後編<アレクセイ>6
夕食の後、父がふらりと家を出ようとしたとき、俺は不穏な意図を感じ取った。
「僕も」
父が一人で夜出歩くことはよくある。けれど俺は、昼間の事件で父が拳銃を懐に隠したことを思い出していた。
「知り合いに会ってくるだけだよ。ミハイルは家にいなさい」
「僕も行く」
俺は父の宥めるような言葉に暗い直感を確かなものに変えた。駄々っ子のように続けると、父が困ったように眉をひそめる。
そんなとき、安樹が俺と父の間に入って来る。
「連れてってあげなよ、父さん。ミハルだって父さんと一緒の時間を過ごしたいはずだよ」
勘違いではあるが優しい安樹の言葉に助けられて、俺はさらに父に詰め寄る。
「昼間はあすちゃんを連れてったじゃないか。どうして僕は駄目なの?」
「……しょうがないね」
父は不本意そうに俺を連れていくことに同意して、夕食の後片付けをしているアレクに声をかける。
マンションを出るとすぐ、父は俺を振り返って言った。
「どうしてもついてくる?」
「ああ。父さん、後ろ暗いところに行くつもりなんだろ」
俺の断定の言葉に、父は頬をぽりぽりとかく。
「後ろ暗いって……君の伯父さんに会ってくるだけだよ」
「銃を持って?」
すると父は目を細めて言った。
「そこまで勘付いてるならなおさらついてきてほしくない。僕は何も楽しく男の子と飲みに行くわけじゃないんだから」
「安樹にかかわることならついていく。違うなら戻るよ。どっち?」
挑戦の目つきで問いかけると、父は苦笑した。
「違うって言ってもついてくるでしょ」
「父さんの嘘の規則性、そろそろ読めてきたから」
父は碧色の瞳で俺を見下ろしながら口元を歪める。
「できれば君に、僕たちの話は聞かせたくないんだけど」
「俺は、父さんと龍二がどんな取り決めをしてるのか知りたいんだ」
それを一生知ることがない俺の片割れのために、俺は知っておかなければいけない。
龍二が母を故郷へ連れ去った父を憎んでいることは知っている。けれど父は龍二に一定の信頼は置いているように見える。
「わかった。ついておいで。君は僕が守るから、心配要らない」
心配なんかしてないと口にする前に、父は踵を返していた。
駅まで歩くと、地下鉄で数駅移動してオフィス街に出た。休日だというのに高層ビルのあちこちに光が灯っていて、これも一種の眠らない街だなと思いながら歩いた。
一つの高層ビルの下で父は立ち止まると、俺に振り向いて口の前に指を立てた。
「静かにね」
父は俺を伴ってビルの正面玄関を通り越すと、裏口から中に入り込む。
中は薄暗かったが、非常口のライトだけが場違いに輝いていた。ビルの内部に入るにはもう一つ頑丈な扉があって、その横にはカードキーを差し込む口がついている。
父はそこにカードを通してあっさりとロックを解除すると、オフィスの中に入り込む。
「そのカード、どうしたんだ?」
「アレクが作ってくれたんだよ」
父は俺の口を塞いで壁に背中を寄せる。
廊下の向こう側を数人の話し声が過ぎて行った。それが聞こえなくなると、父は何食わぬ顔で廊下を歩いていき、エレベーターの前まで辿り着く。
「こんばんは。ねえ、ここが近道?」
「アポはないらしいな。おい」
そこにはガタイのいい男が二人、エレベーターを背にして立っていた。父の顔を見るとすぐに不審げに目を細める。
父の口から小さな笑みがこぼれた。次の瞬間、父は身を屈めて男の懐に飛び込んでいた。
鳩尾に拳をめり込ませて一撃で男を昏倒させると、もう一人の懐に蹴りを入れて落とした。
ものの数秒の出来事に俺が呆然としていると、父はさっさとエレベーターに向かった。
「見てごらん、ミハイル。きれいな夜景だねぇ」
エレベーターに乗ると、父はガラス張りに映る外の光景を指さしながら笑った。たった今まで息をするくらいに暴力をふるったとは思えないほどの幼さで目を輝かせている。
「呑気なこと言ってていいのか。警備員が着くまでに龍二のところに行けるかわからないのに」
「大丈夫。これ、最上階への直通エレベーターだから」
あ、東京タワーだ、とおのぼりさんのようなことを言って、父は笑う。
ガラスの向こうには、ビルの隙間から鮮やかな夜景が見えていた。エレベーターの稼働音が響いているだけの静かな夜だった。
独特の浮遊感が収まってきたかと思うと、父はポケットから手袋を出してはめた。到着の音が響く時にちょうどはめ終えて、待っていたように扉が開く。
「お前……!」
「会長に会いに来たんだ。通してもらうよ」
警備員が二人、扉の前に立っている。父は軽く手を上げて首を傾けると、つかつかと扉に歩み寄っていく。
二人は父の肩を掴む。体格も父よりいいから、力でもってひきずり出されてしまいそうだった。
