後編<エンジェル>2

 五歳の頃、俺と安樹は家の前で遊んでいたところを、黒塗りの車に引っ張り込まれた。

 車の中で、安樹は俺を抱きしめて考えを巡らせているようだった。俺たちは言葉こそ交わさなかったけれど、一緒に逃げる準備をしていた。

「みはる、いくよ!」

 車の扉が開いた途端、安樹は俺の手を引いて走り出した。お互いの手を握りしめて、俺たちは植木の間を隠れながら出口を探した。

「どこだろう、ここ」

 俺たちが連れてこられた家は東屋や池がある日本家屋で、父親の国から来たばかりの俺たちには馴染みのない作りだった。

「おうちのげんかん、いっぱいひといる」

「うらぐち、いこ。おじいちゃんのいえもうらぐちあった」

 人の気配のない方向に少しずつ移動しながら、俺たちは小さな体をますます小さくしていた。

 足が疲れるくらいに歩いた。都内にこんな広い家があるのを不審に思うことは、当時の幼さでは無理だっただろう。

 日が暮れて灯篭だけが頼りになっても、俺たちは出口をみつけることができずにいた。

 春先とはいえ、日が落ちると暖かさは消え去っていた。

「みはる、さむい?」

 安樹は泣かずに、俺に上着を脱いで着せ掛けようとした。安樹は俺を守ろうと一生懸命で、俺の前で弱い自分を見せようとはしない。

「くっついていればさむくないよ」

 俺は安樹とぎゅっと肩を寄せ合うようにしてうずくまった。

「みはるはあすがまもってあげる」

 安樹は自分の名前を、舌足らずに「あす」と言っていた。その言い方を聞くとつい頬が緩んで、俺も同じ呼び方をしていた。

「だいじょうぶだからね」

 安樹は俺の手を握り締めて繰り返し呟いた。

「みはるがあんまりかわいいから、ゆーかいされちゃったんだよ。きっとすぐ、おうちにかえれる」

 きっとあんまり安樹がかわいいから誘拐されてしまったのだろう。何とかして家に帰ろうと、俺は思っていた。

「まだ見つからないのか! 子ども相手に何をやってる!」

 怒声が聞こえて、俺と安樹はびくりと肩を竦ませる。茂みにすっぽり収まるように目だけを覗かせて、二人で家の中をうかがう。

「申し訳ありません! 必ず連れてきますので!」

 和服姿の大柄な男が、ずっと年上らしい男たちを怒鳴っていた。

 和服の男は肩幅が広くて服の上からもわかるくらい引き締まった体つきをしていて、目つきが震え上がるくらいに怖かった。

 あの怖い人はきっと俺たちを食べてしまうんだ。そんなことを考えて俺たちは無意識に後ずさって、音を立ててしまった。

 和服の男はもう一人で、こちらに目を向けて庭に下りてきた。

 安樹は俺の手を引いて逃げ出そうとしたが、二人とも長く座っていたので足がもつれてしまう。

 一緒に転んでしまって、その間に追いつかれた。

 男は迷いなく安樹の方を抱き上げた。それは案外に優しい手つきだった。

「はるか」

 男の口から漏れた名前が、一瞬俺はわからなかった。眼光が鬼のように怖かったのに、安樹を見下ろす目は甘かった。

「う……わぁぁん!」

 だけど安樹は耐え切れなくなって泣き始める。安樹は本来ひどい人見知りで、俺の手を握っていないと知らない人と話すことすらできなかった。しかも怖そうな男に抱っこされてしまって、こらえていたものが溢れ出したらしかった。

「はるか、ああ、痛かったか。よしよし……いい子だから泣くな」

 転んですりむいた足を見て、男は安樹の頭を撫でながら宥める。

 俺はたっと走っていって、男の袖を力いっぱい引く。

「あすちゃんをかえせ!」

 こいつが誘拐の親玉だと思って、必死で食いついた。

 男はそんな子どもの力にはまるで動じることなく、安樹に対するのとはまるで違う、興味のなさそうな声で言った。

「お前が美晴か。はるかには全然似てないな」

 何度か男が口にした名前の正体を、俺はこの時ようやく気づいた。

遥花はるか……は、おかあさん」

 俺たち二人の母さんの名前をぼそりと呟くと、男は目を細めて頷く。

「俺は遥花の兄だ。お前たちのおじさんだよ」

 恐れを忘れたのは一瞬で、声を聞きつけたのか隣室から男たちが入ってきた。

「オヤジ、さっきの声は」

「ああ、みつかった。もう問題ない」

 和服の男は面倒そうに俺を示す。

「美晴は返してこい。傷はつけるなよ。遥花の子だ」

 まだ泣き止まない安樹の頭を撫でて、俺たちの伯父を名乗る男は安樹に笑いかける。

「遥花が確保できればいい」

 俺は直感で気づいた。この人は俺たちの母さんが好きなのだと。

「はなせ! あすちゃんといっしょにかえるんだ!」

 母さんにそっくりな安樹を自分のものにしようとしている。それは絶対に許してはいけない。

 男は淀みなく俺の言葉をはねのけた。

「遥花はここで暮らす。ここは遥花の家だからな」

「……おかあさんはもういない!」

 俺は声を張り上げて、きっと男を睨みつけた。

「お、おかあさんは……しんじゃったんだ……」

 本当はこのことを口にしたくなかったから、語尾が震えた。

 安樹が驚いて俺を見る。ぽたぽたっと、その目から涙が落ちる。

「みはる? おかあさんは、りょこうだよ?」

 俺は首を横に振って否定する。

「おかあさんはいくらまっても……かえってこない」

 安樹は母の死をわかっていなかった。まだ幼くて、誰も教えることができなかった。

 ごめんなと言って泣いた父を、安樹は見ていなかったのだから。

 相手にする必要もなかった子どもの言葉に、男が初めて怒りを見せた。

「連れて行け」 

 男の目に淀んだ光が宿る。俺は部下らしい男に抱えられて安樹から引き離される。

「はなせよ! おまえなんかおじさんじゃない! わるいひとだろ!」

 俺は安樹をじっとみつめて言う。

「あすちゃん、このひとわるいひとだよ! にげよう!」

 安樹のまんまるで澄んだ瞳がぴくりと動いた。

「みはる!」

 安樹は暴れ出して、一生懸命俺に向かって手を伸ばす。けど男の力には敵わなくて、簡単に腕の中に封じ込められてしまう。

「やだ、やだやだ! みはるとかえる!」

 安樹はそれでもじたばた暴れる。

 俺の片割れは俺の言うことを何でも信じる。だから一度俺が何か告げれば、安樹は絶対にそれに疑いを持ったりしない。

「あんじゅ!」

 俺は抱えられたまま部屋の外に追いやられようとしていた。声を張り上げて安樹に伝える。

「わるいやつは、みはるがぜんぶたおしてやるから! ぜったいむかえにいくから!」

 俺の言葉に、安樹は何の迷いもなく答えた。

「うん! いっしょにかえる!」

 それが今まで安樹に守られてばかりだった俺が、初めて安樹を守る決意をした瞬間だった。

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