後編<アレクセイ>4

 勝負は何もない殺風景な部屋で行われた。

 家具もなく、ただ広さだけは十分にある十畳ほどの一室だった。普段何に使われているのかはわからないが、床はタイル張りでところどころ染みができていることから、何かしら物騒な部屋なのではないかと思った。

「よし。始めよっか」

 審判がアレクの手を後ろ手に縛ってぐいと引っ張ってから、俺に目を向ける。

「使い勝手のいいナイフ貸そうか?」

「持参のものがあります」

 俺が後ろポケットから折りたたみナイフを取り出すと、困った悪ガキ君と彼は何ともいえない顔をして笑った。

「それでいいか? アレク」

 アレクに問いかけると、彼は首を横に振る。

「構いません。あなたの好きなようになさい」

 涼しげな目をして、彼は俺の二歩先に立つ。

「あなたの反抗期を宥めるためにやるんですから。まったく困った子です。これを機にもっと聞きわけのいい子になってくださいね」

「お前はいつもそうだな」

 完全に子供扱いの言葉に俺は口の端を歪めて、ナイフを構える。

 審判が一歩下がって、手を上げる。

「始め」

 言葉を耳の端に留めた瞬間、俺はナイフを逆手に持ってアレクの懐に踏み込んでいた。

 空気が唸る。アレクはそれを、僅かに体をよじっただけで避けた。

 二手、三手と繰り出す。面倒そうにかわすアレクの目から視線を外さずに、俺は呟く。

「お前が嫌いなんだよ。五歳の頃から、ずっと」

「知っています」

 上段を狙った一撃をアレクは身をかがめて避けると、苦笑を浮かべた。

「あなたはいつも私を睨んでいました。家から出ていけと無言で伝えていましたね」

 壁際に追い込もうとしたところを、アレクは俺の脇をすり抜けて後ろに回り込んだ。

「でも追い出されるわけにはいかないんですよ。あなたたちに何かあれば、私の首が飛びますのでね」

 手を縛ったままの不安定なバランスなどものともせず、アレクは俺の手首を狙って蹴り上げた。

 危うく手から離れかけたナイフを持ちかえて、俺は飛び退くようにしてアレクから距離を取る。

「ボスの意思だから?」

「他にありますか?」

 器用に片足だけに重心を取ったかと思うと、俺は鳩尾の少し下に衝撃を感じて一瞬呼吸ができなくなった。

 ひざ蹴りを受けたのだと理解する前にアレクから離れたが、すぐさま眼前にアレクの足が迫っていた。

「ぐっ」

 首に蹴りを受けて、俺は床に仰向けに倒れる。かろうじてナイフは離さなかったが、呼吸が乱れて目の前が眩む。

 それ以上の追撃はなかった。

「大丈夫ですか?」

 心配そうに問いかけてくるアレクの言葉がうっとうしい。

 俺は立ちあがってアレクを見下ろす。

「お前のそういう子供扱いするところが嫌いだ。他人のくせに家に居座るのも気に食わない。でも一番嫌いなのは……」

 床に屈んだままのアレクにナイフを突き付けながら、俺は睨みつける。

「お前が父さん以上に嘘つきなところだ」

 俺は横にナイフをなぎ払った。アレクは軽く飛びのいてそれを避ける。

「父さんの命令だというなら、お前はとっくにお役御免になってるはずじゃないか」

 とても四十代とは思えない身の軽さでアレクは俺から離れると、無言で俺の視線を受け止める。

「お前が監視を始めて一年もしない内に、俺と安樹は伯父に誘拐されたんだから」

――アレクセイ。言いたいことはわかってるな?

 伯父の元から安樹が帰ってくるまでに、父は飛ぶようにして帰国してきた。俺たちには見せたこともない、凍てつく瞳をアレクに向けた。

――お前がここまで無能だとは知らなかった。どう責任を取る?

 帰って来た父の前で、アレクはまるで従順な犬のように首を垂れたままだった。

 俺は幼心に、俺を抱き上げていた父が怖いと思った。父の言葉はさっぱりわからなかったが、父が絶対許しはしないことは空気でわかった。

――私の子どもたちを、命をかけてでも守れと言っておいたはずだ!

 父の雷のような怒声に俺はびくりと体を震わせた。アレクは身じろぎひとつしなかったが、奥歯を噛みしめる音が聞こえた。

――安樹様は、私が取り返して参ります。今度こそ命をかけて。

――当たり前だ。その後は?

