前編<竜之介>5

「安樹。朝ですよ」

 朝、アレクのひと声で起こされて、私は自室のベッドの上にいることに盛大な安堵のため息をついた。

 昨夜はひどい悪夢だった。私の脳がついにおかしくなったのかと思った。

 だけど大部分の夢と同じで、たぶん朝ごはんを食べ終わる頃には忘れているだろう。

 背伸びをして、ベッドから降りる。そこで足元に誰か寝ていることに気付いた。

 真冬だというのに布団を蹴飛ばして寝ているのは由衣だった。

「お腹冷やしちゃだめだよ」

 昨日は由衣が泊まったんだったっけと思いながら、私は起こさないように由衣の布団をかけ直した。

「おはよう、アレク」

 着替えて顔を洗ってからリビングに向かうと、割烹着姿で食卓の準備をしているアレクがいた。

「おはよう」

 アレクは優しく目を細めて、少し屈んで私の頬にキスをした。

 私もいつものようにキスを返して、そして何気なく席につこうとして首を傾げる。

「ミハルは?」

 同じタイミングで席につくはずのミハルの姿がどこにもない。

「竜之介君の家に泊まってくるそうです」

「えっ!」

 私はガタンと席を立って言う。

「ミハルが外泊? なんで?」

「年頃なんですから、友達の家に泊まることくらいあるでしょう。座りなさい」

「いや……でも」

 私はそわそわとして、アレクに促されて席にかけた後も言葉を続ける。

「なんか悪い遊びに誘われてたりとかしないかな」

「竜之介君がそういうことをする子に見えますか?」

「だってミハルは純粋で弱い子だから」

 私が眉を寄せると、アレクは私の頭をぽんと叩いた。

「あなたも純粋で弱い子です。だからまず自分のことを考えなさい。ほら、冷めますよ」

「うん……」

 私は頷いて、仕方なくアレクの作った朝ごはんを食べ始めた。

 完食して私が手を合わせると、アレクも食べ終わって席を立つ。

 今日は日曜日で焦らなくていいから、アレクは朝のコーヒーを持って来てくれる。

「さて」

 私がコーヒーに口をつけると、アレクは待っていたように切り出す。

「安樹。竜之介君と結婚する気はありますか?」

 ……ぶっと吹き出さなかっただけ、私をよくやったと褒めてほしい。

「な、何だよアレク。コーヒーブレイクにはショッキングすぎるよ」

「現実に迫っている話です。あと三十分ほどしたら竜之介君がここに来ますから」

「そんなの……」

 なんでと言いかけて、私は今朝の悪夢を思い返す。

「いや、あれは夢だ」

「安樹」

「それよりミハルのことだよ。外泊なんて、ちょっと私電話して……」

 席を立って棚の方に向かったら、ちょうど電話がかかってきた。

「もしもし?」

「おはよー」

「ミハル、今かけようと思ってたんだ。ねえ」

「ブブー。外れー。パパでーす」

 私はがくりと肩を落として言う。

「なんだ父さんか……。最近ほんと声似てきたよね」

「なんだだなんてひどいよぉ。エンジェル」

 父はかわいくむっとして見せて、だけどすぐにそんなことは忘れたように明るい声を上げる。

「ね、ね、アレクから聞いたんだけど。エンジェル結婚するんだって?」

「しません」

 反射的に私が否定の声を上げると、父はがっかりした声になる。

「えー、しないの? 僕今からわくわくしてるのに」

「娘の一大事だぞ。なんで喜ぶ?」

「だってさ。日本では「娘さんを僕にください」って来た男を、父親は好きなだけボコっていいんでしょ?」

「勝手に拡張するな。殴っていいのは一発だけだ」

 父はあんまり聞いていない様子で言葉を続ける。

「ああ。楽しみだなぁ。でも僕、どう頑張っても家に着くのは明後日。エンジェル、それまで教会行ったりしないでね!」

 プツンと通話が切れる。

 言いたいことだけ言う父めと受話器を睨んだ。

「安樹、頭は冷えましたか?」

「……ちょっとは状況がわかってきたよ」

 何だか父に無理やり現実に戻された感じだ。

 私は仕方なく自分の席に戻って、アレクと向き合う。

「昨夜、由衣さんが呆然自失のあなたを引きずって帰ってきてくれました。彼女が言うには、竜之介君とあなたが関係を持ったかのような写真でゆすられて、竜之介君があなたと結婚することを宣言したとか。合っていますか?」

