後編<りょう>6

 午後になって、父が俺を迎えに来た。

 その頃には楓さんもマンションに帰っていて、父と二人でしばらく話しこんでいるようだった。

「世話になったね、カエデちゃん」

 普段はそんなことを言う柄ではない父だったが、珍しく楓さんに礼を告げた。

「リュウ君も、ありがとね」

「俺は何も」

「君がミハイルの友達でいてくれてよかった」

 父の言葉に、俺はふと思う。

 確かにそうかもしれない。昔から男同士の付き合いを避けてきた俺にとって、竜之介は唯一の男友達といえる存在だった。

「レオニード、私が言える立場でないことはわかってるけど」

「君のことは嫌いじゃない」

 楓さんが口にしようとした言葉を、父は言わせなかった。

「ただ僕は、ハルカとエンジェル以外の女の子の頼みは聞かないんだ。ごめんね」

 父は俺の肩を抱いてマンションを後にした。

 タクシーの中で、父は俺に振り向く。

「ちょっとパパと旅行に行こっか」

 何があったのかはすべて知っているのだろうけど、父はいつもと変わりない明るい顔で言った。

「あったかいところがいいね。のんびりできそうな……南仏なんてどうかな? ね、そうしよ」

 仕事はどうしたのだろうか。父にそれを訊いても答えはわかっている。

――仕事はしたい時だけすればいいじゃん。

 昔から自由な人だった。人に縛られるのが嫌いな性格だった。

 母と暮らしていた頃でさえ、ふらりと一人で旅行に行ってはずいぶん長く家を空けた。

 父と俺の見た目はそっくりだが、その中身はかなり違う。

 俺は縛られていたい。あの子の側を片時も離れたくない。あの子に喜んでもらえることが、俺の生きがいでいい。

「自分がしたいことを言わないと、全部僕が勝手にやっちゃうよ」

 ぼんやりとしていた俺に、父は言った。

「僕にしてほしいことがあるなら言って。僕にできないことでも、やってみせるから」

 父に連れられて空港へ向かう。父は自分がいつもするようにトランクすら持たずに、俺の分のトランクだけを引いていた。

 その場で航空券を買って、飛行機に乗り込む。

 父は雑誌に乗っていた子ども用のおもちゃがもらえないことにむっつりしていたり、ホラー番組に悲鳴を上げていたりした。

「あははっ。ミハイル、このお菓子おいしーよー」

 今度は子ども向けのアニメを見て笑いながら、父は駄菓子を俺に勧めてくる。

 他人の迷惑など考えない人だ。もしかして俺が手首を切ったことすら忘れてるんじゃないかと思うほど、父は普段通りに楽しそうだった。

 俺はやることが思いつかなかったので、座席に背を預けて視線を宙に浮かせていた。

 独特の浮遊感の中で、俺は夢かうつつかわからない光景を見ていた。

 陽だまりの色の髪をした、小さな女の子の後ろ姿だ。

 振り返らなくてもわかる。幼い頃から見つめ続けていた。その髪の色で、輪郭で、雰囲気だけで、俺の片割れだと確信を持つ。

 でも俺は声をかけられない。どんな風に君に声をかけていたのか、思い出せない。

 声をかけて振り向いてもらえなかったら……振り向いた時に君の顔が曇っていたら、そう考え出すと喉が詰まってしまう。

 それでも手を伸ばそうとして、俺はその手が泥だらけであることに気付いた。

 手を服で拭おうとしたら、その服もどろどろだった。黒くて汚くて、嫌な匂いがした。

 ……こんな自分じゃ、あの綺麗な子に近付けない。

 立ち竦んだら、足元から沈んでいく。底なしの泥沼に飲みこまれていく。

「うううっ」

 悲鳴とも唸り声とも判別がつかない声を上げて、俺は覚醒した。

「ミハイル?」

 隣の席で、父はヘッドホンに手をかけて振り向く。

 俺はばっと口元を手で覆った。

「ここに吐いちゃいな」

 父は自分のシャツを脱いで俺の前に差し出す。

 汚したら二度と着ることなどできないだろうに、父は一瞬も迷わなかった。

 目を上げると、幼い頃から俺と片割れに向けられてきたまなざしがそこにあった。

「君とエンジェルは僕の一番かわいい子。何をしたってかわいい」

 俺の肩に手をやりながら、父は俺を覗き込む。

「だから何にもがまんしなくていいんだよ、ミハイル」

 父の降り注ぐような優しさに、俺はうつむいて涙を落とした。

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