後編<アレクセイ>1
彼に初めて会ったのは五歳の時だった。日本に半ば無理やり連れて来られた、その日のことだったと思う。
「アレクセイです。こうして直接お会いするのは初めてです」
彼は五歳の子供相手に膝をついて、丁寧な日本語で話しかけてきた。
「ボスの命令で、美晴様と安樹様をお世話することになりました。何なりとお申し付けください」
俺と手を握っている安樹も、俺と同じでほとんど彼の言っていることがわからなかった。諭すような口調なのに、聞きとれたのは自分たちの名前と、せいぜいもう一つの単語くらい。
「ぼすってなぁに?」
安樹があどけなく首を傾げると、彼ははいと頷いて答える。
「あなた方のお父様のレオニードのことです。私にとっての主ですからそう呼んでおります」
「おとうさん? あす、よくわからない」
「すべてをわからなくてもよいのです。一つだけ覚えておいて頂ければ」
彼は一歩踏み込んで俺と安樹の手を取った。びくっと安樹の肩が跳ねたのが横目でわかった。
海の底のような青い目が俺たち二人の目を射抜く。
「私はあなたたちをすべてから守るための人間です」
俺と安樹はやはり言葉の意味がわからなくて、けれど同時に後ずさった。
――父さんは仕事に行ってくる。アレクセイの言うことをよく聞くんだよ。
父はこの男と自分たちを見知らぬ土地に置き去りにして行ってしまった。
「おうちかえる」
安樹が不安そうに言って手を引く。離してという仕草だった。
「帰れません。あなた方はこれから私とここで暮らすんです」
彼からは何かの匂いがした。それが俺たちには嫌だった。煙草のようだけど少し違う、何か焦げ臭い匂いだったと記憶している。
彼が怖かった理由は、俺たちが彼から危険なものを無意識に感じ取っていたからだと、後になって理解することになる。
今ならあの匂いの正体がわかる。
初めて会ったアレクセイからは、硝煙の香りがしていた。
空気を圧縮した音が響いて、五メートル先の的に小さな穴が開くのが見えた。
「肘に変な力が入ってます。緊張は抜いて」
傍らに立つアレクが俺の腕を掴んで構えを直す。
俺は前方の的を見据えながら、人差し指で引き金を引く。丸い的の外延に穴ができるのは同時だった。
「うん。上手になったじゃない」
行儀悪くテーブルの上に寝そべっていた父が緊張感のない笑顔で頷く。
「俺は遊びで射撃なんて覚えてるわけじゃないんだから」
「そお?」
憎らしいほどに俺とそっくりな顔が、俺の苛立ちを含んだものとは正反対のあやすような口調で言う。
「遊びでいいんだよ。使う機会なんてないんだから」
「父さん」
「ミハイル。実際はこういう訓練で撃てるわけじゃないんだ」
父は俺の手から競技用拳銃を掠め取る。それなりの力で握っていたのに、あっけなくそれは俺の手から離れた。
父は構えなど取らなかった。俺から拳銃を取ったと同時に音が響いた。
俺が後ろを振り向くと、人型の的の頭の中心に穴が開いている。
「慣れだよ。どれほど撃ったことがあるか……的じゃなくて、人をね」
父は続けざまに引き金を引いて撃つ。
繰り返し、繰り返し、真っ黒に塗りつぶすように人型の頭の同じ場所を撃ち抜く。
「父さんは」
弾が切れてからようやく戻された銃を持って、俺は何気なさを装って問う。
「人を殺したことがある?」
目を合わせないで俺が言うと、父は俺の額に指をついと当てた。
「ミハイル。僕は撃つ時はほとんどここしか撃たない。でないとこっちの命がない」
額が熱くなった気がして俺が一歩下がると、父は眉を寄せて口の端を下げた。
「……言って傷つくなら嘘をつけばいいじゃないか」
父が悲しそうな顔をすると俺もつい甘いことを言ってしまう。
「ミハイルは優しいね。僕が嘘をついても許してくれるの?」
「もう慣れた。父さんは俺たちを守るための嘘しかつかないから」
ある時父と旅行中に、突然銃で撃たれそうになった。けど倒れたのは俺や父ではなく、銃を向けた男の方だった。
父はあまりに迷いなく銃を抜いて一発で相手を地に伏してしまったから、俺は薄々感じていた疑念を確信にすり替えた。
その時以来、俺にも危機感を持たせるという理由があってか、父は時折自分の出自を答えてくれるようになった。
――家業なんだ。ボスは兄さんだけど。
「今回の仕事って、実際はどっちなの?」
「両方だよ。現地の連中とちょっともめてるらしいから仲介に入る」
父がバイオリニストであるのは本当だが、外国に行くのは半分以上が裏の仕事の方だということも、今では訊かなくても大体わかる。
「イタリアに住んでるわけじゃないだろ」
