前編<龍二>5

 たぶん一時を回って終電もない頃、私たちはお店に戻ってきた。

 今日はほとんどバイトをしていないからバイト代要りませんと言ったら、ママは困ったように私に笑った。

「駄目よ。浅井さんに怒られちゃう」

 龍二さんが怒ったところは見たことがないけど、ママはよく怒られちゃうと言うからそういうこともあるのだろう。

 服やヒールの類をお店のお姉さんに譲るようにお願いしたら、ママはそれもお店で預かるけど人にはあげられないと言っていた。

 家まで送られそうになったところを丁重にお断りして、私はどうにかお店の前で降ろしてもらった。

「わ、すみません!」

 ヒールがひっかかって転びそうになったところで、龍二さんに腰に手を回されて支えられた。

 背の高い人だと今更ながらに思った。私がヒールを履いてもまだ私より高い。この人と並べば私も何とか女に見えるかもしれない。

「そう見るな。帰したくなくなる」

 龍二さんは私の耳に口を寄せてそんなことを言った。

 血流が急上昇する。この人の声は心臓に悪い。悪寒といい、私の体質に確実に合っていない。

「で、では、今日はありがとうございました」

 早く帰ろう。ミハルはもう寝てるだろうけど寝顔を見て和もう。

 私は龍二さんから顔を背けて一礼すると、踵を返して……そこで足を止める。

「あ……」

 華やかなクラブが立ち並ぶ道の向こう側を、見慣れた銀髪の男の子が歩いていた。

 ミハル。思わず口の中でそう呟きそうになって、すぐに引っ込める。

 毛皮のコートに身を包んだ女性がミハルの腕に腕を回して歩いていた。

 ミハルと女の子がこんな時間に夜の街にいる。そのことの衝撃が強すぎて、時間が止まったような気がした。

「はるか?」

 ミハルだって大学生の男の子なんだから、年頃なんだから、そう言い聞かせるけど、私は目からぽとぽとと落ちるものを止められなかった。

「えっく……」

「どうした、はるか。何があった?」

 子どものように泣き出した私を覗き込みながら、龍二さんが優しく尋ねる。

「みはるが……女の子と……」

「ミハル?」

 龍二さんは周りを一瞥して、もうだいぶ離れていたミハルの姿を捉える。

 私ってミハルの容姿のことを話したっけ。一瞬そう思ったけど、抱きすくめられて息を止める。

「このまま連れ去ろうか、はるか?」

 私はなかなか泣き止むことができなかった。足元から冷気が這い上がってくるようだったけど、根が生えたようにその場を動けなかった。

 おずおずと私が体を離すまで、ずいぶんと長い間、龍二さんは側にいて慰めてくれていた。







 三日後、控え室で着替えていた私に、鈴子ママが心配そうに尋ねてきた。

「顔色が悪いわよ。無理して来たの?」

 ミハルが女の子と歩いているのを目撃してから、眠れない日が続いていた。

 あの日、家に帰るとミハルは自分のベッドで眠っていた。でも私がミハルの姿を見間違えるとも思わなかった。

 帰ってもいいのよと言うママに一礼して、私は仕事に入った。

 まずは掃除だと腕まくりをしながら廊下に出たら、同じようにバケツを持った男の子が歩いてきた。

「……え」

 ミハルが黒服を着こんでそこに立っていたことに、私は思わず目を見開く。

「ど、どうしてここに」

「ゆーちゃんから聞いたんだ。あすちゃんがここでバイトしてるって」

 鈴子ママの娘である由衣ゆいは高校からの友達で、ミハルもよく知っている。しまったと私は心の中で焦った。

 ミハルはにっこりと笑って黒服の胸の辺りを叩く。

「楽しそうだから僕もやってみようと思って。あすちゃんと一緒にバイト、してみたかったし」

 うきうきしながら言うミハルに、私は慌てて止めに入る。

「駄目だ、ミハル。変な奴に目をつけられたらどうするんだ。男だからって安心できる世界じゃないんだぞ」

 こんなかわいいミハルが目をつけられないはずがない。私が顔をしかめると、ミハルはすねたように口をとがらせる。

「やだ。僕もやる」

「ミハル。頼むから」

「あすちゃん、僕に黙ってバイトしてたもんね。僕もあすちゃんの言うこと聞いてあげない」

 つんと顎を上げてミハルは意地悪く言い切った。

 ミハルは一度決めると頑固だ。私が困り果てると、ミハルはふいに私の顔を覗きこんでくる。

「大丈夫? 夕ご飯も残してたし、調子悪いんじゃない?」

 誰のせいだと思ってるんだと、私は眉を寄せた。

「ミハルを残して帰れるわけないだろ」

 私の方も意固地になって、ふんと鼻を鳴らす。

「あすちゃん。無理しちゃ駄目だってば」

「私のことなんてどっちでもいいだろ」

「何で怒ってるの? 僕がバイトするの、そんなに気に入らない?」

 ぐっと言葉につまって心で問いかける。

 ミハル。恋人ができたのか? もう私だけのかわいいミハルではいてくれないのか? そんな質問をぶつけたいけど、すんでのところで踏みとどまる。

「……何でもない」

 私は何か言おうとしたミハルから目を逸らして、逃げるように仕事に向かった。今はそうすることしかできなかった。

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