後編<りょう>2
足枷を外そうとひととおりのことは試してみたが、思った通り頑丈な作りをしていて、一時間ほどで外すのは諦めた。
それにここは伯父の家だ。およそ家の作りを知っているとはいえ、ガタイもよく武器も持っている連中を大勢相手にして一人で抜け出せるとは思えなかった。
足枷のチェーンは部屋の中を歩き回れるくらいの長さはあったので、俺は縁側まで出て来て座る。
何もすることがなかったから、俺は一人でいる時によくするように、発声練習をした。
最近自分の声は低くなっている。気をつけないと、父と同じくらいの低い声で話してしまいそうだった。
幼い頃から変わらない片割れの笑顔を思い出して、俺は思う。
安樹は昔から、男っぽいものが苦手だった。周りにいる大人の男である父やアレクはあまり男くさくないから、余計にそれに磨きがかかった。
――りぼん、かわいい。みはるとりぼん、もっとかわいい。
その代わりに、かわいいものが大好きだった。幼い頃はわりと中性的だった俺がお気に入りで、俺にかわいい格好をさせようと一生懸命だった。
「あすちゃん」
俺は男だよ。本当は、君の方がずっとかわいいんだよ。
そう言いたかったけど、安樹の笑顔を見たらその言葉は引っ込んだ。
君が望むなら、君が笑ってくれるなら、俺はかわいくなりたいと心の底から思った。
君が結びたいなら、俺は髪を伸ばしてリボンをつけよう。高いはしゃいだ声で、子どもっぽいことを言って、君に頭を撫でてもらおう。
だけど同時に怖くなる。
いつか君は気づくのではないか。俺が男だと、自分とは違うものだと、実際はかわいくなど何ともないものだと、君は知ってしまうのではないか。
「あすちゃん」
気づいた時、君が俺にどんな感情を抱くのか想像すると、震えが止まらなくなる。
確実に君は、君の信じていた姿とは正反対の俺の姿に、嫌悪感を覚える。……俺を嫌う。
そうなったら、俺はどうすればいい?
思考が出口のない迷路にはまっていく。
俺は伯父が大嫌いだが、その気持ちは痛いくらいによくわかる。
何より大切な宝物が取り上げられようとしたら、選べる方法は二つしかない。あきらめるか、取り返すかだ。
愛する人が側を離れていくときだって同じだ。伯父は必死に取り戻そうとしているのだ。もう本人である母は二度と帰らないとわかっていても、すがらずにはいられない。
「……安樹」
俺だって、その時が来たらきっと醜く追いすがってしまう。
膝を抱えて、俺は安樹の名前を繰り返した。
「こんなところで腐ってんじゃないわよ」
ふいに頭を蹴られた。見上げると、信号カラーのファッションが眩しい女の子だった。
由衣が俺の頭を足蹴にしながら、憤然とそこに立っていた。
「何やってんのよ、あんた」
音を立てないようにそっとふすまを閉めて、由衣は鋭く追及してくる。
「監禁されてた」
「じゃ、逃げろよ」
俺が素直に答えたら、由衣は間髪いれずに続ける。
「足枷があるし、警備がきつい」
「警備? あたしがこんなに簡単に入りこめたのに?」
由衣は苛々と口早に言う。
「足枷なんぞ引きちぎれ。この根性無し」
「いや……それ無理だろ」
鉄製の本物の足枷だぞと俺は眉を寄せる。
「見せてみな」
由衣は胡坐をかいて座って、俺の足枷を引っ張る。
彼女は針金を取りだして、足枷の鍵のところを少しいじった。
「確かにレトロな鍵開けじゃ無理そうね」
そう言って、由衣は肩に下げていたスポーツバッグから何かを取りだした。
「じゃ、これならどうだ」
由衣が取りだしたのは小型ドリルだった。
「……なんでそんなもの持ってんだよ」
これには俺も目を剥く。一般的に女子大生の鞄に入っているものじゃない。というより、一般家庭に置いてあるものじゃない。
「敵陣に飛び込むにはドリルくらい持っとけって、うちの親父も言ってたわ」
「そりゃお前、両親別れるよ」
「黙れ。その口に突っ込むぞ」
由衣は慣れた様子でドリルを作動させる。
輪の部分を狙って切るのは無理と判断したのか、由衣は足枷のチェーンの部分にドリルの先端をあてる。
甲高い音を立てて、チェーンが千切れた。足枷は重いが、ひとまず歩いてはいけそうだ。
「行くわよ」
由衣は素早くドリルを仕舞って俺に言った。
辺りの気配を気にしながら先に歩いて行く由衣に、俺は告げる。
「由衣」
「黙って歩け」
「ありがとう。それだけ。もう黙る」
宣言通り俺がそこで口をつぐむと、由衣は一言だけ呟いた。
「あんたたちは双子だわ」
何を当たり前なことをと俺は怪訝な顔をしたが、由衣はそれ以上何も言わなかった。
文化財並みの敷地を持つ屋敷の中を、俺たちは周囲に警戒しながら進む。
何度目かの方向転換をして、俺は口の端を下げる。
「誘導されてるな」
「結構だわ。売られた喧嘩は買ってやろうじゃないの」
喧嘩っ早い奴だと呆れながらも、今はそれが心強い。
扉を開くと、この家の中では珍しい洋間だった。三十畳くらいの広さで、中央には縦長のテーブルが置かれていた。
「おはよう」
そこの中央の席で、龍二がコーヒーを片手に新聞から目を上げたところだった。
俺と由衣は目配せした。この部屋の周囲に人が詰めている気配を感じる。何かあればすぐに踏み込んでくるだろう。
