後編<りょう>10

 父に無理やり外に連れ出されてお互いを確認したが、幸い俺にも父にも怪我はなかった。

 父が家の者を呼んで調べた後、コテージの中に立ち込めるものは催涙ガスとわかった。しかもガスが抜けきるのは一日や二日では無理ということだった。

 父が兄の一人に電話をしたら、結局のところ父に甘い彼はあっさりと俺たちに近所の別荘を貸してくれた。

 農園の中車を走らせている間、父は無言だった。

 俺が拳銃で度胸試しをしていたことは部屋の外で聞いていたらしく、父にしては珍しく俺を𠮟りつけた。

 その後、俺をぎゅうぎゅうと抱きしめて、車に叩きこむなりひたすら運転している。

 当然かもしれないが、りょうの姿はもうどこにもなかった。次どこで姿を露わすか、想像もつかない。

 父方の伯父の別荘に辿り着いて荷物を下ろした頃には、とっぷりと日が暮れていた。

 俺がベランダに出ると、父がむっつりと顔をしかめながら言う。

「どこ行くの、ミハイル」

「あいさつに」

 俺が農園の裏手にあるもう一軒の家を指すと、父はふんと鼻を鳴らした。

「ああ、そう。行ってくれば?」

 父が機嫌を直すには催涙ガスが抜けるくらいはかかりそうだと思いながら、俺は歩きだした。

 時間があまりないが、焦ってもいけない。

 父と伯父はおそらくもう動き出しているが、ここにいる限り俺は安全だ。

 安樹の側にはアレクがいるし、黙っていれば俺と安樹に危害が加えられることはもうないのかもしれない。

 だけどその結果、誰か死ぬことになる。

 ……それは駄目だ。俺の片割れは、呆れるほどの甘いハッピーエンドが好きなのだから。

 俺は丘を越えて、こじんまりしたコテージに辿り着く。

 古めかしい石作りで、父方の伯父のコテージの半分もない。周りにはささやかな菜園と家畜小屋があるくらいだった。

 かろうじてにわとりの声が聞こえるくらいの静けさで、俺の足音だけが人の物音だった。

 俺は家の前で立ち止まって、今はこんな小さなところに住んでいるのかと思った。

 この家には、十五年近く前に老人がたった一人で移り住んだ。その前には、何十人もの家族に囲まれて暮らしていたから、寂しくはないのかと。

 ドアベルを鳴らしたが返事はなく、ノブを回せば鍵は開いていた。

 俺は顎を引いて気を引き締めると、家の中に足を踏み入れる。

 リビングの窓辺に、肘掛椅子にかけて本を読んでいる男の姿があった。

 大岩のような老人だった。広い肩幅に太い腕、七十を超すほどになっても並みの男では敵わないほどの引き締まった体つきをしていた。

「じいさん」

 俺が声をかけても、彼は碧の目で紙の上の文字を追っていた。

「浅井竜太郎のことを知ってるだろ?」

 彼はそこで、本をめくる手を止める。

「じいさんの助けが必要なんだ。俺と安樹に力を貸してくれ……イヴァン」

 かつて裏社会で名を轟かせたファミリーのボスだった男。

 そして俺の父方の祖父、イヴァン・カルナコフは、俺の言葉にゆっくりと顔を上げて俺を見た。

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