前編<竜之介>3

 土曜日、早速私たちはみんなで食事に行くことになった。

 場所は都内に出来たばかりの高級ホテルの地下バーで、私には全く馴染みがない場所だが、りょうちゃんがどうしてもここがいいと言うのだ。

 黒を基調とした上品なインテリアで飾られた店内に、私はちょっと戸惑う。

「……払えるかな」

 財布を開こうとした私に、竜之介が言う。

「お前に払わせるわけにはいかない。俺が払う」

「安樹ちゃんだけ?」

 すかさず言ったりょうちゃんを、竜之介はちらりと横目で見る。

「お前ら全員分、今日は俺が払う」

「やったぁ、さすが竜之介君」

「よかったねー」

 りょうちゃんとミハルがかわいく笑いあって頷いた。

 ボックス席に通される途中で、竜之介はぴたっと動きを止めた。

 通路の向こう側から黒スーツの男性を後ろに従えて歩いてくる、妖艶な女性が目に止まった。

 竜之介は彼女に、綺麗に四十五度に見える礼を取る。

「仕事お疲れ様です、母さん」

 黒いタイトなドレスが似合う、竜之介の母親の楓さんだった。

「あら、竜之介。あなたとこんなところで会うとは珍しい」

 楓さんは微笑みながら私とミハルを見やる。

「久しぶり、安樹ちゃんに美晴。あとは……」

「りょうです。竜之介君の未来の愛人です!」

 元気よく自己紹介をしたりょうちゃんに、楓さんはくすくすと艶やかに笑い返す。

「堂々としていて良いこと。楽しんでいくといいわ」

 楓さんは私とミハルにも言葉を送る。

「うちの系列では気に入ってるところよ。ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」

 ミハルと二人でぺこりと頭を下げる。楓さんはりょうちゃんに目を戻して、少し目を細める。

「ふむ、愛人ね。そろそろそういう話になったか」

「母さん。俺は断じてこういう女と関わり合いになることはありません」

 楓さんは笑って、竜之介の肩を叩きながら耳元に口を寄せる。

「あなたが本当に愛しい子なら、相手が誰でもいいわ」

 そのまま横をすりぬけていった楓さんの優雅な後ろ姿に、私はみとれる。

「かっこいいなぁ」

「あの人はいろいろと修羅場をくぐりぬけてきてるからな」

 思わず呟いた私に、竜之介も小さく息をついて返した。

「えーとね、りょう、これとー、これー。あとこれも食べたーい」

 私たちが席につくと、りょうちゃんが自分の好みで食べ物を全部注文したので、あとは飲み物を各自で選んだ。

 席順は、私とミハルが隣同士、向かい側にりょうちゃんと竜之介が座った。

「それでね、りょう、この間歌詞一回も間違わずにデビュー曲歌いきったの」

 竜之介の右腕に抱きつきながら、りょうちゃんはうきうきと話していた。竜之介は完璧なほどのしかめ面をしていたが、りょうちゃんが楽しそうなので私は放っておいてミハルと話す。

「あすちゃん。僕、この間牛乳をコップ一杯飲めるようになったよ」

「すごいじゃないか。えらいぞ、ミハル」

 よしよしとミハルの頭を撫でて私は笑う。

 私の片割れは私と違って偏食で、特に牛乳は絶対に飲めなかった。それをついに自力で克服したと聞いて、私は自分のことのように嬉しくなる。

 私はミハルと一緒だから何の気負いもなく、おいしい食事とお酒を楽しむ。

 そろそろ夜の十時にさしかかって、私はお酒の影響もあってか少し眠くなる。

 でもミハルがいてくれるなら眠ってしまっても平気だ。そう安心しながら、私は目をこすりつつ言う。

「そういえば、ミハル。最近少し声低くなった?」

「え?」

 ミハルはなぜかぎこちなく咳をして、にっこり笑い返す。

「そんなことないよ」

「そう? いや、この間電話で話した時、一瞬父さんの声かと思ったんだよ。父さんはよく聞くとけっこう声低いからな。ミハルも似てきたのかなって……」

 あくびをかみ殺して私が言うと、ミハルは黙って喉を押さえる。

「ごめん。ちょっとお手洗い」

「ああ。場所わかるか?」

「うん。すぐ戻るから」

 いつもならトイレでさえ一緒に立つけど、今日はミハルがそそくさと先に行ってしまったから後を追うきっかけをなくした。

「あ、りょうもー」

 りょうちゃんもぱっと席を立った。ボックス席に一瞬の沈黙が訪れる。

「安樹、眠いのか?」

「眠くない」

 竜之介に寝ているところなんて見せたくないから精一杯言い返したつもりだったけど、気を抜くとすぐ瞼が落ちてくる。

「もうすぐ成人式だな」

 竜之介の言葉に私は首を傾げる。

 確かに外は真冬、年を越せば私たちは成人式を迎える。けど竜之介が唐突にその話題を出したことが、私は不思議だった。

「それが何だ?」

「そろそろ、お前を何としても俺の家に連れて行く必要があるってことだ」

「お前、よくその話ばかりして飽きないな」

 私は眠気を払おうとしながら首を横に振る。

「お前はなんでそこまで私を家に連れて行きたがるんだ」

「そういうお前はどうして来たくないんだ」

「母さんは一度も里帰りしたがらなかったらしい」

 ぼんやりとグラスを眺めながら、私は頬杖をつく。

「母さんの名字が浅井じゃなくて春日のままだったのは、つまり……浅井家の人間にはさせてもらえなかったからなんだろ」

「……それは」

「お前の家は旧家だって聞いてる。母さんは愛人の子どもとも聞いた。それだったらお前の父さん……伯父さんは、私やミハルのことが嫌いだろう」

 私が実家に出入りするのは、私の伯父であり竜之介の父である人にとって不愉快な事だと思う。

「そうじゃない。親父は遥花さんを大切にしていた。心から大切だったから、かえって浅井の籍に入れることができなかったんだ」

「まあ昔のことは、今更いいけど」

 私は手をひらひらと振る。

「ミハルは私に、あの家に行かない方がいいって言ってた。だから」

「美晴の意思だけではもう抵抗できないんだ」

 ふいに厳しい口調で竜之介が私の言葉を遮る。

「親父は二十歳の成人式までにはお前を連れ戻すと言ってる。親父のことだ。必ず実行する」

「なんだそれ。さっぱりわからないぞ……」

 ただでさえ眠くて頭がうまく働かないときに、訳がわからないことを言わないでほしい。

「その前に、お前が自発的に来て親父と会って話した方がいい。一人でとは言わない。俺や母さんも間に入る」

「だから、なんで……」

「それがお前と美晴のためなんだ」

 朦朧とした意識の中、竜之介が私を見据えたところまでは見えた。

「安樹。俺の家に来い」

 その言葉を耳にしながら、私はことりと眠りに落ちた。

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