第一話 記憶が飛んだよ。

 店の鍵を閉めて俺は裏の階段から二階の部屋へ戻る。

 うわっ。

 暑いわ。

 エアコン入れるの忘れてるし。

 とりあえず窓を開ける。

 駄目だ、外も暑いんだっけ……。

 とにかく窓を全開。

 沖縄は基本風が強い地域なんだが、今日はそれほどでもない。

 仕方なく、開けた窓を全部閉めてエアコンを十六度に設定。

 スイッチを入れる。

 なまぬるーい風がくる。

 諦めて冷蔵庫を開けた。

 このまま頭を突っ込みたくなるくらいに涼しい。

 そこをぐっと我慢して、オリオンドラフト三百五十ミリ缶を取り出す。

 『プシッ』っと音を立てて、ステイオンタブを起す。

 そのまま半分くらいまで胃袋に流し込む。

「うまー」

 おっといけねぇ。

 年取ると独り言が多くなって駄目だ。

 これだけ汗をかいていると、ビールくらいじゃ酔えません。

 余計に汗が噴き出してくるのを、部屋が冷えるまで我慢する。

 俺は実はビールがあまり好きじゃない。

 ひと口目以上は味が同じに感じるからだ。

 それでも暑いときはひと口目は旨い。

 残りを流し込み、冷蔵庫からもうひと缶取り出して開ける。

 三分の一ほど飲んだら自然と声が出てくる。

「あー、お天道様に申し訳ねぇってこういうことなんだな」

 誰が聞いているわけでもない。

 けれど言わないわけにわいかないくらいの、ちょっとした罪悪感。

 これも暑い亜熱帯の沖縄。

 そんな夏での楽しみ方でもある。


 ▼


 俺は高校の修学旅行で初めて沖縄に来た。

 男子校だったせいもあり、初めての沖縄のビーチは泊まったホテルのプライベートビーチだった。

 それこそ『どきっ。男だらけのプライベートビーチ』。

 誰が楽しくて泳ぐもんか。

 俺はこっそり持ってきたパックロッド(鞄に入るくらいに短くたためる釣り竿)でルアーを投げて遊んでたっけ……。


 次に来たときは、前の嫁さんとの新婚旅行だったな。

 高校を出てすぐ結婚してから、たった八年の結婚生活。

 それは突然破たんしてしまった。

 逃げられちゃったのさ。

 俺は将来自分の店が欲しくて、前にいたダイニングバーに就職した。

 そりゃ一生懸命働いたよ。

 元嫁さんは俺の四つ上の看護師だった。

 俺がロードバイクでずっこけて入院したときに知り合ったんだけどね。

 三年目で主任になって、それからも頑張って働いた。

 六年で店長に抜擢された。

 経営から何から全て社長から教わった。

 次にオープンする新しい店を任せられて、忙しい日々を送っていた矢先だった。

 疲れて家に帰ったら、なーんもねぇんでやんの。

 俺の服だけ段ボールに丸めて詰め込まれてて。

 離婚届だけ一枚。

 あれは笑ったね。

 独立するためと、家を買うために貯めてた通帳があって。

 記帳したらゼロ。

 きっちり一円単位までなくなってた。

 俺は両親を早くに亡くしてたから。

 親代わりの社長に泣きついた。

 そしたらいきなりぶん殴られたんだよ。

 社長って、女だぜ?

