第9話 虫籠

「失礼します」

「……失礼します」


 扉を開いて入った部屋の中は、真っ白で清潔感がある室内だ。

 大体察せるだろうが、保健室に来ている。さて、なぜここに来たのかというと……


「あの、先輩。別に私は大丈夫ですから……」

「駄目よ。先生、いるかしら?」

「あの」

「先生、いるんでしょう?」


 大きな声で保健室の中で先生を呼ぶ先輩に、申し訳無さを感じどうしてこうなったのかと経緯を思い返す。

 ――文学部の部室には、古書の山がある。当然ながら古書というのは劣化しやすい。保存状態には気を使っているらしいのだが、それでも本という物自体が手を入れなければ徐々に劣化していくものだ。特に、湿気などは気を使ってもどうしようもない面がある。

 だから本の状態を保つために天日に晒す虫干しというものがある。秋は空気が乾燥しているから虫干しに向いている季節らしい。なので、特別に天気のいい休みの日を選んで休日の部活動ということで本の虫干しをするという話になっていた。

 普段は先輩に部活の雑用をさせている分、私が頑張ろうと思い張り切っていたのだが……本の重量を見誤って転けてしまい、足をくじいたのだ。古書というのは思ったよりも重い本もあるということを失念していた。そして、今まで見たことのない驚いた表情と真剣な表情で私を必死に肩で支えて保健室まで連れてきてくれたのだ。

 ……まあ、支えるというか、松葉杖代わりというかじゃれつく子供というか。それに関しては触れないでおこう。先輩の名誉のためにも。

 しかし、大げさ過ぎると思って弱気になってしまう。


「あの、先輩。別に見てもらうほど大したことは……ちょっとびっくりしたくらいですから」

「そういってるけど、歩き方が変よ? 捻挫でも怪我は怖いから、ちゃんと見てもらうの。先生、いるんでしょう?」

「あの、呼んでも出てこないなら……」


 医者にかかることもない健康優良児なので、こうして保健室を見ることなど入学した時の校舎案内くらいだ。なので、余計に気後れしてしまう。そんな図体で保健室を利用するなと追い出されないかと杞憂を感じてしまう。

 というか、休みなので居ないのでは……と思っていると、保健室に設置しているベッドの片方がモゾモゾと動いた。

 出てきたのは……その、なんというか。本当に寝起きの女の人だった。ボサボサの髪に、眠たげな目をしている。


「んん……ああ、なんだ? おまえか」

「水月先生、お昼寝? 怪我人よ」

「ふわぁ……なんで文学部が怪我すんだよ……」


 ……水月先生? この人が? あの、向日葵の話をしたという人だったはずだ。

 ボサボサの髪に、野暮ったい眼鏡をしている。しかし、その目はとても鋭く、目の下の酷いクマと合わせてなんとも言えない威圧感を出している。

 失礼ながら保健室の先生ではなく、女を捨てた体育教師と言われたほうが納得ができそうだ。


「本を持った時にバランスを崩して足を挫いたの。ほら、見て」


 しかし、先輩は物怖じせずにその先生にそう言って私を差し出す。


「んー? 見覚えねえな……ああ、そういえばデカイ新入生がいるって聞いたな。分かった。ほら、さっさと足見せろ」

「え、あ、はい」


 ぶっきらぼうな言葉遣いに思わず反射的に足を差し出す。差し出してから、閉まったと思い痛みが来ると思って思わず目を瞑る。

 ……しかし、想像していたような乱暴な手付きではなく、まるでお姫様でも相手しているかのように丁寧で女性的な優しい手付きで触診をされる。ギャップに思わず飛び上がりそうになった。


「おい、おとなしくしろ……んー、ちょっと熱を持ってるな。割と派手にくじいたな? 背が高いと関節に負担がかかりやすいんだから気をつけろよ」

「わ、わかりました」

「まあ、足首を固定して……捻挫なら様子見だな。重度の捻挫じゃなさそうだが、無理して動かしたらひどくなる可能性もある。もし、夜になっても痛みが引かないなら病院にいけよ」

