後編<アレクセイ>5

 タクシーを捕まえて、アレクと俺は安樹たちのいるコンサートホールに向かった。

「それでいい。合図をしたら踏み込むように」

 車中でアレクは警察に電話していた。彼の子飼いは警察の中にもいるらしく、数分と経たずに話をつけて通話を切る。

「何があった?」

 運転手にわからないように母国語で尋ねると、アレクは早口に答える。

「拳銃を持った少年が、ユキさんの部屋に立てこもっているそうです。動機は無理心中」

「じゃあ安樹や父さんが狙われたわけじゃないんだな」

「ええ、お二人は巻き添えです。でも興奮して安樹に怪我を負わせることがないように、レオが私を呼びました」

 小型の携帯のような通信機に、短く文字が浮かんでいるのを俺に見せる。

「ポケットの中ででも打ち込んだんでしょう。でもレオのことですから、間違ってはいないはずです」

 子供っぽいふりをしながら隙を作らない父のやり方を思い出して俺は頷く。

 銃を持って入って来た男と同じ部屋にいるなんて、安樹はどれだけ不安だろう。幼い頃から怖いことがあると俺の手をぎゅっと握って離さなかった。

 その手を今すぐにでも包み込んで、大丈夫だよと微笑みたいのに、できない。どうして今日に限って俺は安樹の側を離れたのか。焦燥のままに、俺は手を強く握りしめる。

「レオがついています。うまく気を逸らしてくれているはずですから、あなたが気に病むことはありません」

 俺の内心を察してアレクが告げる。俺は変な気を使ってくるアレクに横目で一瞥をくれて、すぐに視線を前に戻した。

 目的地に着くと、アレクは足早にホールの裏方に回り込んだ。係員の目を盗んでスタッフオンリーのスペースに入り込むと、俺がついてくるのを確認しながら滑るように歩いていく。

 まもなく奥の部屋に辿り着くと、アレクは扉に耳をつけて静止した。ほんの二呼吸ほどの間耳を澄ませていて、やがて俺に短く告げる。

「レオから合図がありました。あなたはここにいなさい」

 どんな方法でお互いのコンタクトを取っているのかはわからないが、父はアレクが来たことを理解して何らかの命令を下したらしい。

 アレクが音を立てずに扉を開いた……ところまでは、見えた。

「物騒なことになってますね」

 次の瞬間にはアレクは面会室の中央に立っていて、足を半歩後ろに下げていた。

 中にいた犯人と思われる男がバランスを崩す。アレクが男の膝に蹴りを叩きこんだ後だった。

 ここまでは、たぶん父とアレクの予定通りの筋書きのはずだった。

 ところが男が隙を見せたのを好機と見たのだろう。安樹が素早く踏み込んで、手刀で拳銃を叩き落としていた。

「安樹!」

「エンジェル!」

 まさか安樹が自分から危険に手を突っ込むとは思わなかったのか、アレクと父に動揺が走る。

 安樹の安全を一番に考えてアレクは動いているのに、彼女が一番危険源に近づいてしまった。

「やめなさい!」

 男がナイフを取り出してもなお戦おうとする安樹を、アレクは作戦変更して縫いとめるように壁に押しやる。

 あくまでアレクは、俺と安樹を守るためにいる。敵に無防備に背中をさらすことになっても、安樹を守るためならアレクは簡単に自分の身を危険にさらす。

 アレクが安樹を押さえたのを確認して、父が動いた。男の足をひっかけてバランスを崩させると、襟首を掴んで地面に引き倒す。

 男の腕をつかんだままナイフを踏みつけて、父は瞬く間に男の動きを完全に封じこめた。

 奥にいるユキさんから背中で隠すようにして、父は男の手から落ちた銃を拾い上げると、それを懐にしまいこむ。それと入れ違いに、アレクが懐から偽物らしい銃を取り出して床に転がせた。

 直後、俺の後ろから面会室に人が踏み込んだ。

「警察だ!」

 たぶん父一人でも、男の拳銃を奪って倒すくらいならできた。

 だけど同席しているユキさんと安樹を危険にさらす可能性があった。どちらを優先したのかは……今の俺にはわからない。

 父が俺と安樹に愛情をかけていることは知っているが、それが母よりも上だったという人と比べてどうなのかは、俺には計れなかった。

「ミハル、どうしてここに」

 俺に気づいて部屋を出てきた安樹を、俺は無言で抱きしめる。

「ちょ、ちょっと。ミハル?」

「……どこも怪我はない?」

「え? うん、ユキさんも父さんも無事だよ」

 そうじゃなくてと、俺は安樹の髪に顔を埋めながら言う。

「あすちゃんがどこも怪我してないならいいんだ。ねえ、あすちゃん。危ないことしちゃだめ。銃を持ってるような相手にかかわっちゃだめ」

 俺は君が無事ならそれでいいのに、どうして君はいつも俺の前に出て戦ってしまうの?

 言葉にできないまま、俺は安樹が震えていることに気付いた。

「怖かった?」

「やだな、そんなはずないだろ」

 安樹は慌てて体を離すと、精一杯強がってみせた。

「父さんがからかうようなことばっかり言っててひやひやしたけどね。ユキさんも落ち着いてたし、平気だよ」

「あすちゃん」

 ごめんと言おうとして、安樹の肩が後ろから掴まれる。

「安樹。前から言っているでしょう。危険に自分から手を突っ込むようなことをしてはいけないと」

 アレクは淡々と安樹の行動を叱りつける。

「何をしてるんですか。護身術を少し習ってるくらいで、銃を持った相手に素手で敵うとでも? 自分を過信するのもいい加減にしなさい」

 アレクのお説教は長い。それを嫌というほど知っている安樹は、ちらりと救いを求めるように父を見た。

 だけど父は軽く首を横に振っただけだった。

「だって、父さんやユキさんが危なかったじゃないか」

「レオは自分の身くらい自分で守れます。あなたは自分以外の身は守らなくてよろしい。子供なんですから。いいですか……」

 それから延々と続くアレクのお説教に、安樹は辟易しながらも一応聞いていた。つくづく安樹はアレクには頭が上がらない。

 竜之介に女だから守られろと言われるのは許せなくても、アレクに子供だから守られなさいと言われることには全く抵抗がない。いかにアレクが特別か知れようというものだ。

 ひとしきり安樹の行動を責めた後、アレクはため息をついてぽつりと言った。

「……心配したんですよ」

 たぶん、安樹はその一言でお説教の苦痛を無かったことにしたのだろう。子供が母に向けるような無邪気な目を向ける。

「困った子です。あなたは本当に目が離せないのだから」

 安樹はアレクの胸に素直に頬を寄せて頭を撫でられる。その図に、俺は胸の中が荒れ狂うのを感じた。

 安樹が我に返って慌ててアレクから離れるまで、俺は安樹の後ろからアレクを睨み続けていた。

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