 アレクは顔を上げて、覚悟を決めた目で告げた。

――責任を取りたいと思います。

――そうだ。行け。

 迷いなく父が命じるのを、俺は得体の知れない恐怖を感じながら見ていた。

 立ちあがるアレクをみつめながら、数か月彼と共に過ごした日々を思い返していた。

 俺と安樹は、あまり彼の言うことを聞かなかった。誘拐されたのだって、アレクの目を盗んで勝手に二人で家の前まで出て行ったところを狙われた。

「誘拐事件について、お前は何一つ弁解しなかった。俺と安樹に原因があったことも父に告げず、安樹を救いだしたら二度と戻らないつもりで出て行こうとした」

 それでも俺は、アレクが出て行くことを望んでいた。

 数か月の間あれこれと世話を焼いてくれたアレクへの恩を感じることなく、ただ漫然と見ていた。

――みはる、おとうさん!

 けれどその直後に、安樹が家に飛び込んできた。

――無事だったか! よかった、よかった……!

 父は俺を下ろして、安樹をきつく抱きしめた。忙しなく安樹の髪をかきあげて顔を覗き込んで、どこも怪我がないかを確かめた。

――あすちゃん!

 俺も安樹の無事に緊張が切れて、二人で抱き合ってわんわんと泣いた。少しの間でも離れていたことに胸が痛くて、安樹が帰って来た喜びに涙が止まらなかった。

――では、私は本国に戻ります。

 ひとしきり泣いた後、安樹はアレクの言葉を聞いて頭に疑問符を浮かべた。

――どうしたの?

――アレクセイのせいでエンジェルとミハイルが怖い思いをした。だからアレクセイには出て行ってもらう。

 父が怒りを押し殺した声で言ったら、安樹は途端に顔色を変えた。

――だめ!

 安樹はぱっと走って、アレクを父から守るように手を広げて立った。

――おこっちゃだめ。あれくわるくない。

――エンジェル。そういうわけにはいかないんだ。

――だめったらだめっ!

 この時まで、安樹も俺と同じ気持ちでいると思っていた。どんなきっかけであれ、アレクが俺たちの元から去るのを望むと信じていた。

 ところが安樹は一生懸命父に食いさがって、アレクを庇おうとしていた。

――あれくのことわるくいうおとうさんなんて、きらいだ!

 興奮した挙句そんなことまで言いだした安樹に、思わず父が怯んだ時だった。

 安樹は振り向いて、膝をついたまま硬直していたアレクを見た。

――……あのね、あれく。あすね、わかったの。

 俺はナイフを握りしめて、現在の自分を取り戻す。

「お前なんていつも俺たちを子供扱いする、嫌な奴のくせに。満足に安樹を守ることさえ、できなかったくせに」

 俺がアレクに抱いている感情は、嫌悪とか恐怖より他にある。

「なんでお前が先なんだ」

 ナイフを持ちかえて素早く切り込んだ。

「どうして俺より先に、安樹の信頼を勝ち取った!」

 俺が彼に持つもの、それが完全に嫉妬と言われるものだとわかっているから、腹が立つ。

 安樹が生まれて初めて俺を信じず、守ろうとしたのは……この目の前の、一見さえない男のアレクセイであることが許せなかった。

 渾身の力をこめてナイフを突き上げる。途中で不自然に止まった。

「それはね、安樹が自分を一番守ってくれるのが私だと理解しているからです」

 アレクはいつの間にか縄を解いていた。その素手でナイフの背を掴んで止めていた。

「遥花さんへの慕情がそのまま、私に移ったんですよ」

 もう片方の手で俺の手首を叩く。

「急用ができました」

 カランと地面にナイフが落ちた。俺の完敗だった。

「レオと安樹に危険が迫っているとの連絡です」

 ポケットから携帯を取り出して視線を走らせると、彼は壁際で腕組みをして立っていた審判に振り向く。

「ミハルをよろしくお願い……」

「俺も一緒に行く」

 素早くアレクの言葉を遮ると、審判は目を細める。

「連れてってあげなよ。ボクは一切責任取りたくないから」

 保身のための言葉のようで、そこには温かみがあった。

「……私の言うことをききなさい。いいですね?」

 俺が仕方なく頷くと、アレクはそれを見届けて小さく息をついた。

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