前編<竜之介>2

 そういえば最近、すごくためになる話を聞いた。

 何事にも因果関係があり、突然起きたと思った出来事も実は何か前兆があるということだ。

 それにならって、どこから私の日常がおかしくなったのか、ひとつ遡って考えてみるとしよう。

 一昨日の夕方、私はバスケ部の練習が終わって体育館の外で休憩していた。

 ミハルが渡してくれたタオルで汗を拭いながら、スポーツドリンクをごくごくと飲む。

「よう相棒。おつかれ」

 遅れて体育館から出てきた友達に声をかける。

 ショートカットの金髪に赤い眼鏡、そして青のピアスというロックないでたちを高校の頃から崩さないのは、友達の由衣だ。

 彼女は無言で私の前まで歩いて来て、いきなり私の頭に拳骨を落とした。

「あんた、あたしの頭にボールぶつけんじゃないわよ。何年バスケやってんの?」

 由衣は私と同じくらいの長身で、かなりきつめの性格をしている。

「だって、由衣が余所見してたからじゃないか」

「言い訳すんな。あたしの頭はあんたより百倍有意義な知識が詰まってるのよ」

「あー、わかったよ。ごめんって」

 苦笑いしたら、由衣は気に入らなさそうに私の頭上で拳を握る。その手を慌ててミハルが掴んだ。

「そこまで。ゆーちゃん。あすちゃんに痛いことしちゃだめ」

「じゃああんたが代わりに殴られる? 美晴」

「うん。そうして」

「阿呆」

 由衣はあっさりと手を離してあきれ顔になる。

 何かと手の早いところはあるが、由衣はいい奴だ。私が本当に嫌なこと、ミハルを傷つけるということは絶対にしない。

 夕暮れの赤い日差しの中、私はふと口を開く。

「試合中、どうして観客席の方見てたんだ?」

「そうそれ。寒気を感じたのよ」

 由衣は体育館の別の出口の方を指さす。

 ちょうど男子の方の練習が終わって、竜之介が出てきたところだった。その竜之介の後ろを、ちょこちょこと小さな子がついていく。

 その子は私の胸くらいの身長しかない、中学生くらいの女の子のようだった。なぜか黒いサングラスをかけて、全身に黒服を着こんでいる。

 ミハルはうなずいて言う。

「リュウちゃんのファンの子だね。最近いつもいる」

「スパイごっこみたい。かわいいなぁ」

 微笑ましくて私が思わず頬を綻ばせたら、由衣は眉をひそめる。

「あいつはやばいわ。寒気が収まらないの」

「由衣が寒気?」

 高校の頃からたびたび、由衣はそのフレーズを口にした。

「由衣のお義父さんに似てるの?」

「会長さんは母さんの恋人であって、あたしとは何の関係もない」

「また由衣は」

 由衣の両親は幼い頃に離婚していて、彼女の母はもう十年以上前から「会長さん」という男の人とお付き合いしているらしい。

「会長さんは寒気がするとか、絶対あの筋の人とは関わり合いになりたくないとか……由衣にも優しいんだろ? 自分から歩み寄らなきゃ駄目じゃないか」

「馬鹿言え。あの人らは甘い言葉で女を騙すのが大得意なのに」

「もう。かわいそうじゃないか」

 会長さんというのだから、きっと温厚なおじいさんなんだろうなと思って、私はちょっと同情する。

「それはとにかく。あたしは今、あの女の正体を掴むために色々やってる最中なのよ」