「は、はい」


 そう言って先生は魔法のように手際よく、ガチッと足首を包帯で固定をする。

 包帯なんて大げさな……といって口を挟む暇もなく、あっという間に治療が終わってしまった。自分の足が固まってしまう不思議な感覚に、思わずじっくり見てみる。

 なんとなく、足を動かそうとすると頭を軽く叩かれる。


「アホか。なんでせっかく固定したのに動かすんだよ。ちゃんと明日まで動かさないようにしとけ。熱を持ってんだから、炎症起こすぞ」

「痛いです……」

「そうだな。それ以上痛い思いをしたいなら好きに足を動かせばいいぞ。今度は止めねえから」

「……分かりました。大人しくします」


 ……乱暴だけど、優しい先生らしい。いや、普通に優しいほうがいいのだけども。

 そう思いながら立ち上がる。痛みは感じない。こういう治療を受けた経験はないが、それでもしっかりとしたものだと思う。


「どうかしら、先生?」

「まあ、固定はした。熱は多少あるが本人の様子を見るに重症ってほどじゃないな。安静にしておけば多分問題はないぞ」

「そう、ありがとうございます」

「仕事だからな」


 そう言ってベッドに潜り込もうとする先生を、先輩は引きずり出す。


「仕事なら、サボったら駄目じゃない?」

「眠いんだよ……」


 何故か気安い関係のような二人を見ているのも居たたまれず、周囲を見渡す。

 ……先程も言ったが保健室というものに縁遠い人生を送ってきた。なので、比べる対象がないのだが……なんというかこの保健室は――


「ふふ、殺風景でしょう? この保健室」

「えっと、その……スッキリしてます」

「殺風景で華がないわよね」


 先輩がそう笑顔で話しかけてくる。

 オブラートに包んでいるのだが、どうやら遠慮しなくていいということらしい。


「水月先生は、花が嫌いだから飾らなかったら想像以上に簡素になったの。ほら、こういう場所って花が置いてあるものでしょう?」

「ああ、なるほど。白一色だから殺風景に感じるんですね」

「好き放題言うなお前ら……」


 なるほど。イメージでしか知らないが確かにそういう彩りが少ないのだ。

 そう言われて見渡す。張り紙もなく、花もない。だが、そういう意識で見ると余計なものがないから機能的にも見える。


「別にいいだろ。ここに居るのは基本的にあたしなんだ」

「水月先生。そう言うけども体調を悪くして来る生徒がいるんだからもうちょっと気を紛らわすものも居るでしょ?」

「はぁ? 体調悪いなら寝てろよ」

「そういう態度だと、また教頭先生に怒られるわよ」

「いいんだよ。あの婆さんは昔から口煩いんだし」

「そう陰口を言ってると――」

「あの……先輩と先生って、随分と仲がいいですね」


 心に思っていたことを、つい口に出してしまった。

 二人にキョトンとした表情で見られる。ああ、なぜそんな自制心のないことをしたのだろうか。羞恥で死にそうだ。

 ただ、保健室と先輩を結びつけると病弱とか、そういう方面に考えてしまうのだ。


「……おまえ、説明してないのか?」

「……忘れてたかしら?」

「え? なんのことですか?」

「忘れてたなお前……あたしは文学部の顧問だぞ?」


 ……え?


