最終話 最愛パラヴィーナ

前編<美晴>1

 いつか君は言っていた。恋愛の一つもしていない自分は変なのかと。

 俺はそれに、変じゃないと答えた。君の周りの人たちが普通だと信じているものは、実際は普通でも何でもないものだと言った。

 確かに君の周りには、普通とはいえない人達がたくさんいる。法律や倫理を踏み越えている方法で愛を示そうとしている人達だ。

 俺もその一人だ。君に振り向いてもらいたくて、ずいぶんと悪いこともした。

 頑なに君の側にい続けたのも、悪いことだったかもしれない。

 今、俺も少し大人になって、君の隣にいるだけがすべてではないと思うようになった。

 俺の望みは、君を愛すること、そして君に愛されること。

 俺は君がどこかにいてくれるだけで、望みの半分が叶う。

 だから、君も好きなように望んでくれ。

 俺は君の外側に生まれた、君の半身だから。

 この世で一番君に近い俺は、誰より君の力になる。

 俺の最愛の君、安樹。

 さあ、君が大好きなハッピーエンドを始めよう。






 俺は父方の祖父、イヴァン・カルナコフの元に来ていた。

 七十を超す老人でありながら未だ屈強な肉体は衰えず、眼光は只人には持ちえない気迫を放つ。

 かつてはファミリーを展開したボスとしての貫禄に、覚悟を決めてやってきた俺でも一瞬怯む。声をかけたものの、それ以上は近づくことができずにいた。

 先に動いたのは祖父だった。祖父は本をテーブルに置いて立ち上がった。

 近づいてくる姿、今はもう白髪になった銀髪と碧眼という特徴は、俺の父に似ているが、がっしりした体格や厳つい表情は、全く父とはかけ離れている。

 恐れが胸をよぎる直前、祖父は俺と間合いを詰めて、ガッ……と俺を抱きしめた。

「マリー……!」

「やめろ、じいさん。ばあさんはとっくにあの世だ」

 俺は体にまとおうとしていた緊張を、馬鹿らしくなって投げ捨てる。

 父は兄弟の中で唯一祖母に生き写しだったらしい。父似の俺も祖母の特徴を受け継いでいる。

 岩のような腕を引き剥がすと、祖父は目をうるっとして俺を見ていた。

「マリー……。君の靴の裏にガムを貼り付けたこと、まだ怒ってるのかい?」

「地味に不愉快な嫌がらせするんじゃねぇよ」

「だって君は最近靴が滑りやすいって言うから。そ、その後ちゃんと全部の靴をぴかぴかに磨いて滑り止めを付けたじゃないか」

「最初からそうしろよ」

 どこの小学生だと思いながら、俺は呆れのため息をつく。

「はっ……。もしかして、君の化粧水にシンナーを混ぜたことを根に持って……?」

「そりゃばあさんじゃなくても根に持つよ」

「私はただ、マリーがこれ以上美しくなったら大変だと思って……」

 祖父は悩ましげに眉を寄せながら俺の手をぎゅっと握る。

「マリー……私のマリア」

「聖母にシンナー吸わせんな」

 生前祖母が頻繁に故郷である南仏の実家に帰っていたというのも頷ける話だ。

 そういえば祖父はこういう人だった。普段の彼というのは、まったく中学生の子どもみたいだった。

 けれどそれだけが人間のすべてではなく、彼には空恐ろしい顔があったことは知っている。

 俺は勝手に近くの椅子を引き寄せて座る。

「俺は美晴。レオニードの息子だ。覚えてるか?」

「もちろん」

 祖父はくすっと笑って、すぐに合点がいったように頷く。

「いつもおねしょの隠ぺい工作をしてた美晴だね?」

「それはもう忘れろ。レオニードの妻の遥花を覚えてるか?」

「それももちろん。綺麗な女性を忘れるわけがないよ。私があと三十年若ければ……」

 祖父は遠い目をして残念そうに口元を歪める。

「いや、若さは問題じゃないからね」

 その口ぶりで、もう口説いた後だとわかった。こういう浮気なところは父に通じるところがある。似ているのか似ていないのかよくわからない父子だ。

「本題に入るぞ、じいさん」

 俺は一言断って、今度こそ緊張をまとって言った。

「……じいさんは浅井竜太郎を知ってるだろ」

 俺は問いかけではなく確認として言った。

 祖父はこれには答えずに、ちらっと俺を見返しただけだった。

 俺は構わず祖父を見据えながら言葉を続ける。

「浅井竜太郎が、自分が母さんを殺したと言いだして、父さんと伯父に命を狙われている。父さんと伯父も衝突寸前だ」

 岩のように変わらない表情の中で、碧色の瞳だけが光っていた。

「このままではりょうは殺される。父か伯父のどちらかが死ぬ」

 俺は首を横に振って、でも、と語気を強めた。

「俺も俺の片割れも、そんな未来は絶対嫌だ」

 俺は立ち上がって、祖父に頭を下げる。

「だから、お願いだ。じいさんの力を借りたい」

 顔を伏せたまま、俺は眉を寄せた。

「……本当は、じいさんに頼むのは悪いと思ってる」

 祖父はとっくの昔にボスの座を長男に譲って、以後人との関わりを避けるようにこの片田舎で隠遁生活をしている。猫かわいがりしていた愛息子の父にすら、もうほとんど連絡を取っていない。

 今更裏の世界にかかわりあいになどなりたくないだろうとはわかっている。

「美晴」

 祖父は俺の頭を上げさせて言った。

「私が龍二のところに出向いて、遥花の死の真相を話せばいいんだね?」

 俺が言いたいことを当てて見せて、祖父は微笑む。

「いいだろう。今の私はもうただの老人だ。惜しむような命も持っていない」

 美晴と俺の名前を呼んで、祖父は笑う。

「過去を背負うのは私たちだけで十分だ。お前と安樹は、未来だけ見ていなさい」

 深く頭を下げた俺を、祖父は無骨な腕で優しく抱きしめた。

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