「どうしてゆーちゃんが警戒するの?」

 ミハルがきょとんと首を傾げる。私も同じ方向に首を傾げた。

「あたしの日常を乱す可能性がある者は早めに対処しておきたいのよ。何事にも因果関係がある。突然の出来事だと思っていても、何かしらの前兆があるものなんだからね」

 へぇと私は頷いて呟く。

「由衣は賢いなぁ」

「あんたが馬鹿なだけよ」

 由衣の容赦のないひと声が私にクリーンヒットして、のけぞった私にもう声かかる。

「だから、安樹。あの女には近付くな」

「え、そこで何で私に矛先が向くんだ?」

「あたしの日常が乱れる大方の原因はあんたにあるんだから」

「それでもゆーちゃん、あすちゃんの友達はやめないんだよね?」

 ミハルが可愛く笑って告げると、由衣は鼻で笑った。

「あんたにあたしの立場はわからないわよ」

「んー、それにしても。なんか、あの子どこかで見たような……」

 私が首を傾げて女の子の方を見やった時だった。

 黒服の女の子が竜之介に手を払われて地面に倒れる。その決定的瞬間を、私の両目2.0の視力が捉えた。

 私はほとんど反射的に女の子の方に走る。

「おい、言ったそばから!」

「まあまあ。ゆーちゃん落ち着いて」

 背後に由衣の怒声とミハルのおっとりした声を聞きながら、私は黒服の女の子の元まで辿り着く。

「竜之介、こんな小さい子に何するんだ!」

 地面に手をついた女の子に怪我がないか確認しながら、私は竜之介を睨みつける。

「ううん、りょうが悪いの……」

 ふいに私の手を掴んで、彼女はサングラスを外した。

 途端に露わになったくりくりした目と、幼くて甘い顔立ちに、私は衝撃を受ける。

 その、胸がぎゅっと締め付けられるような、小動物そのものの愛らしさ。

 私はごくりと息を呑む。

「……よ、美峰よしみねりょうちゃん?」

 間違いない。もはや絶滅しかかっている人種であるアイドル、美峰りょうちゃんだ。

 今年の栄えある守りたくなる女の子ナンバーワンの座を獲得したという可憐さもさることながら、バラエティでの数多くの空気読めない発言、ドラマでのすさまじい棒読み具合、電波ソングにも打ち勝つ音痴さなど、その話題性は絶えることがない。

「すごいや。あなたのファンなんです!」

 私が勢い込んで想いを告げると、彼女はほわほわした笑顔を浮かべた。

「ありがとう。りょう嬉しい」

 彼女の魅力は、見る者に「かわいければもう何でもいいや」と思わせてしまう圧倒的なかわいらしさなのだ。

「待って、竜之介君!」

 りょうちゃんは竜之介の袖を掴んで引きとめる。

「離せ」

「いや! 竜之介君がりょうを許してくれるまで帰らない!」

 ふるふると首を横に振って、りょうちゃんは潤んだ瞳を竜之介に向ける。

「勝手にお写真撮ったのは謝る。ほら、返すから」

「要らん。お前が永遠に俺の前から消えてくれればそれでいい」

 震える手で写真を握りしめているりょうちゃんの前に入って、私は竜之介に詰め寄る。

「何て言い草だ。なんだ、写真を撮られたくらいで大人げない。りょうちゃんは肖像権を放棄する覚悟でお仕事してるんだぞ。一枚や二枚くらいツーショットをあげればいいじゃないか」