「え?」

「あ、本当に教えるのを忘れてたみたい。ごめんなさい」

「お前なぁ……まあいい。あたしが文学部の顧問の水月だ。まあ、他にやるやつが居ないから押し付けられたお飾り顧問だけどな」

「ええっ!?」


 ……顧問の先生、実在したのか。というか、保健室の先生が顧問というのも変な話なせいで理解の外だ。

 ボケっとしている私を見て、先輩が笑い始める。


「ふっ……ふふ……! もう、驚きすぎよ。そんなポカーンってした顔、初めて見ちゃった……ふふっ」

「いや、こう……なんというか……笑わないでくださいよ」

「ご、ごめんなさいね……はぁ。あんまりにもおかしくて」


 予想外に予想外を重ねられて無防備になってしまったというか。どうやらツボだったらしく、未だに笑いをこらえている。

 少しして、ようやく先輩は笑いが収まったのか立ち上がる。


「はぁ……ん、よし。それじゃあ、あなたはしばらくそこでゆっくりしててね。私が本の虫干しの続きをしてくるから」

「えっ、あの――」

「駄目。手伝いなんて考えずに大人しくしてるの。水月先生、見張りをしててね」

「あー、分かった分かった」

「じゃあ、行ってくるわ」


 反論する間もなく、保健室を出ていく先輩。

 ――沈黙が流れる。気まずい雰囲気の中で、水月先生は立ち上がって何かを書いている。


「……えっと、その」

「なんだ?」


 こちらを見ずにぶっきらぼうに聞いてくる……だというのに不思議と、嫌な感じはしない。

 なんというか、私を気遣っているような雰囲気があるからだろうか?


「……本当に顧問の先生なんですよね」

「当たり前だろ。偽物なんてそれこそ意味ねえだろ。というか入部届を出した時に……ああ、そういや持ってきたのはあいつか」

「入部の手続きは先輩がしてくれましたね……どうして、保健室の先生が顧問を?」


 まず最初の疑問だった。別に他にも色々とあるのだが……そこがなんとなく気になった。

 すると、先生は振り向いて笑みを浮かべる。


「――そりゃ、誰もやりたがらないからさ。部員が失踪する部活の顧問なんてな」



 ――部員が失踪する?


「あの、それはどういうことですか?」

「ん? 文字通りだよ。ここ数年で、毎年のように文学部の部員は失踪してる。そんで、失踪理由は不明。知らなかったか?」

「……知りません」


 そんなことは聞いた覚えがない。

 ……いや、それだとおかしい。


「いや、でも失踪してないOBの先輩を見ましたよ」

「はは、そりゃあそうだ。部員が全員失踪するなんてことはない。でも、絶対に一人は居なくなる。まるで”なにか”に呼ばれていったようにある日ふと……な」


 先生の表情は、楽しそうだった。無知な人間に残酷な真実を教えて喜ぶ嗜虐的な表情を浮かべて。

 ――入部した日のことを思い出す。あの、怪異を。私を違うと言った”なにか”を。


「こんな変な部活が潰れないのが不思議だろ? 文学部はな、潰れないんじゃない。潰せないんだ。あの小さな部室に収めている厄が、飛び出るのが怖くてな」

「厄って……」

「厄さ。文学部の顧問は過去にも何人も担当したが、数人は教師すら辞めていった。怪奇現象が起きたとか。変なものを見たとか精神を病んでな」


 怪奇現象と言われて、思い出す。私に継承された話。様々な怪奇現象。

 それは、たしかにまともであれば精神に変調をきたしてもおかしくないだろう。


「なあ。覚えはないか? この部活には本物が出る。あたしの向日葵の話ですら、話の種の一つにしかならないような不気味な話が。本物の話が」

「覚えは……」


 ある。水月先生の話も、一つの怪異話でしかなかった。

 それ以上の目の前に迫るような怪奇が。そして、先輩の話す新しい話は尽きることはなかった。


「だから潰せない。あの小さな箱の中に、閉じ込めておきたいのさ。危ない虫を閉じ込めた虫籠が邪魔だからって、開けて虫を放つバカはいないだろ?」

「……」

「そんで、時折あいつみたいなああいうのが来るんだよな。いつの時代にも、いつか消えていく本物が」

「消える本物……?」


 先輩を指し示した言葉だと気づいて、聞き返す。


「ああ。文学部の噂を聞いても入る変わり者ですら、たいていは一年も経たずに辞めていく。でもな、それでも一人は残るんだよ。何かに魅入られたように。でも、あいつは違う。魅入られた側じゃない。あいつは魅入られる側だよ。あれは本物だ。光に寄せられたほうじゃない。あれは光の方さ」


