後編<楓>3
帰りに安樹がバイトしている店を教えてもらうために、その近所で車から下ろしてもらった。
「なんだ。俺がバイトしてるところのすぐ近くじゃないですか」
「鈴子がママをやってるところみたいよ」
「ああ、由衣ちゃんのお母さんですね。楓さんともよくお茶してるんでしょう?」
楓さんはうなずいて言う。
「いざって時に頼りになるのは女同士のネットワークだからね」
ふと目を伏せて、彼女は呟く。
「遥花には敵わないけどね。龍二は特定の愛人には入れ込まないって決めてるみたいだけど、遥花は別格。あいつ、遥花が熱出したからって出張先から飛行機でとんぼ帰りしたことあるのよ」
呆れ調子で楓さんは続ける。
「とにかくかわいくて仕方なかったんでしょうね。遥花が嫌がるくらい構いとおしてたわ」
楓さんは夢見るように言う。
「遥花は外面的には理想的な大和撫子だったの。でもね、身内にはきゅーって抱きしめたくなるかわいさだったのよ。怒っても全然迫力なくってつい笑っちゃう感じ」
楓さんは笑み崩れたまま肩を竦める。
「安樹ちゃんはそっくりだわ。家に連れて帰りたい龍二の気持ちは、あたしだって同じ」
ふいに肩を落として、楓さんは口元を歪める。
「どうしてあんな早くに亡くなっちゃったのかしらね……はるか」
龍二と同じで楓さんも、まだ「はるか」に囚われたままなのだ。母の残したものを重く感じた。
俺は道路の向こうを見やって頷く。
「楓さん、少しいいですか」
龍二の車がクラブの前につけられたのを見届けて、俺は楓さんの腕を掴むと俺の腕に通した。
深夜でも夜の街に人通りは絶えない。安樹から見えるのを承知で、俺は楓さんを引き寄せながら道を曲がった。
「どうしたの、ミハル。龍二は鼻で笑うでしょうけど、安樹ちゃんは絶対誤解するわよ」
「そうですね」
俺は安樹から見えない場所まで来たのを確認すると、腕を解いて振り返る。
「安樹へ、俺に内緒でバイトなんてしてた罰です」
「あなたって子は」
楓さんは苦笑気味に言ってくる。
「妹をいじめちゃ駄目じゃないの」
「悪い子にはおしおきです」
くすりと笑うと、楓さんは目で叱る。
「悪いお兄ちゃんね」
まったくその通りだと思いながら、俺は楓さんに目で同意を送った。
週明け、俺は鈴子ママのクラブ「初音」でボーイとして働き始めた。
「み、ミハル。どうしてここに」
安樹は俺を見て大きな目がこぼれそうになるほど驚いた。俺も今日からここで働くのだと伝えると、安樹は案の定反対してきた。
「駄目だ、ミハル。変な奴に目をつけられたらどうするんだ」
安樹こそ目をつけられたじゃないかと内心で苦笑しながら、俺はわざとすねた顔を作る。
「やだ。僕もやる。あすちゃん、僕に黙ってバイトしてたもんね。僕もあすちゃんの言うこと聞いてあげない」
困り果てたように安樹は立ち竦む。
それにしても、俺の妹は黒服を着てもまた似合う。背の高さと均整の取れた体つきがスマートで、大きな琥珀色の目とピンクの花びらのような唇がかわいらしい。短く緩やかなウェーブのかかった髪は長い髪よりも逆に艶やかで、ミステリアスな雰囲気が人の目をひきつける。
龍二でなくてもこれでは目をつけられてしまう。もう数週間夜の仕事をしていたと思うと歯噛みしたいくらいだ。
俺はついと身を屈めて、安樹の顔を覗きこむ。
安樹は三日前から様子がおかしい。暗い顔で食事の量も減って、大好きな裁縫も手を止めてしまっている。
その原因はたぶん、俺が楓さんと腕を組んで歩いていたことだろう。二日前の朝食の席に現れた安樹の目は明らかに腫れていて、泣いていたと知った。
「それより、あすちゃん。体調悪いなら無理しちゃ駄目だよ」
「私のことなんてどっちでもいいだろ」
やりすぎたと俺は眉を寄せながら後悔する。安樹の心は子どもみたいに純粋で傷つきやすい。
「何で怒ってるの? 僕がバイトするの、そんなに気に入らない?」
でも俺が唐突に楓さんのことを言うのは不自然だし、龍二のことも話さなければいけなくなる。安樹から追求してくれれば笑い話に変えられる。
「何でもない」
けれど安樹は悲しそうな顔をして通り過ぎてしまった。俺はとっさに言葉が浮かばず、弁解するチャンスを失った。
