後編<楓>2

 楓さんに連れて行ってもらったのは、郊外の洒落たイタリアンレストランだった。

 庭の見える個室に入ってまもなく料理が出てきた。

 クリームリゾットは思わず笑ったくらいおいしかった。チーズの香りが甘くて、米の柔らかさもちょうどいい。

 楓さんは向かい側でトマトソースのリゾットを食べながら微笑んだ。

 半分ほど食べ進めたところで、俺は庭の向こうにある料亭に気づいた。

 そこに車が横付けされたのが見えた。高級車から秘書らしい者が降りて扉を開くと、次に背の高い男が下りる。

「……あ」

 その眼光の鋭い男に見覚えがあったので、俺は短く声を上げる。

 男は振り返って中に手を差し伸べると、そこから白い手を引いて外に誰かを導いた。

「安樹……」

 車から降りてきたのは、目に眩しいほどの白いコートをまとう安樹だった。

 めったに着ないワンピース姿で、長い足が際立つようにスマートなヒールを履いている。髪も少し整えてあり、紫の花飾りが差し込んであった。

「あいつも抜け目ないわね。もう連れ出してきたとは」

 俺の片割れはなんてかわいいんだろう。思わず見惚れてしまった後、俺は楓さんに向き直る。

「どういうことですか。龍二さんと安樹が一緒だなんて」

 楓さんはワインを一口飲んで返す。

「安樹ちゃん、よりにもよって龍二のシマのクラブでボーイとして働いてたからね」

「客として来たってわけですか」

 俺は顔をしかめてぼそりと言う。

「あの誘拐犯」

「そうねぇ、あなたたちにとっては誘拐犯の伯父様ね」

 浅井龍二は俺と安樹の伯父で、竜之介の父親だ。企業人である表の顔と、暴力団連合の会長という裏の顔を持つ。

 俺たちの母親に異常な執着を持つあいつに、俺と安樹は幼い頃誘拐されたことがある。その時は事なきを得たが、龍二が母にそっくりの安樹を狙っているのはずっと感じていた。

「あいつが最近、普段不定期にしか行かない愛人のクラブに熱心に通い詰めてるっていう報告が回ってきたからね。怪しいと思って調べたらこの通りよ」

「安樹はあいつの正体を知らない?」

「でしょうね」

 安樹は小さい頃の誘拐の記憶があまりに怖かったからか、伯父のことを完全に忘れている。俺も安樹をまた怖がらせたくなくて黙っていたが、それを逆手に取られてしまった形だ。

「側近がマンションの手配してたわ。囲う気満々ね」

 俺は睨むように窓の外を見ながら唇を噛む。

 今すぐ安樹を引き離したい。けれどあいつの周りには常に警護の人間がいる。

 心を落ち着けて、俺は正面の楓さんに目を戻す。

「それで? 俺に教えてくださったってことは、楓さんも止める気だってことですか?」

「あたしはどうかしらね」

 楓さんは頬杖をついて、微笑を浮かべながら言う。

「伯父さんでしょ。悪いことじゃないわ」

「安樹は怖がってます」

 俺は冷ややかに返す。

「たぶん今、安樹は悪寒と得体の知れない恐怖感を持ってる」

「どうして?」

「安樹は性的なものを受け付けません」

 本人は気づいていないが、幼い頃から側にいる俺はわかっている。

「自分に好意のある男がいるはずがないと思い込んでるのが安樹です。口説いても脅してるようにしか聞こえないし、相手が何を話しているのかもさっぱりわからなくて……宇宙人を相手にしているようなものなんです」

 安樹に近づく男は俺と竜之介が幼い頃から遠ざけてきたが、それでも抜けがけしようとする奴が同じ高校にいた。

 でも告白を受けた時、安樹は赤くなるどころか青くなった。

 安樹が背中に隠した手は震えていた。次の瞬間には走って逃げだしていた。

「怖がりなんですよ、安樹は。だから俺、安樹の前では絶対に男の部分は見せないようにしてます」

 楓さんは納得したように頷いたが、すぐに意地悪く目を細める。

「でもとことん甘やかされて可愛がられたら、安樹ちゃんの反応も変わるかもよ? 男に耐性のない安樹ちゃんを落とすことなんて、龍二にとっては赤子の手をひねるくらいに簡単なことなんだから」

「確かにそれができる立場にあるのは事実ですけど」

 俺は食べ終わったリゾットの皿を横にどけて手を組む。

「俺がさせません。教えてくださってありがとうございます。あとは俺がどうにかしますので」

「ミハル」

 楓さんは妖艶に微笑んで、俺の口の前に指を一本立てる。

「かわいいミハルがあたしにお願いさえすれば、安樹ちゃんを龍二の魔の手から守るくらいしてあげるのよ?」

「でもそれは交換条件でしょう。俺に何を求めるつもりですか?」

「そうね……」

 俺の頬に手を添えて、楓さんは指先で俺の唇をなぞる。

「お姉さんとイイコトしない?」

 きつく張った糸のような緊張に、俺は目を細める。

 楓さんの魔的なまなざしを見返して、そしてきわどい胸のラインをちらっと見下ろす。

 二人で同時に吹き出した。

「お互いだめじゃないですか」

「全くよね。というかあたし、お姉さんって年じゃないし」

 俺と楓さんはひとしきり笑い終えると、目尻にたまった涙を拭きとる。

 身にまとっていた夜の空気を引っ込めて、楓さんは俺の頭を子どもにするように撫でる。

「ありがと。どうせあなたのことだから、動くとあたしの立場がまずくなるってこともわかってるんでしょ」

 母親が亡くなった時、幼くてそれを理解できない安樹の前では俺は泣けなかった。そんな俺を優しく楓さんが抱きしめてくれたのは、遠い記憶だ。

「別にあたしの立場は気にすることないのよ。あなたがやんちゃしてるのは龍二も知ってる」

 あっけらかんと笑って、楓さんは頬杖をつく。

「やれるもんならやってみなさい。安樹ちゃんを勝ち取るにはどの道あいつを超えないとね」

 俺は息をついて苦笑する。

「楓さんに言われると痛いですね」

 俺は女性の中では、安樹の次に楓さんの言葉を重く受け止めるのだった。

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