後編<りょう>7

 南フランスには何度か父に連れられて来たことがある。

 ここには父の実家の会社があるらしく、父の一族も多く住んでいるし、気さくに父に話しかけてくる知りあいも多い。

 父はいつものように、自分の好きな場所へと思うがままに俺を連れまわした。

「ねえねえ、ミハイルー。僕あれ食べたいな」

 どっちが父親かわからないような、子どもっぽいことを言って俺に甘える。

――レオ、お前はもっとしっかり父親の自覚を持って子どもを教育しろ。

 何度か会った伯父たちはいつも眉をひそめていた。

――だってかわいいんだもん。

 ぷくっとむくれる父を、伯父たちは叱った。

――かわいいだけじゃ駄目だろうが。教育は安樹と美晴のためなんだ。

 伯父たちの言っていることの方が正しいことはわかっていた。

 いつまでもふらふらしていて、子どもと会っても甘やかすばかり。世間的に言って、駄目な父親であることは間違いなかった。

――僕はいつでもエンジェルとミハイルのためを思ってるよ?

 ある時父はきょとんとして、何気なく言った。

――だって二人が幸せだと、僕、とっても嬉しいもん。

 父は当たり前のことを言うように、言葉を続けた。

――二人が死んじゃったら、僕、ハルカのところに行くもん。

 父は思ったままを言ったのだろう。

 伯父たちは笑い飛ばすでも叱るでもなく、ただ諦めたようにため息をついただけだった。つまり、父はそういう人間なのだ。

 俺たちは日中街を歩きまわって、夜になる前に田舎のコテージに来た。

 そこは父の持っている別荘で、俺も何度か来たことのある隠れ家だった。周囲には農地が広がっていて、街灯一つない。

 父はまるで修学旅行中の学生のようにわくわくと話し続けたが、やがて一つ大きなあくびをすると、おもむろにベッドにもぐりこんで電池が切れたように眠った。

 俺もベッドに入って眠る。

 幸い悪夢ではなかった。父が側にいてくれるという安心感があったのかもしれない。

 俺は久しぶりに、夢の中で安樹以外の姿を見た。

 現実にあった記憶だった。雪深い故郷でのことだった。

 確か俺は八歳だったと思う。父と東欧辺りを旅行中に、俺は父方の祖父に会った。

――レオには内緒だぞ。

 祖父は俺をこっそり母のお墓に連れて行った。父は母が亡くなってから、俺と安樹を決して故郷に近付けなかったから、初めてのことだった。

――一番奥にお母さんのお墓がある。挨拶してきなさい、美晴。

 真っ白に雪化粧された大地に、十字架の立ち並ぶ墓地だった。

 俺は雪の感触にうきうきしながら、飛ぶように駆けて行った。

 そこで俺は、墓地の奥で「彼」に出会った。

 彼は十代半ばほどの小柄な少年だった。黒髪に黒い瞳の東洋系の顔立ちをしていた。

「しばらく来られなくてすみません、遥花さん」

 彼は腕から溢れんばかりの大きな花束を抱えていた。

「雪がよく降りますね。寒くはないですか?」

 屈みこんで、無心に墓石にかかる雪を払いながら、彼は語りかけた。まるで目の前にいる誰かと話しているようだった。

 丁寧に雪をすべて払って花束をささげると、彼は十字架にキスをした。

 黒髪が揺れた。こちらを振り向いたのがそれでわかった。

「君が美晴?」

 俺が頷くと、少年は微笑んだ。

「お兄ちゃんは、お母さんが好きなの?」

「愛している」

 少年は迷わず答えてみせた。

「お母さんは、お父さんのものなんだよ」

「そうだね」

「もう、死んじゃったんだよ」

「うん」

 少年は静かすぎる答えを返してから、優しく言葉を続けた。

「でも、遥花さんだろう?」

「え?」

「僕にはそれで十分だ」

 この人はどこかおかしいと俺は思った。

「変かな?」

 少年はそんな俺の内心を読みとったように、小さく首を傾げてみせた。

 俺は答えに困った。変だとも思ったし、そうでないようにも思った。

「僕は変わるよ」

 少年はそれ以上俺に答えを求めず空を仰いだ。

「いつまでも、何度でも、原型さえ留めなくなっても。遥花さんの望みを叶えるまで、僕は変わり続ける」

 彼は墓石に笑いかけた。狂っているほど美しい笑い方だった。

「それが、僕が遥花さんに捧げる、「愛してる」だから」

 少年はぽんと俺の頭を叩いて言った。

「君もみつけられるといいね。君だけの、「愛してる」」

 その時の風のような少年の声を俺は決して忘れない。

――初めまして、吉峰りょうです!

 十年近く経ってからブラウン管の向こうでその声を聞いて、俺はすぐに気づいた。

 外見は全く同一人物とは思えなかった。名前も、性格も、性別すら変わっていた。

 彼はあの時の言葉通り、変わり続けたのだろうと、妙に納得したのだ。

 りょうはおそらく、母の何かの望みを叶えるために今も動いている。

 酷い目に遭わされたが、俺はあいつのことを嫌いにはなれなかった。

 何にも動じず自分の愛の形を貫こうとするあいつの強さは、羨ましいとさえ思っていたから。

 夢から目覚めた俺は、隣のベッドに父がいないことに気付いた。

 日本よりはだいぶ暖かいとはいえ真冬だから、どこもかしこも冷え切っていた。

 まだ夜は明けていなかった。真っ暗闇の中、俺はベッドから抜け出す。

「エンジェルはどう?」

 隣室で父の声が聞こえたから、俺はそちらに足を向ける。

「だいぶ落ち着いてきました。美晴は……?」

 扉を開けて中に入ると、パソコンで父がアレクと話していた。

「見ての通り」

 父が俺を傍らに立たせると、画面の向かい側でアレクが頷いた。

 父は椅子にかけて頬杖をつきながらアレクに問いかける。

「美峰りょうの詳細はわかった?」

「芳しくありません」

 アレクは苦い調子で答える。

「どうやって、私を騙せるほどあなたに似た声色を習得したのかさえ」

「ああ、それたぶん僕のせい」

「は?」

 父は明後日の方向を見て言った。

「十年くらい前、バルセロナでバカンスしてた時だったかなぁ。東洋系のかわいい男の子が、僕の声真似してみたいっていうから本気でレクチャーしたんだ。あれだね」

「レオ……」

 アレクは呆れたように呟く。

「し、しょうがないじゃん。かわいければ何でもいいんだよ」

 アレクの白けた視線に耐えかねたように、父は墓穴を掘るような言葉を返した。

「まあいい。その子、みつけて捕まえといて」

 父はアレクに向かって何気なく指示を出す。

「処理は僕が決める」

 俺は思わず父を見た。父は表情を消して画面を見ていた。

「正体なんてわからなくていい。エンジェルとミハイルを傷つけた。許しはしない」

 声を荒げることもなく、表情に出すこともない。ただ最小限のことを告げる。

「龍二も消そう。決めた」

 それが父の本気の怒り方だと、俺は知っていた。

 俺は咎めるように父の肩を押さえる。

「あ、待って」

 父は俺を見上げて、アレクに目を戻す。

「エンジェルに、お土産は何がいいか訊いといて」

 今人を殺すと言った口で、父はそう付け加えた。

 通話を切った父に何か言おうとしたが、喉が詰まって声が出なかった。

 父は一瞬だけ悲しそうに俺を見て、立ち上がる。

「愛してるよ、ミハイル」

 俺の頬にキスして、父は部屋を出て行った。

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