父はきょとんとして、ゆっくりと肩を回す。
「せっかく出向いた客にその態度は何? 僕が会うと言ったら会うんだよ」
そのまま二人の両腕を引いて交差させると、目の前で額をぶつからせる。
「はいはい。いってらっしゃい」
うめき声を上げてよろめいた二人をエレベーターに押し込むと、そのまま下のボタンを押す。
音を立てて男たちを乗せたエレベーターが下がっていく。
父は肩をすくめて、扉に手をかける。
「ミハイルは入ってすぐカギをかけて、扉の前に立ってなさい。絶対動いちゃ駄目だからね」
振り返らずに言った言葉に俺が仕方なく頷くと、それが見えているように父が小さく笑う気配を感じた。
最上階の扉が開いていく。正面の窓に映っていたのは、輝くばかりの夜景だった。
その窓を背に、大きな机を前にして革張りの椅子に座る人物と、傍らに立つ男がいた。中にいたのはその二人だけだった。
「……レオニード」
男が呼び終える前に、父は疾走していた。
俺は父の言う通りに後ろ手でカギをかけてその場に立つ。その間に、父は椅子に座る部屋の主……龍二の前に辿り着いていた。
机の上に飛び乗って、父は龍二の背もたれに足をつく。もし龍二が軽く首を傾けなければ顔を踏みつけられていただろう。
机から散乱した書類が紙吹雪のようにはらはらと舞い落ちる。
「会長!」
「動くな」
龍二の横に控えていた秘書は抗議の声を上げたが、龍二の一言でぴたりと動きを止める。
「久しいね。リュウジ」
父は足を下ろそうともしないまま、机の上に立って龍二を見下ろす。
「僕が何の話をしに来たか、想像はついてるんじゃない?」
龍二の無言を肯定と取ったのか、父は懐から拳銃を取り出してそれを机の上に置く。
「これは君のところが扱っているものだろう? 昼間、これを持った男の子に僕の友人が狙われたんだ」
「それで?」
低い声で龍二が問い返す。
「お前の友人など狙う意味がない。お前の頭は私自身が撃ち抜くと決めている」
「つまり、リュウジのあずかり知らぬところで起きた事件だと。君のシマでありながら?」
父が毒をこめて問いかけると、龍二は頬杖をついた。
「些末なことを」
空気が緩んだのは一瞬だった。
「……所詮、チンピラ」
父の纏う空気が瞬時に入れ替わって、俺の知らない男のものとなった。
父が足を押し当てている椅子が軋む。
「なに?」
「安樹も居合わせた。私の娘が危なかった。それのどこが些末だ?」
声を荒げることがないのに、父の言葉の端々からは沸騰するような怒りが滲み出る。
「ならば安樹を渡せ。安全に守ろう」
「他人のお前に許せるか」
「守れと言っておきながら会うことも許さないのは、度を過ぎたお前の身勝手にしか聞こえないが?」
俺は扉の前で密かに伯父に同意した。伯父の威を借りて居をかまえておきながら、接触するのすら許さないというのはあまりに父のわがままな気がした。
「わからない。安樹と美晴をここに住まわせたのは、完全に私の厚意だ」
父が淀みなく言ったのを聞いて、父の怖さを目にすることになった。
「感謝してもらおう。私は本当なら、子どもたちを籠に入れていつもキスしていたい。愛しているから」
この人は本気で言っている。その言葉は酔う素振りもなく、淡々としていた。
あの人は心の底から自分中心の世界観を持っている。いつかアレクが言っていたことを思い出した。
「その生意気な口を今塞ごうか?」
龍二が机の上の拳銃を手に取っていた。父はさらりと答える。
「やってみろ。細工をしておいた。引き金を引いたら吹っ飛ぶのはお前の方だ」
「なるほど、そんな小細工をな」
龍二は眉一つ動かさずに、懐に手をやる。折りたたみ式のナイフを取り出して言う。
「ここからでも美晴は狙えるぞ。いいのか、大事な息子に傷がついても」
父は身を屈めて囁くように言った。
「来る前に、私はアレクセイにある人物を狙撃するように命じてきた。中止の通告をしなければ、引き金を引く」
楽しむ素振りもなく事務的に、父はその言葉を告げる。
「……竜之介。お前の息子があと七分で死ぬぞ」
龍二は微動だにしなかった。ただ父の瞳の奥を睨みつけた。
「要求は何だ」
問いかけた龍二に、父は冷たく言い放つ。
「私の子どもたちを守れ。またお前の組関係で安樹と美晴に危険が及ぶようなら、次こそ予告なく竜之介の頭を撃ち抜く」
机の上から軽やかに降り立つと、父はくすりと笑った。
「リュウジの手元に二人を置くことは許さないけどね。エンジェルとミハイルは、僕といることが一番幸せなんだから」
バイバイと手を振って、父は出口の俺に目配せをした。
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