第2話 猫
授業もテストも終わり、私は迷うこと無く校舎から離れた部室棟へと足を運んだ。
誰にも邪魔されること無く、読書を出来る時間というのは至福だ。本を読むという行為に、余分なものがあるのはとても煩わしい。その点、読書の邪魔にならないどころか楽しい話をしてくれる先輩が居てくれる部室は私にとっては天国と言っても差し支えがないだろう。
「こんにちわ」
「あら、こんにちわ」
文学部の部室に入ると、笑顔で先輩は出迎えてくれる。
毎回のように、先輩は私よりも早くこの部室の中に居て本を読んでいる。一体どうやって来ているのだろうか? 不思議に思うが、そういうものだと納得する。別に競い合っているわけではないし。
小さくて、どこか儚い印象を受けるが桜を掘り起こしたりなど、意外とアクティブな人だ。背だけは大きく育ったのにインドアな私とはある意味対極だ。
「……何を読んでるんですか?」
「『吾輩は猫である』を読んでるの」
珍しい。いや、夏目漱石の古典的な名作だ。別にそれ自体読んでいることは悪いわけではない。
ただ、いつも見たこともないような古書を読んでいる先輩がわざわざ有名な本を読んでいるのが、なんとなく不思議だった。
「読んだことないんですか? 先輩は」
「いいえ。何度か読んでるんだけどね。たまにこうやって読み返すの」
「なるほど」
その気持ちはとてもわかる。
面白い本や、好きな作品は何度も読み直したりふとした瞬間にもう一度読んだりするものだ。
そうすることで、新しい発見があったり自分の中で新しい物が見えたりする。
「やっぱり見返してみるのは楽しいものよ? それで、貴方は今日は何を読むの?」
「今日は……そういえば、考えてませんでした」
今日は特に決めてなかった。文学部においてある大きな本棚を見るがいまいちピンとくるタイトルもない。
さて、どうするべきだろうか。
「ふふっ。読む本がないのなら、ちょうど思い出したから猫の話でもしましょうか?」
何も決まらないことを見透かされたらしい。
照れくさく、頬を掻くと先輩は読んでいた本を畳んで私の方をみる。
そして、自分の耳を先輩は触りながら話を始める。
「――この学校にはね、猫がいるの。知ってるかしら?」
「学校の猫……ですか」
近くにある椅子を引いて座り、聞く準備をする。
考えてみるが……まず、大前提としてだ。
「この学校ってペットは禁止ですよね?」
「ええ、そうよ。でも、禁止と言っても外から来る猫は追い払うのも難しいでしょう?」
「ああ、なるほど。外から来る名物猫みたいなものですか。でも、私は見たことはな……あ、いえ。なんでも無いです」
「?」
可愛らしく小首をかしげる先輩に愛想笑いを返す。
見たことがないのも当然だろう。私は基本的に部室と教室と食堂以外で学校を散策する事がない。基本的に行動範囲が狭い人間なのだ。
だから、有名な話……それこそ、桜の木があるなどは知っていても小さい噂なんてものは知らない。まあ、ある意味先輩の話が新鮮に聴けるメリットもあるが。
「続きをどうぞ」
「そう? それで、猫が居る話に関しては学校も黙認しているの。野良猫に噛まれたとか、怪我をしたなら問題になるけどまだそれも起こってないから」
「それは悠長な気がしますけど……野良猫って凶暴でしょうし」
「ふふ、猫は嫌い?」
そう言われてみると、たしかに猫はあまり好きではない。
可愛らしい見た目はしていると思うし、媚びるなら邪険にしない程度には嫌いじゃないが……
「……猫自体はそんなに好きじゃないですね。気まぐれで何を考えてるかわからないんで」
「そうなのね。猫が好きって言う子が多いから貴方もそうかと思っちゃった。まあ、先生方も大変よね。だって、わざわざ何も被害を出してない猫を追い出すようにお達ししたら生徒から猛反発を食らうもの。だから、何も被害がないなら何も言われないの」
「まあ、たしかに……その猫って人馴れしてるんですか?」
「ええ。触れ合った子の話だと、手を差し出せば撫でさせてくれるし、何をしなくても膝に座ったりして人懐っこいらしいわよ」
「へえ……」
どこかの飼い猫なのだろうか?
なるほど。それなら愛される理由もわかる。しかし……先輩がただの猫の話をするだろうか?
それに気づいた私に、ニコリを意地の悪い笑みを浮かべる。
「それでね、この学校に来る猫なんだけど……どういう猫だと思う? 血統種? 雑種? 大きい? 小さい? 子猫? 成猫?」
「え? ……普通に考えると、人馴れしてるなら飼い猫じゃないんですか。放し飼いなら、雑種だと思います。血統書付きの猫をわざわざ外に自由にさせる人も少ないでしょうし。体はそこそこ大きいんじゃないですか? 餌を渡されてやってくるならブクブク太ってそうです」
「なるほど……ふふ、思った以上にしっかりと推察されちゃった」
「聞かれたので真剣に考えようかと……」
どういう質問なのだろうか? 心理テストのようだが、先輩がそんな質問を急にするとは思えない。
「実はね、誰に聞いてもどんな猫だったのかわからないの」
「え?」
「白い猫、黒い猫、三毛猫、大きい猫、小さい猫。怪我をしてた猫。怪我をしていなかった猫……誰に聞いても、同じ猫だったって答えが帰ってこないの」
「えっと……それは?」
「どう思う?」
どう思うと聞かれて考えてみるが……
ただ、違う猫がやってきているだけなのではないだろうか? 猫の集会場というものもあるらしい。
「ただ、ここが猫の集会場みたいになってるだけじゃ……」
「その猫がね? どんな子も人馴れをして膝に座ったりして人懐っこいの」
「……全部?」
……そんなに多種多様な猫が?