「最近はどこも国際化しててね。資金繰りにあちこちの国に会社作ってさ。日本が平和なだけ」
父は口癖のように、日本は平和だとぼやく。
そこに、父が俺たち双子を日本に連れてきた理由があるのだと思う。
一つはそのままの理由で、一般人は銃さえ持てない平和が未だ日本にはあるということ。
もう一つは、俺たちの母方の伯父がこの地域で暴力団の親玉だというからだった。
「ミハイル。二月にリュウジともめたらしいね」
やはりきたかと思って舌打ちをすると、父はテーブルから降りて俺の前に立つ。
「いい? ミハイル」
目を逸らす俺を無理やり自分の方に向けさせて言った。
「お前はエンジェルと違って、リュウジに無条件で守られるわけじゃない。自分から喧嘩を売るような真似をしちゃ駄目だ」
「俺は守られなくたって平気だ。もう子供じゃない」
「子供だよ」
父はあくまで俺の前では、心配性な父親の顔を崩そうとはしない。
「リュウジはハルカとエンジェルには甘いけど、怒らせたらお前など平気で殺せるんだからね。ミハイルはあいつの本性を知らないんだから」
俺の頭をそっと撫でて、父は俺と同じ色の瞳を細める。
「僕かアレクのどちらかと必ず一緒にいること」
「話にならないよ」
まるで駄々っ子だと自分で思いながらも、俺はぷいと父から顔を背ける。
「いつまで俺たちをアレクに監視させ続ける気だ?」
横目でアレクを睨むと、彼は感情を消した顔で俺を見返していた。
「安樹がアレクを慕ってなきゃ、とっくに全部ばらしてるよ。アレクは「お母さん」でも何でもなくて、俺たちの監視者だって」
アレクセイは父が俺と安樹を守るためにつけたボディーガード兼留守中の世話係。それ以上に、俺たちの見張り役として五歳の時から側につけられている。
「ミハルがそう思うのなら構いません。事実、私は生きている限りあなたたちから目を離しませんから」
本当はそれだけではないのを知っているが、彼が眉一つ動かさずに俺の不満をやり過ごすから、余計に腹が立つ。
俺は二人に背を向けて射撃場を後にする。
射撃場は俺たちの住むマンションの一階にある。俺はそこから出てエレベーターに乗ると、上階で下りて家の中に入った。
安樹の部屋をそっと覗くと、彼女はすやすやと眠っていた。既に日付をまたいでいるし、安樹は一度寝るとなかなか起きないから俺たちも安心して下の部屋にこもっていられる。
父が久しぶりに帰ってくると、安樹は子どものようにはしゃぐ。無邪気に、今回はどこの国でバイオリンを弾いてきたのと問いかけて笑っている。父が本当は同じ手で銃を持っているのを知らなくて、でもその安樹の笑顔を曇らせたくないために俺たちは全力で嘘をつく。
自室に入ると、ベッドに仰向けに寝そべる。胸の中にもやもやとした思いがとめどなく浮かぶ。
父が俺と安樹のためを思ってしていることだとはわかっている。父に裏の家業があることも、日本に拘束されていることも、そのこと自体に不満はない。
ただ、いつか父が俺と安樹を引き離そうとする可能性について考えてしまう。
子供だから、守るべきものだからという理由で、父にすべてを委ねてしまいたくない。
伯父が安樹を竜之介の嫁にしようとしていることだって、父は反対していない。安樹の安全のためにそういう方法もあると考えているのかもしれない。
――あすちゃん。あいつのこと、しんじちゃだめ。
それより、一番の問題はアレクだ。
目を閉じてその上で手を交差させながら、俺は幼い日のことを瞼の裏に映し出す。
初めて日本に来てアレクと一緒に暮らし始めた時、俺は繰り返し安樹に言った。
――おかあさんがいなくなったとたん、あいつがきた。あいつのせいでおかあさん、いなくなったのかもしれない。
どうしても俺は安樹と一緒にアレクを嫌いたかった。硝煙の香りをまとっていた不吉な男を、安樹に近付けたくなかった。
――あいつのことしんじちゃだめだ。そうじゃないとおかあさん、かえってこなくなる。
俺の言うことを何でも信じる安樹は、こくりと頷いて言った。
――みはるがいうならしんじない。おかあさん、はやくかえってきてほしいもん。
アレクの作る食事を食べ、アレクの用意した服を着て、アレクのいる家で眠ったけれど、俺たちはアレクに心を許したりはしなかった。
けれどある事件をきっかけに、安樹はアレクに懐くようになった。
――あれく。あすね、わかったの。
それは安樹が初めて、俺より他の人間を信じた出来事だった。
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