前編<レオニード>5

 ユキさんは四人分の紅茶を淹れていて、それを私たちは神妙な顔で待っていた。

 この状況は二言で説明できる。拳銃を構えて告白した少年に、ユキさんは一拍置いて言った。

――お茶でも飲みながら話を聞こうか。

 さすが大物は少年に告白されるという事態にも、その少年が拳銃を持っているという事実にも動じなかったらしい。

「お砂糖入れる?」

 でも私の前に紅茶を置いた時、ユキさんは申し訳なさそうに少し頭を下げた。私はそれに、声には出せないながらも首を横に振る。

 私は視線だけを動かして隣に座る父を見やる。父はなぜかむくれていた。ユキさんとのひと時を邪魔されたことに怒っているのだとしたら、父も相当落ち着いている。

「さて、どこから話を聞こうかな」

 激しく動揺しているのは私だけだとしたら情けなくもあるけど、それが一番普通の人間の反応だとも思う。

「簡単なことです。僕はユキさんが好きで」

「君、なんでユキなわけ?」

 なぜか言葉を挟んだのは父だった。むっつりと口を引き結びながら、軽蔑するように少年を見下ろす。

「さっき僕のこと好きって言ったじゃない。あれは嘘なの?」

 この状況でも嫉妬に心を燃やしている余裕がある父が羨ましかった。

「レオニードさんも好きですけど、ユキさんは僕にとって音楽の神のようなもので」

「自分の言葉には責任持ってよ。ちょっと期待しちゃったじゃない」

 こらこら父さん、そろそろ黙ったらどうだ。

「ミューズは撃ち落とすものじゃなくて優しくキスするものだよ。こんな無粋なものまで持って来て」

「ですから……って、ちょっと!」

 少年と同時に私も目を剥いた。

 父はいつの間にか少年が握っていた拳銃を手でぽんぽんして遊んでいた。

「え? これおもちゃじゃないの?」

「何言ってるんですか、当たり前でしょう!」

「なーんだ。ごめんね。はい」

 私は心の中で叫んだが、時すでに遅し。父はあっさりと拳銃を少年の手に戻していた。

 拳銃さえ奪えば人を呼んでそれで終わりにできたのに。妖精呼ばわりされる人に危機感などという気の利いたものは備わっていないのか。

 差し当たってユキさんは紅茶に口をつけて、世間話をするように続ける。

「それで、君は私が好きで私を殺すの?」

「はい。自分もすぐに後を追います」

「私みたいなおじさんと一緒じゃ君がかわいそうだよ」

「いいえ。ユキさんは僕の神です」

 機械みたいな受け答えだ。始めから決まっている答えをその順序通りに答えているような不気味さを感じる。

「だったら何で幸せを願わないんだ」

 思わず私は反論を口にしていた。

「大事な人には元気でいてほしいだろ」

 私は片割れのことを思いながら言う。

 ミハルのためなら死んでもいい。ミハルが生きてるなら、幸せでいるなら私が全く真逆だって構わない。

「僕は違います」

 少年はガラス玉のような目をして短く答えただけだった。そういえば彼は入ってくる時からこんな目をしていた。

 でもそれに同情することはできなかった。

「人を殺すような理由にならないよ」

「エンジェル」

 父が小さく声をかけてきた。あまり刺激するなというところだろう。

 確かに私が変なことを言ってユキさんが撃たれたら、取り返しのつかないことになる。

「ごめんなさい」

 父とユキさんに言って、困ったところで出てしまう私の安っぽい正義感を心の中でたしなめた。

 馬鹿だな、私。人を殺そうとするような人間に何を説教しようとしたのだろう。

「まあ君がそう願ってるのはわかったよ。でもユキの意見は聞いたの?」

 父は私の頭を軽く叩いて言った。気にするなという時の父の仕草だった。

「ユキが君と死にたいって思ってるならともかく、本人の裏も取れてないでいきなり押し掛けるなんてスマートじゃないね」

 何かずれているような気はするが、言いたいことはわかる。

 ポケットに手を突っこんだまま、父はぷくっとむくれて言葉をつらつらと並べる。

「ユキはみんなのミューズなんだよ。学生の頃からそうだ。言葉をかけてもらえただけでエデンの住人。そんな気分になれる華やかな世界の人なわけ」

「ユキさんと個人的に会えるような立場のあなたに僕の気持ちはわかりません。さっきは言葉を交わしたこともないって言ってたくせに」

「そんなこと言ったっけ?」

 しらばっくれて、父はなお言葉を続ける。

「さっきから何なんですか、カルナコフさん。僕をからかってるんですか」

「からかってなんていないよ」

 父は足を組みかえて、手を口元に持っていく。

「哀れな子羊に説教する宣教師のフリしてるだけ」

「あなたは……!」

 怒りにまかせて少年が立ちあがり拳銃を父に向けると、父はひらひらと両手を上げて振る。

「残念」

 父はため息を一つついた。

「君ともうちょっと遊びたかったな」

 ふいに空気の流れが変わった気がした。

「物騒なことになってますね」

 聞き覚えのある声が間近で響いた。

