前編<レオニード>2

 帰宅すると、エプロンをつけたミハルが私と父を迎えてくれた。

「おかえり、ごはんできてるよ。今日はね、ボルシチと肉じゃが」

「ああ、いつものだね」

 父が帰ってくる最初の日はいつもこのメニューだ。

 ミハルが私を連れてリビングに入ると、皿を並べていた割烹着姿の男性が振り返って微笑みかけた。

「おかえりなさい、安樹」

 耳に心地よいテノールの声で名前を呼んで目を細めると、彼は自然に私の頬にキスした。

「お茶を飲みに行っただけなのにこんな遅くまでレオに付き合わされて」

「全然遅くないよ。アレクは私を子供扱いしすぎなんだ」

 淡い金髪と青い目の彼は、細身で男性にしてはごつごつした感じがない。苦労の跡の滲む白い頬に、目尻の下がった細目でおっとりと私をみつめてくる。

 ……その髪が年々薄くなっていくのは私とミハルと父が苦労をかけているからであって、決して触れてはいけないことだ。

「レオもおかえりなさい。いつも言うことですが、帰ってくるならせめて三日前には連絡をくださいね」

「面倒じゃん。家に帰ってくるのに連絡なんて」

「食事の準備とかいろいろあるんですよ」

 アレクセイ・カルナコフは父の従兄弟で、同い年ということもあって幼い頃から一緒に育ったらしい。けれど父にも私たちにも丁寧に話すのは、彼の性分だそうだ。

「このボルシチはミハイルが作ったね?」

「なんでわかった?」

「そりゃあわかるよ」

 父は食卓を一瞥するなりミハルに言う。怪訝な顔をした息子に、彼はくすりと笑ってミハルの頬にキスした。

「いい子」

「ちょ、何すんの。やめてよね」

 むっとして離れるミハルがかわいい。キスくらい幼い頃からたくさんしてもらっただろうに、最近のミハルは父に対してちょっと反抗期だ。

「あすちゃんで消毒―」

 ミハルは私に抱きついてほっぺをくっつける。私はそれにくすくす笑って、しょうがないなぁと呟いた。

「いただきます」

 四人でそれぞれの席についておもむろに夕食を始める。父は信仰心の薄い人で、面倒なことと判断したことは基本的に無視する。アレクに言わせると、昔母にたしなめられていただきますを言うようになっただけましなのだそうだ。

「今回は何日いるわけ?」

「明後日には経つよ。公演がミラノであるから」

 父が嫌そうな顔をするので、私はごくんとじゃがいもを飲みこんで言う。

「父さんの恋敵がいるんだっけ」

「そうなんだよ。恋敵は世界中にいるけど、イタリアのあいつは一番嫌い。どうしてか妙に鉢合わせるし」

 父はぷすっとむくれて日本語で呟いた。

「ハチに刺されちゃえ」

 ミハルとアレクは一瞬だけ目配せして、私はなぜそこだけ日本語でダジャレを言うのだろうと不思議に思った。

「父さんもどうしてそのイタリア人にだけはやたらこだわるの?」

「初恋の彼にくっついて離れなかった嫌な奴だからだよ」

「父さん、アレクの前だよ」

 奥さん同然のアレクの前で昔の恋話なんてするものじゃない。私がたしなめると、アレクは私に微笑みかけた。

「私もよく知ってますよ。彼のことも、昔のレオの恋愛事情も」

「でも、アレク」

 テーブルの向い側から手を伸ばして、アレクは私の頭をそっと撫でる。

「いつも気にかけてくれてありがとう。いいんですよ」

 私はアレクに頭を撫でられると照れて黙ってしまう。彼は幼い頃から本当のお母さんのように温かかったから私もつい甘えてしまう。

「なんですか二人とも」

 ふと目を上げると、父とミハルが揃ってじぃっとアレクを見ているところだった。

「ずるい。アレクばっかりべたべたして」

「そうだよ。ずるいよ」

 父とミハルは子供っぽく文句をつけた。

 何だか子供が二人いるみたいだなと私は苦笑する。

「それで、明日その初恋の彼に会いに行くって?」

 とりあえず父の関心を逸らそうと思ったら、彼はあっさり乗って来た。

「うん。彼は僕が日本に留学した時に初めて会ったんだけど……」

 その辺りの経緯はもう何度も聞いて知っている。

 父レオニード・カルナコフは十八の時に日本の音大に留学したのはいいが、言葉もほとんどわからず途方に暮れていたらしい。

 友達もおらず、目に映る風景もことごとく馴染みのない全くの異国だった。今の明るい父からは想像もつかないが当時は内気な性格だったらしく、自分から話しかけることもできなかったそうだ。

 その日、若き日の父は移動教室の場所がわからないまま構内をさまよった挙句、楽譜を派手に落としてそれを拾い集めていた。

 なんでこんな国に来てしまったのかと、心細さに半泣きになっていたそうだ。

 そんな父に話しかけて、一緒に楽譜を拾ってくれた男の子がいた。

――専攻はバイオリンだっけ。君の音色は幻想的だね。

 彼は片言ながらも父の母国語を話してくれたそうだ。

 その辺をすべて私が口に出すのは恥ずかしいが、彼は細くつやのある黒髪、切れ長の澄んだ瞳、雪のような白い肌で、つまり父がせっかく拾ってもらった楽譜をもう一度取り落とした美少年だったということだ。

――次の教室、近くだから。一緒に行こう。

 その時の彼の微笑みには後光が差していたという。

「天使が舞い降りたと思ったね」

 父はうっとりしながらため息をついて、ワインを喉に流し込んだ。

 ミハルがどうでもよさそうに相槌を打つ。

「好きに会えばいいんじゃない。僕は行かないけど」

 ミハルは最近時々、父に距離を置いた話し方をする気がする。

「本当はあすちゃんを付き合わせるのもどうかと思うけどな。せっかくの休日なんだし」

「しょうがない。ミハイルはお留守番か」

 父はくすっと笑ってミハルに言った。

「パパの留守中はアレクと遊んでもらってなさい、ミハイル」

 子供扱いした言葉にミハルがむっとして、私はそのかわいさに思わずぷっと吹き出したのだった。

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