 社長もね、旦那さんを亡くして俺と同じ年の息子をひとりで育てたって。

 そこの副社長なんだけど。

 それがまたいい男なんだ。

 アイドルでもいけるくらいのイケメンの癖に、江戸っ子気質なもんだから。

 最初は俺の先輩だったから社長の息子だって知らなかったんだけど。

 俺のことを弟のように、可愛がってくれた。

 社長がね、泣きながら『あたしがあんたの敵をとってやる。全部任せてとりあえず泣いとけ』って抱きしめてくれたんだ。

 二十六だった俺が大声上げて、泣いちまった。

 元々某有名なレディースの初代総長だったらしく、おっかねぇんだけどね。

 あれよあれよと言う間に。

 結着はついてた。

 俺の口座には八桁の数字が並んでた。

 『あんたがいつ再婚してもいいくらいはもぎ取ってやったから』とスカッとした笑顔で笑ってたよ。


 そんな社長と先輩とも別れがやってきた。

 俺は独立したいと言ったんだ。

 『店一軒任せてもいい』とは言われたんだが、俺は断った。

 どうしても沖縄に行きたかったんだ。

 結局ぶん殴られて、『たまには遊びに来いよ』と笑顔で送り出してくれた。

 社長の伝手で沖縄の不動産屋で店を探してもらった。

 それがここ。

 どうせあぶく銭のようなものだったから、俺は即金で支払ってこの建物を手に入れた。

 ここはキッチンがしっかりしていた。

 だからここに決めたようなもんだ。

 元々定食屋だか、そば屋だかだったらしい。

 最初の数年は鳴かず飛ばず。

 オタク趣味に振り切るまで、貯金を切り崩して食べていた。

 なんでここがそんなに安かったのかはすぐにわかった。

 沖縄って歩かないんだよね、人が。

 あれだけ国際通りが賑わっていても、このあたりまで来るとシャッターが閉まってるのも珍しくない。

 隠れ家みたいな店だからいいかとは思ったけど。

 そんなに甘くはなかった。

 今年になってからやっと、月数千円程度まで黒字になってきた。

 これも持ち家だからできるようなものだろうな。


 ▼


 部屋が冷えて寝ちまったようだった。

 室温を二十五度にセットし直して、時計を見た。

 そろそろ十八時になろうとしている。

 結構寝てたんだな。

 俺は汗をかいて乾いたシャツを脱ぎ、風呂でシャワーを浴びた。

 洗ってあるハーフパンツにドライシャツ。

 くるぶしまでの靴下を穿いて、靴を履く。

 俺はどうしてもあの『島ぞうり(ビーチサンダルね)』は好きになれない。

 だからこんなラフな格好でも靴をしっかり履くことにしている。

 沖縄は、県庁のあたりくらいしかネクタイとスーツ姿は見ることがない。

 俺もこっちに来てからはこんな格好しかしていないんだ。

 とりあえず、美栄橋駅からモノレールに乗る。

 これがまた初乗りが高いんだ。

 二百三十円。

 ないわ。

 だから観光客しか乗らないと言われているのかもしれないな。

 それでもおもろまち駅まで出て、同じ二百三十円。

 そこから徒歩で飲み屋のブロックへ。

 本来那覇の飲み屋は、松山や若狭と決まっていたのだが。

 最近は正直ぱっとしない。

 新都心と言われるおもろまちの方が新しい店が多く、綺麗なこともあって俺はこっちで飲むことにしている。

 正直ちょっと前まで、松山はポン引きがウザかった理由もあるんだけどな。

 キャバクラに入ってワンセットだけお姉ちゃんをからかって遊ぶ。

 延長しないで出てくると、次は行きつけのバーへ。

 そこで知り合いと会って、飲んでから小腹が空いてきてバーを出る。

 ひとりでふらふらと、国際通りまで戻ってきて。

 よしもと沖縄花月の向かいのブロックへ。

 そこにある国際通り屋台村で串盛りを肴にビールを飲む。

 食い物と交互だと、口味がリセットされてビールもそこそこ楽しめるのだ。


 小腹も溜まりつつあるときだった。

 俺のシャツの裾をつんつんと引っ張る感触があった。

 振り向いてみると。