 聞いている私は、徐々に体が痺れたように動かなくなる。

 それはすべて、先輩の正鵠を射た言葉で。徐々に理解してしまう。


「だから、次にあいつが……いや、あいつが消えるんじゃなくて……あたしか、もしかしたらお前が……」


 その言葉に、目の前が暗くなるような感覚を覚える。それは、恐怖か。それとも別の感情か。

 音が遠くなり、呼吸が早くなる。

 ああ、私は――


「――なんてな」

「えっ?」


 いきなり、おどけた声を出す水月先生。

 あまりにも、突然で。座っていたのに、転けそうになる。


「冗談だよ。冗談。毎年失踪するわけがないだろ。そんなことになったら警察沙汰だ」

「……あの」

「そう怒るなって。いや、本当に悪かった。どうせ暇だろうからな。あたしも昔は文学部だったんだ。OBってやつだな。だから、退屈を紛らわせるためにこういう話をしたってわけだ。まあ、不評だったけどな。変に真に迫り過ぎって」


 そう言って笑顔を見せる水月先生。

 ――先程の真剣な空気は霧散して、急に世界が近くなったように外から聞こえてくる生徒の声などが大きくなる。

 そこまで、私は集中していたのか。

 ああ、でも。


「……先生」

「なんだ? いや、いきなり言い出して悪かったよ。あたしは昔から入り方も下手だって言われるんだよな。分かりやすい前置きをしてからって――」

「――どこまでが、本当ですか?」


 その言葉に、先生の笑顔はふっと消える。

 それは、冗談で済ませようとしていた優しさを無為にする愚か者を見る冷たい視線だ。


「――さあな」


 冷たく突き放した言葉。

 だが、否定する言葉ではなかった。


「そろそろ行ってもいいぞ。だいぶ時間は経ったからな。文句は言われないだろ」

「えっ……」


 時計を見る。自分が思っていた倍以上の時間が経過していた。

 もう先輩は作業を終わらせて暇をしてるかもしれない。そう思って、慌てて立ち上がろうとして怒られる。


「おい、もっとゆっくり立ち上がれ。捻挫してんだから」

「――え、あの……すいません」


 ……なんというか、慌てさせた人に怒られるのは理不尽だ。しかし、退屈で気まずいはずの時間はなく、そこには先輩と一緒に過ごしたような不気味な後味が残っていた。

 ただ――


「先生」

「ん? なんだ」

「……治療してくれてありがとうございます」

「仕事だっての」


 そういって、ボサボサの髪を掻く。この人は女性の自覚はあるんだろうかと思いつつ、人のことは言えないかと自戒する。

 そして、私は聞く。


「先輩は――本物ですか?」


 それを確認するために聞く。

 先生の答えは――


「――さっさと行け」

「はい。失礼します」


 無言で、否定も肯定もせず行けという一言だった。

 頭を下げて、保健室をでていく。


「……寒い」


 ふと、肌寒さを感じる。

 冬服だというのに、ふとした瞬間に体が寒さを感じる程に気温が低くなっていたのだろう。


「もう冬かぁ」


 ああ、冬が来る。

 ふと思った。


(夏は出会いの季節。いい出会いも、悪い出会いも引っくるめて。そして冬は――)


 別れの季節。冬は、何かを失うという。

 早足に部室棟に急ぐ。そこには虫干しで本を並べて満足そうな顔をする先輩がいて。


「先輩」

「あら、もういいの?」

「はい」


 柔らかな笑み。私の――な笑み。


「先輩、手伝うことはありますか?」

「……そうね、なら……話に付き合ってもらえるかしら? 実は、虫干しをしてるから本が読めないの」


 困ったような表情の先輩に思わず私は笑ってしまう。


「もう、笑わないでほしいわ」

「す、すいません……あはは!」


 スネた表情の先輩に謝る。


「まあ、最初に私も笑ったからおあいこね」

「ふぅ……そうですね、おあいこです」


 そう言って、先輩の不気味で奇妙で……そして、どうしても離れがたくなる話を聞く。

 変わらない時間。冷たい別れの季節だとしても、まだ私と先輩の別れは遠いだろう。そう思わせるような温かい時間。

 そして――



 冬、先輩が居なくなった。

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