個体差はあるだろうが……そこまで、人に慣れている猫しか来ない意味もわからない。
「それともう一つだけ……家猫らしい子はいないっていうのが共通認識。ボロボロの、野良ばっかり」
「……野良猫がやってきて、ここでは大人しく人間に可愛がられているんですか?」
「ええ。そう」
それは、たしかに変だ。
「そして最後に……」
「最後に?」
「同じ猫を見たって子はいないの。一期一会、一度出会った猫とはそれっきりなんだって」
「……一体何なんですか、それは?」
意味がわからないし……はっきり言えば、不気味だ。
「そうね……私の予想だけど、いいかしら?」
「はい」
「2つあるのだけど、一つは……この学校のどこかに、野良猫の死に場所がある可能性」
「死に場所?」
……物騒な話かと思ったが、そういう語り口ではない。
「象の墓場があるって話は聞いたことはあるかしら?」
「……ああ、確か死期の近い象はどこかに集まってそこで最後を迎えるって話ですよね?」
「ええ。あれは創作だけど、素敵な話よね」
笑顔でいうが、素敵だろうか?
とはいえ、先輩のそういう感性に余計な茶々はいれない。
「この学校のどこかに、野良猫が最後を迎える場所がある。だから、ここには死期の近い野良猫が集まってきて最後を迎えるっていう説ね。死期が近いからこそ、穏やかで多少触れても怒ったりはしない……って考えると納得できないかしら?」
「……まあ、たしかに猫は死に様を見せないといいますからね。それだとすると、たしかに不気味ですけど納得はできます」
この学校には、猫の死に場所がある。そこで最後を穏やかに終えるのだろう。
まあ、死ぬ前くらいは触るくらいは許してやろうという気分になるのかもしれない。
「――それが、綺麗な推測」
「……綺麗な推測?」
「ええ。もう一つだけ、考えてることがあるの」
笑顔でいう先輩に、ふと嫌な予感がする。
「不思議なことにね? 猫を可愛がったっていう噂はあるし触れ合った子もいるけど……写真もなければ、複数人でみたって話も聞かないの」
「え?」
「不思議じゃないかしら? この噂の猫はね、見たことのある人の中でしか共有されてないの。最初に言ったけど、追い出す話にならないのもそれが原因。誰か一人の時にしか現れない猫だから、確認の取りようがないの」
「確かにそれは変ですね……」
一人っきりのときにしか姿を見せない猫の噂。
つまり、それは誰かの話の中にしか存在しない猫。見た人はいるのに、誰も同じものを見たことのない猫。
「みんなで嘘をついている……とかですか?」
「そうね、それも面白そうね。そういう形のない物の噂を作るっていうの。やってみようかしら?」
「止めたほうがいいと思いますよ……先輩は、どういう考えですか?」
静かな部室で、私は自分でも驚く程に硬い声で尋ねる。
優しい笑みを浮かべる先輩は、答える。
「――昔からね、名前をつけるってとっても大切なことなの」
「名前……?」
「ええ。名前のないものは怖いから、誰だって分からないものは怖い。学校で、何かが居た。それが分からず、その子は怖くないように猫だと思って名前を呼んだ。だから、それはそう名付けられて猫になったのかもしれないって思うの。猫じゃない何かが、猫に」
「……でも、それは……」
「ええ。猫と言う名前の私達の知らない何かね。形のないものが、形を得るのはいつだって名前をつけられたとき」
……猫と呼ばれたから、ソレは猫になった。
なら、最初は何だったのだろう? 猫と呼ばれたそれは、その人が見たい猫の姿になる。そして、猫のふりをする。ただ、それだけの生き物。なんとも……不気味だ。
「貴方はどっちの話のほうが好き?」
「好きか嫌いかでいうなら最初の方が、まだましですかね……それで、先輩はどっちが答えだと思ってますか?」
「――さあ? 考えてなかったわ」
「えっ」
そういうと悪戯を成功させたような顔になる。
「だって、私。猫は嫌いなの。どうしても好きになれないから、答えなんてどっちでも良かったの。だから、この話はここで終わり。ふふ、貴方の反応が見たいからした話だったのよ」
「そんな意地悪な……というか、猫は嫌いなんですか」
「そうなの。なんだか、気まぐれすぎて疲れちゃうの。ふふ、猫が苦手同士で同じね」
お揃いだと嬉しそうにしている先輩。なんだか、腑に落ちない話を聞かされたけども……そんな先輩を見せられたら許してしまうしかない。
その日は、そのまま猫の話題など忘れて新しく先輩が読んだ本を貸してもらうことになった。
――後日談だが、私も猫の鳴き声を聞いた。
部室の中で、先輩も居ない時に小さな鳴き声が聞こえた。なんとなく猫の鳴き声だと思ったが、本を読んでいる最中に邪魔をされるのが嫌いな私は無視をする。
しつこい程に聞こえる鳴き声。思わず、私の口をついた悪態。
「……もう、うるさい!」
すると、ピタリと鳴き声は止まる。これでゆっくり読めると本を読み続け……そして本を読み終わってから、ふと気づいた。
ここは部室棟の二階なのに、どこから声が聞こえてきたんだろう? 周囲を見渡す。窓の外を確認する。猫は居ない。そんなスペースもない。
そして、ふと思う。あれは猫の鳴き声だったのだろうか? 猫の鳴き声に確かに聞こえた。だが、どういう音で、どういう声で……どこから聞こえた鳴き声だったのだろう? あれを猫と呼べば、猫になったのだろうか?
ふと、先輩の持っていた本のタイトルを思いだす。
『吾輩は猫である』
猫と呼ばれたから猫になったなにか。
本当の名前は、まだない。
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