「お前は俺が差別的だとか散々言うが、お前自身はどうなんだ?」

 胸倉を掴んで睨む私に、竜之介も睨み返す。

「そいつがしたのは隠し撮りだ。それも一度や二度じゃない。それも女がやれば許されるっていうのか?」

「そうじゃない。小さい子が興味本位でやったことにつべこべ言うなってことだ」

「よく知りもしないくせにお前が口出しするな、安樹」

「間違ったことだと思えばくわしく知らなくたって止めに入るさ。当然だろ」

「あーすーちゃん?」

 竜之介と鼻先が触れるくらいの至近距離で睨み合っていた私は、ふいに後ろに反転させられる。

 振り向いたら、ミハルが困ったなぁという顔で立っていた。

「ここでハーフタイム」

 ミハルは私の頬に自分のほっぺたをくっつけた。そのなじみ深い温もりに、私の尖っていた心が和む。

 頬を寄せたまま、ミハルは竜之介に聞こえないくらいの小声で私に言ってくる。

「リュウちゃんとは何を話しても平行線だってわかってるでしょ? 深呼吸して、ちょっと落ち着いてごらん」

「う、うん」

 ミハルに言われるままに私が深呼吸すると、彼は微笑んでから竜之介に振り向く。

「リュウちゃん。とりあえず僕たち三人で話し合って結果を伝えるから。少し体育館の中で待っててくれる?」

 竜之介は一瞬目を細めたが、一応うなずいた。

「いいだろう」

 そう言って体育館の中に入っていく竜之介を、ミハルは手を振って見送った。

 ミハルは屈みこんでりょうちゃんの顔を覗き込みながら尋ねる。

「ねえ、りょうちゃん。どうして勝手に写真を撮ったりしたの?」

 りょうちゃんは頬を赤くして頷いた。

「りょう、竜之介君が好きなの」

「へっ?」

 あんまりに予想外の言葉に、私は裏返った声を上げた。

「あの小言マニアのどこが?」

「竜之介君は特別な男の子なんだよ」

 怪訝そうに問い返した私に、りょうちゃんは小さな手を握りしめて一生懸命言ってくる。

「かっこいいし、優しいし……お金持ちだから!」

 ピュアなくりくりの黒い瞳が眩しすぎて、私は動揺する。

「そ、そっか。お金か……」

「誰だって欲しいでしょ、お金」

「あ、ああ」

 勢いに負けて、私はこくりと頷く。

「竜之介君を一目見た時から、りょう決めたの。絶対、「竜之介君の愛人になる」って」

「えーと……」

「結婚なんてしたら親の面倒とか家事とか余計なものまでついてくるでしょ。りょうはリッチに楽しく暮らしたいのっ」

 私は目を白黒させながら、理解できた言葉から反芻する。

「ごめん、私あんまり頭の回転が速くないから。ええと、りょうちゃんは、竜之介が好きなんだよね?」

「すっごく好き」

「うー……」

 迷わず告げたりょうちゃんに、私はどうしたものかと視線をさまよわせる。

 そんな私を助けるように、ミハルはのんびりと頷く。

「まあどんな理由であれ、好きなら仕方ないよね」

「そ、そうだな」

 それもそうかと、私も頷く。

「でも、りょうちゃん。ストーカーは犯罪だよ」

 綺麗な人差し指をぴっと立てて、ミハルはりょうちゃんに諭す。

「愛人になりたくても、とりあえず形は恋人から、その前に友達から入らなきゃ。一足飛びに犯罪に走っちゃいけないよ」

 私は思わず目をうるっとさせて、ミハルの頭を撫でた。

「ミハル、えらい。こんなにしっかりした子になって、きっとお母さんも天国で喜んでる」

「えへへ、そう?」

 ミハルは照れ照れとして頬を押さえた。

「でも竜之介君、りょうに近付くなって言うの……」

 しょぼんとしたりょうちゃんの声にはっと我に返る。

「そりゃそうよ。あの潔癖な浅井君がそんな不純な動機の女を近付けるわけないわ」

 振り返ると、腕組みをして由衣が威圧感を放ちながら見下ろしていた。

 赤い眼鏡の奥の鋭い目を光らせて、由衣は冷ややかに言う。

「写真とネガを回収して早く追っ払いな、安樹」

「ひどいぞ、由衣。せめて話をする機会くらい作ってあげようよ」

「だからあんたは馬鹿だって言うのよ。よく見なさい」

 私はそう言われたので、りょうちゃんの頭から足の先までじっと眺める。

 ふわふわの柔らかそうな茶色の髪、くりくりの瞳、小さな手、細くてすっと伸びた足、そういうのを上から下まで見て、ぼそりと呟く。

「……かわいい」

「あたしが言うのは見た目のことじゃない」

「あすちゃんは、ただりょうちゃんを応援してあげたいんだよね?」

 ミハルの声に、私は大きく頷く。

 ミハルはそっと提案した。

「じゃあこうしない? りょうちゃんもリュウちゃんも含めて、みんなでご飯を食べに行くの。それくらいならリュウちゃんも来てくれるよ」

「りょう行く! 行くよ!」

 手を上げて賛成の意思を示すりょうちゃんがあんまりに嬉しそうだったので、私も苦笑しながら頷く。

「竜之介がいるのは気に入らないけど……それくらいなら私もいいよ」

「決まりだね。ゆーちゃんも来る?」

「誰が行くか。勝手にやってろ」

 由衣はぷいと顔を背けて去っていく。その背中を見送りながら私は口元を歪めた。

「怒らせちゃったかな。由衣に悪いことしちゃった」

「ゆーちゃんはあすちゃんに怒ってるんじゃないよ」

「え?」

「いつだってそう。だから大丈夫」

 にっこり笑うミハルに、私はよくわからないながらも頷く。

「竜之介君とデートだ。やったぁ!」

 りょうちゃんは小柄な体を弾ませて、きゃっと笑った。

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