 そこには俺と同じような金髪の小柄な女の子。

 上目づかいでじーっと見てるじゃないか。

 まぁ、こんなとこに子供がいるわけないし。

 それに観光客かな? と思ってた。

 彫がちょっと深くて、日本人には見えなかった。

 俺も酒が入って気持ちが大きくなっていたから。

「お? お姉ちゃんも飲むかい?」

 やっぱり言葉通じねぇじゃん。

 だが、俺が飲んでいるジョッキを見ていたのか。

 彼女が喉を鳴らして唾を飲み込んだのに気づいてしまった。

 彼女は俺の飲んでいたジョッキを指差し、彼女自身を指差してこてんと首を傾げてニッと笑った。

 その仕草、その表情が。

 さっき行ったキャバクラのお姉ちゃんよりも可愛らしかったから。

「すまん。新しいジョッキひとつ頼むわ」

 俺は店のお兄ちゃんに注文していた。

 おにいちゃんは『あいよ』と、なみなみビールの入った大ジョッキが俺の前に置いてくれた。

 俺は俺の横の椅子をぽんぽんと叩いて女の子に座るよう促した。

 女の子がちょこんと座ると、俺はジョッキを持たせる。

 彼女は、ジョッキに鼻を近づけると『すんすん』と匂いを嗅いだ。

 恐る恐る口をつけて、舐めるように『くぴくぴ』と少しだけ飲んでいた。

 すると、ぱぁっと花が咲くような笑顔を見せる。

 そのまま一気にジョッキ三分の二ほど飲んでしまった。

「お、なかなかいい飲みっぷりだね?」

 彼女には言葉はやはりつうじていないようだ。

 だが、俺が何かを言ったとわかったようで、こくこくと頷いてくれた。

 俺にはそれだけで十分だった。

 こんなに旨そうに酒を飲むキャバクラのお姉ちゃんはいない。

 それに彼女の、真夏の太陽ような笑顔。

 たまんないね。

 俺はさすがにすきっ腹はまずいだろうと、俺が食っていたアグー豚のバラ肉串焼きを一本彼女に差し出す。

「ほれ、旨いよ。食ってみ?」

 彼女は生ビールを飲んで、警戒が薄れたのか。

 串を受け取って首を傾げていた。

 俺は同じものを食ってから、ビールで流し込む。

 この脂身めっちゃ旨いんだよな。

 ビールにも合う。

 もうひと口齧って、ビールを飲む。

 そのまま笑顔で彼女を見た。

 彼女は俺の真似をして、その小さな可愛らしい口でひと口齧ってくれた。

 予想通り、旨かったんだろう。

 彼女は口に手を当てて驚いた表情をしていた。

 俺はキャバクラのお姉ちゃんに、ドリンクなどをせがまれると必ず言う。

 『水でも飲んでろ』と。

 くだらない女に金を使うくらいなら、この笑顔の代償は安すぎる。

「お兄ちゃん、串盛りもうひとつ頼むわ」

「まいどありー」

 彼女は自分の分を食べ終わると、串を持って俺に首を傾げる。

 可愛すぎるだろう。

 おまけに彼女は酒が強いみたいだ。

 もうジョッキ二杯は飲んでるはず。

 それなのに、頬を軽く染める程度。

 元々褐色の綺麗な肌をしている。

 最初は黒ギャルかと思ったくらいに、小麦色の綺麗な肌。

 こんなに旨い酒は久しぶりだった。

 不思議な出会いだったが、これはこれで楽しかった。

 それ以上の記憶を俺は持っていない。


 ▼


 俺はどんなに酔っ払っても自力で家まで戻って来れる。

 ただ、今回のように記憶がないときもたまーにある。

 内地にいたときは、朝起きると工事現場のカラーコーンを抱いて寝ていたり。

 どうやって引きずってきたのか、カーネルサン〇ースのおじさんが隣に寝ていたときもあった。

 あれは焦った。

 慌てて電話をして平謝りしたのは、黒歴史。

 横で女の子が寝てたことはない、こともない。

 ただ俺は記憶が飛んだときは家に帰って寝たら起きないようだ。

 そのため。

 『本郷君って、据え膳には絶対手を出さないよね。いいひとだね』と残念な子を見るような目で嫌みを言われたことはあった。

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