後編<エンジェル>3

 安樹を背負ったまま、俺は夜の街を帰路についていた。

 まだ眠りの中にいる安樹は時折俺に擦り寄るように頬を動かす。俺はそれに頬を緩めて、起こさないようにゆっくりと歩みを進める。

「よかったんですか」

 路地裏から聞こえた声に、俺は足を止めたが顔は向けなかった。

「竜之介とは対立しない。姐さんとの約束だ」

 裏の世界に生きる住人とつながりを持つようになって、もう何年になるだろうか。

 その誘拐事件で俺たちを助けてくれた人は、今も俺たちを見守ってくれている。

「俺と安樹の未来のために」

 そっと安樹を背負い直して、俺は言う。

「……姐さんによろしく」

 安樹が天使のようだという微笑みを、俺は闇に送った。

 マンションに戻ると、俺は安樹をベッドに寝かせてその横に腰掛けた。前髪をかきあげると、安樹の瞼がぴくりと動く。

「起きた?」

 すぐにでもまた眠ってしまいそうな目で、安樹はぽやんと俺を見上げる。

 金髪より太陽の色に近い、優しい髪の色と琥珀に近い大きな瞳が俺を見る。鼻は高すぎず低すぎず、唇は桜色をしている。安樹は俺の万倍かわいい。

――お前たちの名前は、両方とも天使を由来にしてるんだよ。

 いつだったか、父がそう教えてくれたことがあった。ミハイルとエンジェル、それが父の国での俺たちの名前だ。

 俺は安樹の頭をなでながら彼女を諭す。

「無理して飲んじゃ駄目だよ。あすちゃん、そこまでお酒に強くないんだから」

「うん……」

 自分が天使だなんて笑ってしまうけど、安樹についてはその通りだと思う。容姿もだけど、安樹は心がまっさらで綺麗なのだ。

「リュウちゃん、今日は家に来なくていいって。僕がお願いしたら聞いてくれたよ」

「そうなんだ」

「もう。いくらリュウちゃんが喧嘩腰だからって、簡単に乗っちゃ駄目。リュウちゃんはあすちゃんが嫌いだから、ひどいことばっかり言う」

「うん、うん」

 俺の言うことを何でも信じてしまう。俺が刷り込んだおかげで、竜之介は単純に自分に悪意がある存在だと思っている。実際は、男社会で育ったから考え方が古風なだけで、あいつ自体は悪い奴じゃない。

「周りが何を言っても、リュウちゃんなんて気にしないんだよ」

「わかってる」

 今でも、俺のことは守ってやらなければいけない小さな存在だと信じて疑わない。

「なぁに?」

 くすっと安樹が笑ったので、俺は首を傾げる。

「ミハル、今日はおにいちゃんみたいだ」

 俺はそれに一瞬だけ言葉を失って、すぐに微笑み返す。

「うん。そうだよ。今だけ、僕がおにいちゃん」

 俺の方が先に生まれてきたから、父は俺を兄として届けている。俺も、安樹は妹という認識で生きてきた。

 普段は弱くかわいい弟のように振舞っているけれど、安樹が弱っているときは俺が彼女を守ってきた。

――あすちゃんは変じゃないよ。

 ねえ、安樹。君が知らないだけで、君の周りはとても複雑で奇妙な関係が広がってるよ。

 けど、何が普通かなんて誰にも決められやしないのだから。君が好きな普通の中で生きればいい。俺がそうできるように周りを作り上げてあげるから。

「おにいちゃん。キスして」

 酔いにまかせて、安樹が手を伸ばす。とろけるような笑みを浮かべている。

「はいはい」

 だけど、安樹は俺が好きで、俺も安樹が好き。これ以上純粋な関係はないはずだろう?

 俺は屈みこんで、俺の天使とキスを交わした。

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