後編<エンジェル>1
安樹が突っ伏してしばらくの後、側に屈みこんで耳を澄ませた。
聞こえてくるすやすやとした寝息に、俺はくすっと笑う。
「寝ちゃったか」
安樹は確かに普通の大学生よりは酒に強いが、すぐ寝てしまうのが弱点だ。
頬を朱に染めて無防備な姿をさらしている安樹は、キスしたくなるくらいかわいい。
「少し寝かせてくるね。隣の部屋借りていい?」
「あ、いいよ」
「寝顔かわいいね、春日さん」
バスケ部が使っていた個室に運ぼうとすると、竜之介が前に立ちふさがった。
「運ぶ。貸せ、美晴」
呆れたようにため息をついた。
竜之介の耳元に口を近づけて、皆に聞こえないように囁く。
「……またその腕、折られたいか?」
竜之介の肩を押しやって道を開くと、安樹を畳に寝かせて襟元を緩める。おしぼりで顔を拭うと、安樹はくすぐったそうに口元をむずむずさせた。
「また無茶して。しょうがないな、安樹は」
金よりも淡い薄茶の髪を手に絡ませる。しっとりとしていて手に甘えるそれを、誰にも触らせたくない。
竜之介がすだれをかきあげて、後から入って来るなり言う。
「俺の家に来てもらう。勝負は俺の勝ちだからな」
俺はそれに背中を向けたまま、片眉を上げて薄く笑った。
「すんません、ここでいいんですか?」
ちょうど店員が入ってきた。俺が振り向くと、その盆の上にジョッキが三つ乗っていた。
俺はジョッキを一つ受け取ると、こくこくとそれを飲んだ。
「うわ……」
店員が引いたのもそのはずで、これはお猪口でちょっとずつ飲む日本酒だ。
これ一つで安樹が飲んだ分くらいはある。俺は薄笑いのまま竜之介を見上げて言った。
「さ、これでイーブンだ。勝負を再開しようか」
「……お前と飲む馬鹿はいない」
竜之介は難しい顔をして早々にさじを投げる。
「お前は底なしだ。父親にそっくりだ」
「受けろよ。俺の気が収まらないんだ」
俺は竜之介の胸倉を掴んで、にこにこと笑いながら顔を寄せる。
「よくも安樹に酒なんて飲ましてくれたな。いつからお前は俺に断りなく安樹を家に呼べるようになったんだ?」
腸が煮えくり返るような思いを抑えながら、俺は竜之介の襟を締め上げる。
「俺は言ったよな? 俺に何か一つでも勝てるまでは、安樹に近寄るなって。お前、勝てたんだっけか?」
「まだだ。だが」
「今日勝つと言いたいんだな? ならジョッキを取れ、リュウ」
竜之介は沈黙して、ため息をついて首を横に振った。
俺はジョッキを置いて安樹を背負う。
俺は竜之介とほとんど背が変わらない。安樹にはまだ小さくてかわいいように見えているのかもしれないが、俺の体格は女性とは違う。
店の外に出ても竜之介は後をついてきた。竜之介は苦いような声で言う。
「美晴、お前がどう邪魔をしても、安樹には一度実家に来てもらう必要があるんだ」
俺はそれを無視する素振りで歩きながら、不都合な事実を聞いていた。
「……このままじゃ、親父が動くことになる」
夜の繁華街は禍々しいネオンが眩しい。その中で背中に感じる安樹の温もりだけが優しい。
ふいに柄の悪い団体が前から近づいてきた。道を占領するように広がって歩いてくるので、俺はその顔ぶれを確認してわざとよけずに真っ直ぐ進む。
「痛ぇぞ」
ぶつかったところで、真ん中のスキンヘッドの男が低い声を出した。
俺はそれを見下ろして呟く。
「今安樹に触ったな?」
俺は道路脇に安樹をそっと下ろして、男たちに向き直る。
別段の間は持たず、おもむろに目の前の男の鳩尾に蹴りを叩き込んだ。
「こいつ!」
不意をつかれて男は吹き飛ばされる。男たちから伸びる手を避けると、近くにいた方の男を拳の裏で払って、ついでに後ろの奴の急所を蹴り上げた。
「やめろ!」
竜之介から制止の声がかかる。最初のスキンヘッドの男が竜之介の顔を見て血相を変える。
「……あ。ま、待て、おい!」
男は近くの奴の頭を殴って黙らせると、手で頭を下げさせながら竜之介に四十五度の礼を取る。
「すみません! お見苦しいところを」
「そうだな。家の者の躾くらいちゃんとしとけよ、リュウ」
俺の言い様に男が目を怒らせたが、竜之介はすぐに言葉を重ねる。
「春日の双子だ。従兄弟の」
さっと男たちの顔から血の気が引く。
恐る恐るといった様子で、男の一人が口を開く。
「じゃあそっちで寝てるのは、坊ちゃんの許婚の安樹お嬢さんですか」
その言葉に、俺の胸の奥に火が灯った。
男の腕を取って捻り上げながら、俺は顔を寄せる。
「誰が許婚だ。安樹はどこにもいかない」
俺は低い声で告げる。
「……安樹には、一生汚いものに関わらせるつもりはないんだよ」
蘇る幼い頃の誓いとともに、俺は男たちを見据えた。
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