「まあ、大体そんな感じじゃないかな」

「それであなたは、私が承諾すれば結婚すると答えたと」

「……ごめん、アレクに丸投げしちゃって」

 正直に頭を下げて謝ると、アレクはあっさりと答える。

「それで結構。あなたでは抵抗できない状態だったのでしょう。それなら私に投げるのが正解です」

 顔を上げると、アレクはおっとりと微笑む。

「あなたと美晴を守るのが私の役目です。困ったら頼ればよろしい」

「アレク……」

 うるっと私は目を潤ませる。

 そんなこと言ってるからアレクの髪は薄くなっていく一方なんだよ。口に出せないまま、私はうつむく。

「ただ、今回は竜之介君の結婚宣言を切って捨てればいいという単純な構図ではありません」

 アレクは青い瞳で私をみつめながら言う。

「竜之介君の父親に会ったそうですね」

「うん。なんだろう、あの人怖い」

 クラブで会った時とはまた違った。龍二さんの目は怖いくらいに光っていて、私を目だけで捕まえてしまいそうな力があった。

「彼はあなたと竜之介君の結婚を強硬に進めてくるでしょう」

「あ、あのさ。アレク」

「何ですか?」

「逃げる……わけには、いかないのかな」

 自分の臆病さ加減を笑いたくなるけど、でも感じるのだ。

「おじいちゃんの家とか、その……余所の国でもいい。お正月の恒例の旅行をちょっと早めてさ、あの人の目の届かないところに行ってちゃいけないのかな」

 あの人の私を見る目は何かが「違う」。ここにいてはいけないと、私の中で警鐘が鳴り響く。

 アレクは露骨に眉を寄せる。

「あなたがそんなことを言いだすとは」

「ごめん」

「いいんです。あなたにもそろそろ危機感を持たせないといけないとは思っていましたから」

 少し考えて、アレクは最初の質問を繰り返す。

「安樹。確認ですが、竜之介君と結婚する気はありませんか?」

「あいつのことが私は大嫌いだってことは、アレクもよく知ってるだろ」

「形だけでもというのはどうです?」

「形って言っても……」

 私は言葉に詰まる。

「私の認識を伝えます。あなたと竜之介君が籍だけ入れて、あなたがあちらの家に住むこと。今現在、一番穏当に片付く方法はそれだと考えています」

 アレクが言ったのでなければ、私はそんな馬鹿なと相手にしなかっただろう。

 でも昔から私を最優先で守ってくれたアレクがそう言うのだから信用しないわけにもいかない。

「そうしなきゃ、まずい状況になるっていうんだな?」

「相手がどこまでしてくるかはわかりませんが、確実に今よりは悪い状況になるでしょう」

 私はううと唸る。

「でも、あいつと結婚なんて」

 思わず本音を漏らすと、アレクは苦笑する。

「あなたが思っているほど、竜之介君は悪い子ではありませんよ。今回も、彼なりにあなたを想ってのことなのでしょう」

「あいつがそんなはずないじゃないか」

 昔から散々馬鹿にされてきた。たとえアレクの言葉でも、こればかりは信じられない。

「私は嫌だ。結婚なんてしない!」

 幼い頃から積もって来た怒りを爆発させて机を立つと、アレクは目を伏せた。

「それなら仕方ないですね」

 インターホンが鳴った。アレクが立って、間もなくして竜之介を連れてリビングに入って来る。

 その竜之介の後ろから宅配業者がついて来ていた。

 竜之介は宅配業者に大きな段ボールを下ろさせてアレクに示す。

「手土産です。あなたに差し上げます、アレクセイ」

「こ、これは……」

 アレクは細い目を見開いて声を震わせる。

「最新鋭全自動ドラム式洗濯乾燥機、「C2-3PO」っ?」

 その名前著作権とか大丈夫かなと思いながら、私はわなわなと震えるアレクに嫌な予感を受ける。

「省エネ・時間短縮・サイズと死角なし。これがあれば梅雨時も部屋干ししなくて済む……竜之介君、私の心を揺さぶる術を心得ていますね」

「アレク! 洗濯機ごときで娘を嫁にやらないでくれ」

 私が慌てて止めに入ると、アレクはハンカチで額の汗を拭う。

「大丈夫。私は今の旧式が気に入っています。さて、気を取り直して竜之介君の話を聞きますよ」

 名残惜しそうに洗濯機に目をやりながら、アレクは宅配業者を返す。

 アレクに勧められるままに、竜之介がコタツに入る。アレクに言われて、私も仕方なく横に座った。

 アレクがお茶を持ってくる間、竜之介と私の間には沈黙しかなかった。

 お茶とお菓子が出されてアレクがコタツに入ると、竜之介は口を開く。

「アレクセイ。単刀直入に言います」

 頭を下げて、竜之介はアレクに告げた。

「俺と安樹の結婚を認めてください」

 竜之介は黒々とした目をアレクに向けて話し始める。

