前編<龍二>2

 バイトに徐々に慣れてきた頃、その人は唐突にやって来た。

「安樹ちゃん。これ奥に」

「奥ですか。はい、気をつけます」

 その日、一番いい席の給仕を任されて、私は緊張しながらお盆を運んでいた。

 ノックをして扉を開いた途端、思わず一歩立ち止まった。

 鈴子ママがいて、売り上げトップの奈々さんと次点の栞さんが左右に控えているという、実に豪華な布陣だった。

 どんなお金持ちさんだろうと思ったものの、じろじろ見るのは失礼なので話の邪魔にならないように最小限の動きで飲み物を置いた。

 ところが一礼して踵を返そうとした私に、一言声がかかった。

「ボーイの君、名前は?」

 もう一人ボーイがいてくれればいいなと現実逃避気味に顔を上げたけど、当然そんな架空の人物は現れてくれるはずもなく。私は自分に問われたのだと認めるしかなかった。

 お客様はその迫力ある壮年の男性と、いくらか若いくらいの細身の男の人だった。どこかの社長さんとその秘書さんかなと思いながら、私はふと気づく。

 ボーイだからと油断して、源氏名を考えていなかった。しかし本名をさらすわけにもいかない。

「は、はるかです」

 ごめん、お母さん!

 とっさに母の名を口にした私に、秘書らしき男の人はぎょっとした顔をした。

 首を傾げた私に、社長さんらしき男性は微笑んだ。

 怖そうな目つきの人だけど、こんな風に柔らかく笑うこともできるんだと驚いていると、彼はソファーから背中を起こす。

 その動きは奇妙にゆっくりで何というか……そう、色っぽい感じだった。

 そこで全速力で逃げればよかったように思うのだが、まだこれから起こることを知らない私はちょこんとそこで待っていた。

 彼は手招きして、子どもをあやすように言う。

「はるか。おいで」

 異議あり! 心の中で盛大に唱えた。

 なんてもったいないことを。両手にこのクラブトップの花たちが咲き乱れてるのにボーイを呼んでどうするのか。あ、ひょっとして私のこと男だと思って? 待て待て、男ではるかはない。

「座るところがないな。出てくれ」

 えっ、本気で追い出す気ですか、奈々さんと栞さん。二人とも立たないで、ああ、ママまで腰を上げて。

「あ、いえ。私は入ったばかりのボーイです。下がらせて頂いても構いませんか」

「駄目だ」

 即答されてしまった上、声がすさまじく低くて迫力があった。

「でも私はお客様と話す機会がないもので、とてもお相手は務まらないかと」

「仕方ない。じゃあ鈴子だけ残ってくれ」

 妥協点でママだけ残ってもらえることになったものの、どうしたらいいかはさっぱりわからなかった。

 すれ違いざまに奈々さんが笑いながらウインクした。私は一緒に出て行きたいと思いながら、後ろで閉まる扉の音をうらめしく思う。

「わ」

 気づいたら目の前にその男性は立っていた。私の手を引いて自分の隣に座らせる。

「はるかは何を飲む?」

 お品書きを出されたので、私はママをうかがった。鈴子ママは微笑してそっと言葉を挟む。

「はるかちゃんは真面目なので、勤務中には飲まないんですよ」

「そうか。じゃあ食べ物ならいいんだな」

「い、いえ。お客様にお出しするものを頂くのは失礼なので」

 慌てて否定すると、彼はひょいとテーブルに手を伸ばす。

「私ははるかに食べてもらいたい。ほら」

 差し出されたのはくしに刺したイチゴで、私は目が点になる。

 実はいつも厨房で、イチゴおいしそうだなぁ、さすがママが選んでるだけあると感心していた。

――どうぞ。あーん。

 そしてそれを綺麗なお姉さんに食べさせてもらえるのだから、お客様ってうらやましいと思っていたりもした。

「あ、ありがとうございます」

 私がくしを受け取ろうとしても、彼は何かを待っているようにくしを手放そうとしない。

「口を開けろ」

 ……私がやられる側なんですか?

 軽いめまいを覚えながらも、口に押し付けられるイチゴに、これも従業員の使命だと思い切って口を開ける。

 イチゴは確かにおいしかった。でもこんな状況じゃなければもっとよく味わった。飲み込むように食べてしまったのがちょっと惜しかった。

「もう一つ」

「あの」

 全部食べさせるつもりの彼を留める意味をこめて、私は話題を逸らすことにした。

「お客様を、私は何とお呼びすればいいのでしょう?」

「そうだな。はるかにお客様としか呼ばれないのは悲しい」

 彼はくしを置いてくれた。でも、やったと心の中で大満足したのは一瞬だった。

「こういう者だ」

 渡された名刺に私は絶句する。

 それが企業に詳しくない私でも知っている超有名な大企業の社長だったらどうだろう。金融業から不動産業、ITといった幅広い分野を扱っているところだった。新聞でも見かけたことがある。

「こ、ここの社長さんですか」

「名前の方を見てもらいたいのだが」

「あ、はい! 浅井さんですね」

 名前は浅井龍二。一瞬、浅井の苗字に幼馴染の竜之介のことが浮かんだけど、珍しくない苗字だ。

「龍二だ」

「え、龍二さん……ですか?」

「そう」

 部活で名前呼びは慣れているが、社会人でそれは珍しい。龍二さんが嬉しそうに目元を和らげたので、まあそれでいいならと納得する。

「ここには何度か来ているが、はるかを見たのは初めてだ」

「そうですね。臨時で入ってますから」

「臨時? いつまで?」

「あと二週間くらいです」

「ふうん。二週間、ね……」

 龍二さんは再びイチゴに手を伸ばす。今度は自分で食べるのかなと思ったら、また私の口の前に差し出した。

「……あの、逆のような気がするのですが」

「はるかがやってくれるのならそれもいいな」

 秘書らしき男性は緊張した面持ちで声を上げる。

「か、会長」

 あれ、社長じゃなくて会長? いろんな会社を経営していらっしゃるのかな。

「何だ」

 龍二さんは冷ややかな目を向けた。うわ、一気に目の色が絶対零度まで冷えた。

「よろしいのですか?」

「はるかが食べさせてくれるというんだ。何か問題があるか?」

「いえ、何も」

 秘書らしい男性は驚愕の目で私を見ている。そうは言われても、ふざけてこられたのはこちらの御方で私は何もしていない。

「では、どうぞ」

 お姉さん方がやっているのを真似て、私は会長さんもとい龍二さんの口元にイチゴを運ぶ。

 それを彼は一口で口の中に入れて……ついでに私の指まで含んだ。

 ……うわぁ、指食べられたぁ!

 幸いなことに歯は立てられなかったけど、ぺろ、と舐められた。その時の表情が、心臓が止まるかと思うほどの色っぽさで、でも全然いやらしくないのが不思議だった。

「な、な、な……」

 私はくしを取り落として手を引っ込める。

「ああ。おいしそうなものが目の前を通ったのでつい」

 彼は悪びれずにさらっと答える。私はたぶん耳まで真っ赤になりながら震えていた。

「私が来る時は必ずはるかがつくように」

 そんな私の頭を抱いて撫でながら、彼は低く艶めいた声で言ってくる。

「な、私が何をしたというのでしょう」

「はるかが気に入った」

 彼は優しいような命令を私に下す。

「約束だぞ」

 結局どうしてだか全くわからないまま、この日から決まった時間になると龍二さんは現れることになったのだった。

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