、カルナコフ家の父としては、私のしたことは過ちでした」

 そう思ったからこそ、祖父はその事件をきっかけにボスの座を譲って隠遁生活に入ったのだろう。

「嫁の命を奪い、息子を傷つけ……この子たちから母親を奪った」

 祖父は俺の肩に手を置いて、俺を見やる。

「今、私の過ちが、この子たちの未来にまで影を落とそうとしている」

 父に似た碧色の瞳で祖父は俺をみつめて、口元を歪めた。

「真実が明らかになれば息子に憎まれる。それを恐れるがゆえに、今まで口をつぐみ続けてきました。醜い保身です」

 祖父はそこで沈黙して、ひととき通り過ぎた時を思い返したようだった。

 俺はそれを横でみつめながら、祖父がずっと閉じ込めてきた思いを感じていた。

 父に許されないことを恐れたと言うが、父は真実を知って祖父を恨んだだろうか。

 ……そうではないと思う。父はきっと今もそうしているように、母を守れなかったことを惜しむのだろう。

 祖父は顔を上げて龍二を見ると、再び口を開く。

「龍二さん。あなたは私たちを許せないでしょう。私も家族を持つ身ですからわかります。ですがその憎しみは私だけに向けてもらえませんか」

 祖父は眉を寄せて息をつく。

「私は、この子たちから父親と伯父まで奪いたくはないのです」

 祖父は、龍二が求めれば自分で頭を撃ち抜く覚悟で行くと言っていた。

 昔、一緒に住んでいた頃から、祖父は俺たちが風邪をひいたりするとびっくりするくらいうろたえる、愛情深い人だった。

 呑気に構えている父をしかりつけて、おろおろしながら俺たちを看病してくれた。

――よかった、よかった。これからは暖かくして外に出なきゃ駄目だぞ。

 風邪が治ると、広い胸に俺たちを抱き上げて、大岩のような顔を綻ばせてキスをくれた。

 俺が龍二の方に目を戻すと、彼は黙っていた。

 珍しく視線を下に落としていた。いつも油断なく相手をうかがっている鋭い双眸が、記録しか見ていない。

「じいさん。外に出て、俺と伯父の二人だけにしてくれ」

 俺が小声で祖父に言うと、祖父は眉をひそめた。

「じいさんは過去を語ってくれた。それで十分なんだ。これからは俺と安樹がなすべきことだ」

 俺は祖父にだって死んではほしくない。

 悪戯好きで困った性格だが、いつも俺と安樹を心配してくれた人だ。長生きしてほしかった。

 俺が言葉を尽くして祖父に頼むと、祖父は仕方なさそうに頷いた。

「何かあったらすぐに呼びなさい」

 祖父に外に出てもらうと、俺は龍二と二人で向き合った。

 テーブルを挟んで、向かい側で龍二が記録を読んでいる。五枚程度しかない真相を、繰り返しめくっている。

 まるで俺が目の前にいることすら忘れているようだった。龍二は外界のものを拒絶して、過去に埋没しているように見えた。

「満足できてもできなくとも、それしか真実はないんです」

 俺はようやく自分の言葉で龍二に語り始める。

「でも、本当はあなたも知っていたんじゃないですか?」

 龍二は顔を上げない。紙をめくる手を止めない。

「りょうが何者か、あなたならわかっていたはず」

 いくらりょうが整形を繰り返し、素性を偽って龍二の家に入りこんだとはいえ、竜之介の近くに置く者なのだから徹底的に調べたはずだ。

 りょうという名前を与えたこと自体、浅井家に縁の者であることを暗に示しているようだ。

「龍二さん」

 俺は立ち上がって告げる。

「俺は何とかして父とりょうを止めます。だから」

 俺には大した力も立場もない。けれど、今体を張って頼むことならできる。

「安樹を自由にしてください」

 腰を折って一礼する。

 竜之介が決めたとはいえ、安樹と竜之介の結婚は龍二を満足させるためのものだ。龍二が手を引かなければ、安樹は自由になれない。

「安樹を、母さんの幻影から解き放ってください」

 龍二に、安樹と母が別のものだと認めさせなければいけない。

 俺はもう望みの半分は叶えた。だから、俺の片割れにも望むように生きてほしい。

 安樹、君が心から望む未来を生きられるように、俺は周りを作り上げる。

「……私の過去の因縁が発端だったというのか?」

 ふいに龍二の手が、記録を握りしめる。

「私が今も兄を生かしていれば、りょうは遥花を狙わず、カルナコフ家に命を奪われずに済んだと」

 龍二の言っていることは間違っていない。母の死の原因の一端を龍二が作ったのは確かだ。

 けれどそれを辿ったところで、もう過去は変えられない。

「私が」

 龍二の双眸が途方に暮れた少年のものに変わる。

「私が、遥花の命を……」

 カタカタと龍二の手が震えた。

 俺は異変を感じて身構えた。龍二は混乱している。あっけないほどの真実を、受け入れきれていない。

「そんな、ことはない……!」

 龍二の目が淀んだ狂気に染まる。

「りょうなど、カルナコフ家など、どうでもいい」

 立ち上がって、龍二は後ろから何かを取りだす。

「私が憎いのは、遥花を奪った貴様だけだ。レオニード!」

 その一瞬は、スローモーションのように見えた。

 龍二が拳銃の引き金に手をかけた……そのとき、俺の視界は何かに遮られる。

「だめ!」

 俺の目の前に白いドレスを着た誰かが飛び込んできた。

 けたたましい音が響いたのと同時に、白いドレスが不自然に揺れる。

 俺は彼女を後ろから抱きとめた。

 白いドレスが次々と赤く染まっていく。

「……安樹!」

 俺がその名を叫ぶと、彼女は微かに笑って、ミハルと言った気がした。

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