後編<りょう>3

 俺は少し眠っていたようだった。

 幼い頃、安樹と遊び疲れて眠った後にふと目を覚ますと、よく俺たちは母の膝の上で頭を撫でてもらっていた。

 安樹は一度眠るとなかなか起きなかったから、目を開けるのは俺だけだった。母はそんな俺を見て微笑んだ。

 母が何を話していたのかは、よく覚えていない。

 たぶん、雪がよく降るわね、とか、レオはまだかしら、とかそういう他愛ない言葉だっただろう。

 俺は眠たげに母を見上げていた。髪に触れる手のぬくもりが心地よくて、うつらうつらとしながら母の声を聞いていた。

 母は、綺麗な人だったような気がする。優しい人だったとも記憶している。好きだった……と思う。

 だけど、母と過ごした時間は五年もない。それも幼い頃だから何もかもあやふやだ。

 父がふいに優しい顔をして語るのも、伯父があれだけ執着しているのも、本当に俺が知っていた母だったのか自信を持って語れない。

 時々、母が酷く憎らしくなる。

 母が伯父をきちんと説得して離れてきたなら、もっと言うなら死ななければ、安樹が苦労することなんてなかったのにと思う。

 母には、安樹と俺の体を別に産まないでほしかった。自分が安樹と違うと知って以来ずっと、俺は安樹にそれを知られる日がくるのを怯えている。

「……ガキだ」

 そんなことを母のせいにしてもどうしようもないと、俺は自己嫌悪に陥る。

 身じろぎしたのが伝わったのか、髪を撫でる手が止まる。

 目を開けると、りょうだった。裸の俺と違って、もうすっかり身支度を整えていた。

「なに」

 女と寝た後に母親の夢を見た自分に嫌気がさして、俺は不機嫌に呟く。

「美晴にも面影があるよ」

 暗くてりょうの表情はよく見えなかった。

「だから今まで、龍二さんは美晴を殺せなかったんだろうね」

「ふん……」

「安樹ちゃんにもお父さんに似たところがある」

 りょうは両手で俺の首を掴んだ。

「龍二さんは、安樹ちゃんが愛しくて……同時に、殺したいくらい憎いのかもしれないね」

 ぎゅっと力をこめられて、俺は一瞬息ができなくなる。

「当然だね。君たちには、龍二さんにとってもっとも愛おしい姿と憎い姿が重なってるんだから」

 すぐにりょうは手を離す。俺は乾いた咳をした。

「竜之介と安樹の結婚は、その矛盾を解消するためのものか」

 龍二の中の相反する感情を、自分の分身である竜之介と母の分身である安樹を結び付けることで決着をつけようというのだ。

「狂ってる」

「でも愛してる」

 思わず呟いた俺の言葉に被せるように、りょうは告げた。

「りょうは龍二さんの気持ち、ちょっとわかるな。……好きではないけどね」

 りょうは声の調子をいつもの能天気なものにすり替える。

「さぁて、美晴。初体験おめでとう」

 わざとらしく拍手をして、りょうは笑顔を見せる。

「新しい人生の夜明けっていうのかな? これはもう皆に知ってもらわないとね」

 さっと、俺の体から血の気が引く。

「よく撮れてるでしょ?」

 りょうが見せたのは、写真だった。一目で俺が女と寝ているとわかる姿が映っていた。

「まさか、それ」

「ふふ。美晴が知っての通り、りょうはか弱い女の子なんだぁ。歌もトークも下手っぴなの」

 りょうはにっこりと笑って答える。

「……でもりょう、性格の悪さだけは誰にも負けない自信あるんだぁ」

 りょうが何をしようとしているのか気づいて、俺は手を伸ばす。

「やめろ!」

 りょうは俺の手をすりぬけて立ち上がる。

「じきに迎えにきてもらえるよ。よかったね」

 俺が止めるのも聞かずに、りょうは軽い足取りで去っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る