「ずっと安樹を守って来たあなただろうが、今回ばかりはあなたの元では安樹を守りきれない。あなたならわかっているはずだ」

「いえいえ。そう私を買いかぶらないでください」

 アレクはのんびりとお茶をすすりながら首を傾げる。

「私はさしたる特技も社会的地位もないさえないおじさんです。あなたのように才能と若さに溢れている青年とは違いますよ」

「そんなことない」

 私は思わず声を上げる。

「アレクほど立派な男なんていないよ。竜之介がアレクに勝てることなんて……」

 髪の多さだけだよと言いかけて、私ははっと我に返る。

「……な、何もないよ」

「安樹。あなたは優しい子ですが、時々その優しさが痛いです」

 目を逸らした私から胸に秘めた言葉を察したらしく、アレクは首を横に振った。

「しかし、結婚はいくら何でも急ぎ過ぎなんじゃないですかね」

「いいえ。肉体関係を持った以上、責任は早急に取ります」

「アレクの前で嘘を言うな!」

 私がかっと顔を赤くすると、竜之介はしれっと答える。

「既成事実は動かし難い。お前も覚悟を決めろ」

「な、な……!」

「まあ、竜之介君が安樹を庇ってくれたことはわかりますよ。外聞をはばかってくれたんですよね」

 アレクが私をよしよしと宥めながら言葉を挟む。

「竜之介君の優しさや心意気は承知しています。私に娘がいたら、あなたのような青年の求婚はむしろ歓迎したでしょう」

 アレクは涼やかな青い目で、じっと竜之介を見据えた。

「……ですが、今回は安樹のことです。覚悟と力の無い青年では、安樹を渡すわけにはいかないのです。私から安樹を取り上げたいなら、他のすべてを捨てても安樹を守る心とそれを実行できる力を見せなさい」

 私はアレクの言葉に頼もしく感じるのと同時に心の裏で思う。

「いや、それは普通の男に求めるには無理じゃないか?」

 思わず疑問が口に出ていたが、アレクはあっさりと返す。

「ですから、普通の男にあなたはやりません」

「確かに俺はあなたから見れば頼りないかもしれない」

 竜之介はアレクの目を見返して淡々と返した。

「だが俺は安樹に平凡な一生を与えてやれる。それができるのは俺しかいないと思っている」

 アレクは目を伏せて黙った。

「安樹の日常が壊れない内に、安樹を安全なところに移すのもあなたの役目じゃないか?」

「ずいぶん大きな口を叩くもんだわね」

 ふいに戸口の方から声が聞こえた。

「あ、由衣起きたんだ」

「これだけドタバタしてりゃあね」

 キャミソールとショートパンツ姿で、由衣が扉にもたれかかりながら立っていた。竜之介が不愉快そうな目を向ける。

近城きんじょう。昨日から言おうと思っていたが、部外者が口を挟まないでもらえるか」

「あんたらは身内で話をしすぎね」

 由衣は眠そうに目をこすりながら、鋭く竜之介を見据える。

「部外者が口出しして何が悪いのよ。あんたらだって、安樹の意見そっちのけで話進めてんじゃないの」

「由衣……」

 私は立ち上がって由衣のところまで行くと、そっと髪を直す。

「寝ぐせひどいよ」

「あんたは黙ってろ!」

 私に意見を言わせたいのか黙らせたいのかわからない。

「でも由衣。私がアレクに丸投げしたから、アレクが矢面に立って竜之介と話をしてくれてるんだよ」

「あんたね……!」

「由衣さん」

 気に入らなさそうに顔をしかめる由衣に、アレクが声をかける。

「今は私に任せてくれませんか」

 アレクの穏やかな声に由衣は少し冷静さを取り戻したらしく、目を閉じて小さく息をつく。

「竜之介君。今日は結婚に承諾することができません。せっかくですが、お帰りください」

 竜之介はアレクをみつめていたが、やがて席を立つ。

「また来ます。承諾が頂けるまで何度でも」

「それはどうも」

 おっとりと返したアレクに背を向けて、竜之介は戸口に向かう。

「浅井君、下に車待たせてるんでしょ。ついでに乗せてってほしいところがあるんだけど」

 由衣が声をかける。それに、竜之介は怪訝な顔をしながら返した。

「構わないが」

「ありがとう」

 頷いた由衣に、アレクが言葉を投げかける。

「由衣さん、あなたの心意気はありがたいです。けれどあまりこちらの世界に関わってはいけません」

 由衣は苦笑して言った。

「気が付いたら踏み越えちゃうのがあたしだからなぁ」

 振り向いて由衣は私の頭に拳骨を落とす。

「痛いー。何だよ」

 うらめしそうに由衣を見ると、彼女はふんと鼻を鳴らした。

「しっかりしろよ。馬鹿は馬鹿なりにやることあんだろ」

 そして私の頭をまた叩いて、由衣は竜之介の後を追った。

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