片割れの心の痛みが伝わってきた気がして、俺は胸を押さえる。
営業時間が始まってからも、安樹と会う機会はほとんどなかった。意図的に避けられているのはすぐにわかった。
俺はたいていのことがそつなくこなせる自信がある。けど安樹にそっぽを向かれると俺は途端に無力になる。頭の中が真っ白になって、とるべき方法が一つも思い浮かばない。
「安樹ちゃん。浅井さんいらっしゃったよ」
「はい。行ってきます」
厨房に戻る途中で安樹がボーイと話しているのが聞こえた。
「ちょっと待って、あすちゃん」
「ごめん。急いでるから」
いつもなら俺が声をかければ必ず立ち止まってくれる安樹だけど、今日は俺の方を見ようともしない。
「緊張するな。浅井さんって業界の人なんだろ。粗相があったらやばいよ」
ボーイ仲間が厨房からお盆を持ってきてぼやいているので、俺はにっこり笑って進路を塞いだ。
「それなら僕が代わりに行くよ。奥でいいんだよね?」
有無を言わせずお盆を奪い取って、俺は足早にその場を歩き去る。
「失礼します」
ノックをして中に入ると、俺の目に飛び込んできたのは想像していなかった光景だった。
「あすちゃん……!」
龍二の膝に頭を乗せてソファーに寝そべり、安樹はぐったりと力なく横たわっていた。
「だから無理はいけないって。熱があるの?」
俺はお盆をテーブルに置いて安樹の側にしゃがみこむと、安樹の額に自分の額を合わせようとした。それを龍二が手を伸ばして押しのける。
「車を回した。着き次第医者に連れて行く」
「僕も一緒に」
「ミハルは仕事」
安樹が俺の頬に触れる。
「龍二さんも……このくらいで医者は大げさです。自分で帰りますから」
「駄目だ」
「駄目」
不本意ながら、龍二と声が被った。龍二がこちらを睨んだのがわかった。
結局押し切る形で、俺は龍二の車に同乗させてもらうことにした。安樹が体調の悪い時は絶対に側を離れないと決めているから、ここは譲れなかった。
「すみません。医者まで連れて行って頂いて」
病院で睡眠不足と風邪だと診断された安樹は、家の前まで送られてくると申し訳なさそうに頭を下げた。
龍二は苦笑して安樹を諭す。
「頼られるのは嬉しいが、体を壊してはいけない。ゆっくり休むように」
「はい……」
「お世話になりました。あすちゃん、入ろ」
俺は安樹を抱きかかえるように支えながらマンションに入ると、着替えさせてすぐにベッドに押し込んだ。
「あすちゃん、心配事があるなら僕に言って」
ベッドの脇に座って、俺はそっと尋ねた。
「バイトで何かあったの? それとも別のこと?」
しばらく待っていると、ぽつりとした言葉が返ってくる。
「……あの人」
安樹は迷いながら続ける。
「龍二さん、苦手なんだ。親切にされてるのに、悪寒がして、思い出すと寝付けなくて」
彼のことも不安だったのだと気づいて、俺は頷きながら諭す。
「誰だって苦手な人はいるよ。あすちゃんは悪くない。鈴子ママに頼んで担当から外してもらったら? ……店をやめても」
「やめないよ!」
安樹は俺を睨みつけて声を荒げる。
「み、ミハルの指図は受けない。大体、ミハルだって」
俺は安樹がなじるのを待ったが、安樹は口を閉ざして口元まで布団に埋もれる。
「……何でもない」
「言って、あすちゃん」
「ないったらない。ミハル、寝るから出てって」
安樹は寝返りを打って俺に背を向ける。
たぶん安樹が今痛いのは、体じゃなくて心なんだと思った。
「わかった。でも一つだけ聞いて」
俺は壁の方を向いてしまった安樹に言う。
「僕、あすちゃんが一番好き。誰より僕が一番好き。ずっとずっとあすちゃんの味方でいる」
安樹の肩が震える。
「もし、あすちゃんが悩んでることがあるとしたら。最初に僕に教えてね」
俺の誰より大切な妹だから、何に替えても俺が守る。
「ゆっくり眠って。隣にいるからね」
俺は立ち上がって部屋の電気を消すと、廊下に出た。
手で顔を覆ってうつむく。自己嫌悪に俺まで調子を狂わせそうだった。
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