 扉が開いた音を聞いた覚えはなかった。いつの間にか、すぐ側にアレクが立っていた。

 驚いてアレクに銃口を向けようとした少年が、いきなりバランスを崩す。

 チャンスだと思った。

 私は踏み込んで一気に少年の懐に入り込む。

 私は彼の手首に手刀を下ろして拳銃を叩き落とす。ガンと重い音が足元で響く。

「安樹!」

「エンジェル!」

 アレクと父の驚いた声が同時に聞こえた。

 少年はそれで怯まなかった。素早く私を突き飛ばすと、後ろポケットからナイフを取り出した。

 思わず私が動きを止めると、少年は私を押しのけてユキさんに刃を向ける。

 それを阻もうと手を伸ばしたら、大きな手が私の手を掴んだ。

「やめなさい!」

 私を抱きしめるように壁に押しやって動きを封じたアレクに、私は対抗しようとしたけどびくともしなかった。

 このままじゃユキさんがと焦ったけど、状況はころりと反転する。

「おっとぉ」

 少年はユキさんの所に辿り着く前に見事にすっ転んだ。

 アレクの肩越しに覗き込むと、父が足を伸ばしている。どうも父が少年の足をひっかけて、しかも少年のナイフも踏みつけていた。

 ナイスだ、父さん。心の中で尊敬したら、部屋の外が騒々しくなった。

「警察だ!」

 ユキさんが呼んだのか、紺色の制服を着た警官が素早く少年を確保する。

 少年は信じられない顔をしていた。事態に全くついていけないようだった。

「ごめんね」

 そんな彼に、ユキさんがきっぱりと言った。

「私は神じゃない。自分を守るためなら他人を踏みつける汚い人間だよ。君とは決して死ねない」

 連れて行ってくださいと警察に促すユキさんは、まぎれもない大人だった。

 私たちの前で扉が閉まり、一瞬の静寂が訪れる。

「レオ。君が会いに来なかった理由がわかったよ」

 ユキさんは父に向きなおって言う。

「あの子に言ったように、私は自分を守るためには他人を踏みつける」

「……わかってる」

 父が暗い顔をして頷く。

「だから安心して、これからも会いに来てね」

 ぱっと父は顔を上げて目を瞬かせる。

 父は神妙に、言葉を選ぶように迷いながら言った。

「いいの?」

「嘘をついてどうするの」

「じゃあ、その」

 父は目を逸らしながらそっと言う。

「初めて会った時みたいに、握手してくれないか」

 ユキさんは微笑んで父の手を取った。後光の差す、優しい笑い方だった。

 父がこの人を好きになった理由がその笑顔だけでわかった。

「……やっぱキスも」

 懲りずにユキさんの頬に向かう父を、私は何とか抑えつけて引きはがしたのだった。






 扉の外にはミハルもいて、私はどういうことかさっぱり事情がわからなかった。

「遅いからアレクと迎えに来たんだよ。でも扉の向こうで変な話してるのを聞いたからさ、警察呼んで」

 警察が来るのが早すぎるような気がしたけど、ミハルが言うならそういうことなのだろう。抱きついてくるミハルに、私は大丈夫だよというように肩を叩き返した。

 ミハルとアレクは夕食の準備のために先に帰って、私は父とのんびりと町を歩いていた。

「アレクにあんなに怒られるなんて思わなかった」

「そりゃそうだよ。エンジェルが怪我するところだったじゃない」

 私は少年の拳銃を叩き落としたことをアレクにみっちり叱られた。私だって護身術くらい覚えてるから大丈夫だと言っても、アレクはなかなか私を解放してくれなかった。

「あの拳銃、やっぱり玩具だったんだね」

「そうだよねー。騙されちゃったよね」

 警察の話を聞いたところによると、拳銃は偽物だったらしい。けれど刃物を人に向けたことで少年はしばらく警察に捕まったままだろう。

 既に日が暮れていた。空は紺色で、星もぽつぽつと見え始めている。

 今日はいろいろ大変だったけどようやく家に帰れる。ミハルとアレクと父が揃った、私にとってどこより安心できるホームだ。家々の温かい灯に目を細めていた。

「エンジェル」

 ふいに空気に溶かすような声で、父が言った。

「愛してるよ」

 驚いて振り向くと、どこまでも真剣な眼差しがあった。

「いつでも、どこにいても、君を想ってる。君が幸せでいるなら、僕は地獄に落とされてもそこがエデンだと笑える」

 光る碧の瞳に射すくめられたように、私は思わず足を止める。

「愛している」

 もう一度言って、父は私の頭を抱いて頭のてっぺんにキスをした。

「今晩のご飯は何だろうねぇ」

 それから体を離した父は、いつもの子供っぽくてかわいい年齢不詳の妖精だった。

「二日目だからアレクも手抜きするんじゃないか? あと父さん、水代わりにワイン飲むのはそろそろやめなよ」

「えー、やだぁ。ワイン大好きー」

 そんな他愛ないやりとりをしてから、私は父の肩にこつんと頭を寄せた。

 父は了解したように私の頭を撫でて、それから私の手を取って歩き出した。

 星が瞬く綺麗な夜だった。

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