俺たちの後ろで扉が閉まる。
振り向くと、りょうがにこにこしながらそこにいた。
「……くっ!」
俺の両手を後ろにねじりあげて、りょうは俺の喉元に刃を突き付ける。
龍二はそれを平然と見ていて、由衣に声をかけた。
「由衣。君に会いたいと思っていたよ」
彼はコーヒーカップを置いて親しげに話しかける。
「私もあなたに会って話したいことがありました」
「それはちょうどいい。聞こう」
由衣はつかつかと歩いて行って、龍二の席の前に手をつく。
「もう安樹のことは放っておいてください」
まどろっこしいことが嫌いな由衣らしい言葉だった。
「あいつは馬鹿なんです。全然望んでないのに、美晴のために結婚しかねない。あなただって自分の息子の嫁がそんな動機の女でいいんですか」
「いろいろな心配をしているようだね、由衣」
龍二は動揺する素振りを見せず、ゆったりと返した。
「私たちのことを君が心配する必要はないんだよ」
「気にかけるのはあたしの勝手です」
「そうなると、君もこちらの世界に入って来るということになるね」
微笑んで、龍二は由衣を見やる。
「君のような勇気ある才媛なら大歓迎だ。おいで、由衣」
彼の艶やかな眼差しに、由衣は思わずといった様子で一歩後ずさる。離れる前に、龍二は由衣の手を掴んだ。
「可愛い子」
由衣は手を突っ張った。けれど龍二の力には敵わないようだった。
もうすぐ昼で外は明るい光で満ち溢れているのに、彼の周りにはまだ夜が漂っているようだった。
龍二が立ち上がる。それは猛獣が体を起こす仕草に似ていた。
「甘いお菓子をあげるから、今はこれで我慢しなさい」
空いた方の手で、龍二は由衣の頭を引き寄せた。
深く口づける。由衣は自由な方の手で抵抗したが、龍二は意に介していないようだった。
「……最低!」
ようやく解放された由衣はそう呟いたが、その声には先ほどまでの勢いがなかった。
「やーい、龍二さん、かまれたー」
りょうが口の端の血を指先で拭っている龍二にヤジを飛ばす。
「若い子は元気でいい」
龍二は愉快そうに笑い声をたてて、りょうに目をやる。
「今の写真は没収だ」
りょうはいつの間にか片手にカメラを持っていた。
「楓さんと鈴子さんにお小遣いもらおうと思ったのに」
「楓はバッグ一つと平手打ちで済むかもしれんが、鈴子には別れられかねない。カメラを置いて行け」
「ちぇっ、けち……」
渋々といった様子で、りょうはカメラを離す。
その隙に俺は体をねじって、ナイフを持つりょうの手首を掴んだ。
「俺は残ります。けど、由衣を無事に家まで帰してください」
りょうの首筋にナイフを当てて、俺は龍二に言う。
「美晴。あんたが帰らなきゃ意味ないのよ!」
「由衣に何かあったら安樹が泣く」
俺はナイフに力をこめて龍二を睨む。
龍二は微笑みを崩さないまま言った。
「そうだな。私も安樹を泣かせたくない。……なるべくはね」
家の者を呼んで、龍二は由衣を連れて行かせた。
龍二は背もたれに背を預けてのんびりと言う。
「いい子だ。由衣といい、竜之介といい、純真で」
龍二は俺がりょうにナイフを突き付けていることなど気にもせずに顔を上げる。
「だがそれではこの世界で生きられない。竜之介にりょうをつけたのは、少し世の中の汚さを知ってもらいたいという親心だったのだが」
「龍二さん、ひどーい」
りょうもまた、ナイフを気にもしていないようにきゃっと笑った。
「勝手にすればいい。だが安樹を汚すことは許さない」
「はるかは汚れない」
ふと見えないものを見るような目をして、龍二は呟いた。
「……永遠に」
龍二に意識を取られていたせいだろうか。俺は一瞬でりょうにナイフを取り返された。
「さ、お部屋に帰ろっか、美晴」
うきうきしながら俺の方向を反転させて、りょうは後ろ手に扉を閉める。
しばらく俺を先に歩かせながら、りょうは唸り声を上げた。
「ちょっと予定変更かなぁ。安樹ちゃんを竜之介と結婚させるだけじゃ駄目っぽいな」
「伯父が満足しないと?」
「いや、りょうは龍二さんの満足はどうでもいいんだけどね」
あっさりと言いきって、りょうはしばらく考え込んでいた。
まっすぐ廊下を通って来たから、行きの半分ほどの時間で元の部屋まで戻って来た。
「ね、美晴。お母さんの死の真相、教えてあげてもいいよ?」
唐突にりょうは俺に向かって言い放った。
「その代わりに俺に何をさせようっていうんだ?」
俺は疑惑の目でりょうを見据えながら問う。
りょうは薄っぺらな笑顔を浮かべて言った。
「りょうとエッチ一回」
「……は?」
「やだぁ、女の子に二度も言わせないでよぉ」
頬に手を当てて照れるりょうを、俺は眉をひそめながら見る。
何が目的だ、こいつ。そういう思いがたぶん俺の顔全体に出ていたのだろう。
「今夜の八時にまた来るね」
だけどりょうは俺が承諾することなどわかりきっているように続けた。
「怖くないよ。りょうがリードしてあげるからね」
りょうは再び俺の足枷をつなぎ直していた。
ぱっと立ち上がって、りょうは軽やかな足取りで駆けていった。
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