前編<美晴>2

 数日の後に、俺は日本に帰国して楓さんに会った。

 楓さんは既に父が不穏な動きをしていることに気付いていて、龍二の身を案じていた。

 父と伯父の衝突を避けなきゃいけない。俺が楓さんに打ち明けると、楓さんは複雑な笑みを見せた。

「変わったわね。あなた、龍二に反抗することしか考えてなかったのに」

「楓さんに甘えてすみません」

「いいのよ。あたしはずっと甘えてほしかった」

 楓さんは俺を助手席に乗せて車を走らせながら、懐かしそうに言った。

「遥花が亡くなった時、あたしがあなたと安樹ちゃんの母親代わりになろうと思ったわ。安樹ちゃんはすっかりアレクセイに懐いちゃって、寂しかったけど」

 幼い頃、安樹が伯父に誘拐された時だって、安樹を俺たちの元に帰してくれたのは楓さんだった。

 彼女は姐であり龍二の妻という難しい立場にありながら、おそらく今までずっと影から龍二を食い止めてきてくれたのだと思う。

「俺は楓さんを母親のように思ってます。ずっと、今も」

 俺が言うと、楓さんは照れくさそうに苦笑して、知っているわとつぶやいた。

 まもなく楓さんが用意してくれたのは、大晦日の夜の一席だった。

 彼女が経営する郊外のレストランを貸し切って、外部の者が入りこまないように手配してくれた。

 警備は楓さんの配下で固めてもらった。今日、龍二はここで竜之介と安樹を招いて食事をする予定だという。

 俺は祖父と入口で合流して、二人で中に入った。

 そこは現代的なアートをあちこちに散りばめた洋館だった。今日は貸し切りだから他に客はおらず、俺と祖父は先導する黒服の女性給仕係について歩いていく。

 アール・ヌーヴォーを思わせる模様の刻まれた扉が目の前で開かれて、先に俺が一歩中に踏み込んだ。

 龍二は一人だった。黒いスーツ姿で胸ポケットから白いハンカチを覗かせていて、普段着のように正装を着こなしていた。

 俺たちの姿をみとめて、彼はほんの少しだけ目を細める。

「……息子夫婦とディナーを、と思っていたが」

 低く呟いて、龍二は席を立つ。

「お会いできて光栄です。カルナコフ氏」

 流暢に祖父の国の言葉で話しかけながら、龍二は手を差し伸べた。

「浅井龍二と申します。来日がわかっておりましたら、お迎えにあがりましたのに。お噂はかねがね伺っております」

「はっはっは。良い噂だといいですなぁ」

 祖父は好々爺とした朗らかな笑顔を浮かべて、龍二と握手を交わした。

 龍二は自ら椅子を引いて祖父を座らせる。祖父は礼を言って腰掛けながら母国語で語り掛ける。

「見事な話しぶりですね」

「日常会話程度ですが」

「すばらしい。おっと、申し遅れましたが」

 祖父は俺を示して龍二に告げる。

「孫の美晴がお世話になっているようですね」

「いえ。こちらこそ、妹がお世話になりました」

 二人とも完璧な笑顔だが、腹の底で何を考えているのかはわからない。

 龍二もまた席についたのを見計らって、祖父は口を開いた。

「突然お邪魔したのは理由があります。あなたに話しておきたいことがあるのです」

 龍二は表情を変えなかったが、どうぞというようにうなずいて先を促す。

「これから話すことは正確を期したい。だから私の母国語と日本語両方に堪能な孫を連れてきました。孫に通訳させますが、よろしいですかな?」

 祖父の言葉に、龍二は答える。

「では、そのように」

 祖父は顔を引き締めてうなずいた。

 祖父はまずは軽く、世間話的に俺に言葉を投げかける。

 俺は眉をひそめながら、祖父の言葉を日本語に訳した。

「私はまだ一度も舞妓さんを見たことがないのですが、どこに行けば会えますか?」

 こんな言葉に正確を期してどうするのだと思いながら言うと、龍二はにこやかに返す。

「いるところにはいるものです。予定が空いていらっしゃれば、明日にでもご案内しますよ」

「自分で探せってさ」

 俺がそっけなく祖父に言うと、祖父は頷いてまた俺に言う。

「ところで……な奥様で……しました。あんな……な女性は見たことがありません」

「先ほど外でお会いしてきたのですが、素敵な奥様ですね」

「それはありがとうございます」

 龍二は相変わらず笑顔だったが、一瞬だけ目が動いたのを見て取った。

 祖父は心配そうに首を傾げて俺を見る。

「美晴、ちゃんと正確に訳してるかい?」

「じいさんの名誉のために意訳してやってるんだよ」

 限りなく性的な放送禁止用語を連発しやがってと思いながら、俺は祖父を睨む。

「喧嘩売ってんのか、じいさん」

「美晴の困る顔が見たくて」

 嬉しそうに頬をかいている祖父を殴りたい気持ちを、俺は何とか抑える。

 祖父は一度目を伏せて龍二を見る。そのまなざしに、俺は思わず息を止めた。

 大岩のような、揺るぎない力強さをまとって祖父は言う。

「記録をお見せします」

 ふいに祖父はファイルを机の上に置く。

「ファミリーの公的資料からは抹消してあります。私はこの記録を持って、ボスの座から退きました」

 俺は祖父の言葉を訳しながら龍二の様子をうかがう。

「拝見してもよろしいか?」

「どうぞ」

 龍二は少し訝しげな顔をしながら、ファイルを手にとってぱらぱらとめくった。

 あるところまで来て、龍二が手を止める。

 祖父はその場所を知っていたように、暗い面持ちで口を開く。

「……あなたの妹の遥花さんは、私の指示で命を落としました。それを今からお話しします」

 祖父は碧色の瞳で龍二を見据えて、話し始めた。

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