第8話 インドネシア 編

ンドネシア編



  漁業者の担い手は農業従事者と比較しても比べものにならないほど、どんどん減少していく。俺の船団もそうだった。今思うと、この時やめておけばよかったが他に生活の宛てがないし今更人に使われるのが嫌だった。いろいろと調べると外国人技能実習制度というのがあって、よそでは使い始めていた。当時は受け入れ団体が市だったので漁協の課長と市長のとこまで陳情に行った。初めてのことなのでお互いに戸惑いもあったが何とか納得してもらい、市として初めてのインドネシア人実習生を俺の船で使うことになったが、ノウハウがわからないから全漁連の紹介で東京にある仲介業者に頼ることになった。そして、インドネシアに行くことになる。

 二〇〇五年の頃だ。俺と漁協の課長は海外旅行などあまり経験がないし、旅行会社にいわれるままの観光旅行しか知らないから先ずは旅券から手配しなければならなかった。今みたいにインターネットでイーチケットなんてなかったから旅行会社に手配してもらった。言葉も知らない国際線の乗り方も知らない二人がとうとう関西国際空港についてしまった。課長とは普段から飲み仲間で気心知れていたが二人ともワクワクすることが好きだったから不安など微塵もなかった。シンガポール航空の受付でチケットを見せて荷物を預けると入管でパスポートにハンコをもらってゲートまで行くわけだが、ここまでは順調だった。

 俺たちは、本当にあほだった。飛行機の中で酒を飲んで昼寝して飯食って飽きたころにチャンギ国際空港に着陸したのだがトランジットなんてしらない俺たち、おまけに時差というものがあることをすっかり忘れていたのである。チケットに記載してある離陸時間まであと数分だ。とんでもなく広いチャンギ国際空港を二人のおっさんが猛ダッシュして書かれたゲートに向かっていくのをまわりは外人が笑って見ているが、そんなこと気にしている余裕はない。物凄い形相でダッシュしてたどり着いたがゲートの中には誰もいなかった。「間に合わなかった」二人とも肩を落として思案していたが、課長がまえを通るキャビンアテンダントにチケットを見せたらあと1時間後と時計を指さした。そこでやっと気づいたのだった。日本とシンガポールは1時間の時差があったのを思い出したのだ。俺たちの時計は日本時間だった。その後国際線に乗るときは到着前に時計をその国の時間にすることを忘れることはない。貴重な体験だ。ただ、悲しいほど無知なだけ。

 何とか次の飛行機にのったのだが「飛行機かわっても荷物って大丈夫よね」と、素朴な疑問がわいたが、二人ともあまり気にしないほうだったので何とかなるとしか考えなかった。スカルノハッタ国際空港に到着した。生まれて初めて入管にパスポートを見せることになった。現在、ビザは必要なくなったが、以前はインドネシア大使館で発行してもらわなければならなったし観光ビザでも到着後ドルで支払い、ビザ発給したものを入管に提示しなければならなかったから面倒だった。入管を抜けるとバゲージを取りにもらった半券に書いてある番号の場所のターンテーブルで待つことになる。今の若い人たちに笑われそうだが何せ田舎のおっさん二人は初体験に興奮するのだった。待つ間にガラケーで迎えの送り出し機関の人と連絡をした。バカみたいな話だが日本のガラケーで電話するとすぐそこにいるインドネシア人と話をするのも国際電話だ。現地シムがあれば現地の電話会社の通信料で済むが、今みたいにフリースマホに入れ替えれば現地携帯と同じように使えるような時代ではなかった。

 荷物を受け取り手荷物審査を通り抜け空港の外に出た。既に日は沈んであたりは暗くなっていた。ムッとした南国特有の果物が腐敗したようなものと丁子タバコの甘ったるい匂いが混じって、いかにも東南アジアという雰囲気を醸し出している。空気はべっとりと、まとわりついてちゃんとしていても汗がにじんでくる。たくさんのお迎えの人々合間にみえたプラカードで俺たちはやっと安心したのだ。

 俺は漁船員だった若い頃からアジアに関心があった。夢見るおじさん愛読書、子供の時読んだドクトルマンボウ航海記、大人になって、開高健のベトナム戦争の取材記、輝ける闇や沢木幸太郎の深夜特急は俺を熱くした。いつかは行きたい。その思いはずっと胸にあったが若くして結婚し、子供を設けたから、どんどん遠ざかって行った。俺一人なら戦場カメラマンになりたかった。石川文洋の戦場カメラマンは俺に衝撃を与えてくれた。今、東南アジアにいる。俺の中で新しい戦場を見つけた気がした。迎えの人にジャカルタ市内のホテルまで連れていってもらってその日は終わった。

 インドネシアの宗教はほぼイスラム教だ。バリ島など一部ヒンズー教など、一応、多宗教となっているが、圧倒的にイスラム社会である。ホテルでトランジット事件の疲れで爆睡していた俺を早朝、大音量のスピーカーで叩き起こされたのだ。アザーンだ。イスラムのお祈りの始まりで一日に五回ある。日本人にはカルチャーショックだ。なんや、どした、どした、と起こされるのだった。うるさいとでも言えば大変なことになりそうなのでそこはじっと無言で。宗教のことに何も言わない触れない口出ししないのが暗黙のオキテ。ホテルは素人らしく今はなき、ジャカルタ全日空ホテルで、安心安全。

 実は関空にいた時から体調が悪かった。二月の寒さと前日入船であまり寝ていなかったこともあったが熱があるのは確かだった。現地の送り出し会社に駐在していた日本人スタッフに解熱剤をもらい寝ていたがうちに来ることになる実習生の面接をしなければならなかった。飯は喉を通らなかったが冷たい飲み物はいけたので現地ビールのビンタンビールをすすっていた。呆れた顔で見ている課長を尻目に喉の痛みはいっときは楽になるのだが、いっこうに熱は下がらなかった。それでも八人の募集に百人ぐらい来てたかな、なんとか会場に出て真面目な趣で採点することにした。簡単な日本語の自己紹介とバーベルなどの体力テストをやって、あとは適当に採点して採用した。課長はそれなりに真面目なフリで採点していたようだ。何せ決め手が無いから感でやるしか無い。こうしてインドネシアの漁業実習生が俺の船に乗ることになった。その後インドネシアに送り出し会社を作るなんて夢にも思わなかった。

 ジャカルタは大都会だ。どこに行っても人に溢れている。若いエネルギーに満ちあふれている。年寄りをあまり見かけない。アジア通貨危機を乗り越えて、この先すごいスピードで発展するパワーが感じられた。この頃はまだ高層ビルの建設ラッシュとまではいかなかったが、それでもジャカルタ中心地は高層ビルが林立していた。貧富の差は歴然で富のほとんどは中国人によるものだった。現地案内人に港まで連れて行ってもらったが、あまりの悪臭に息ができないほどだ。漁獲した魚は沖で塩にまぶし氷をかけ、それを繰り返したものを港で汚い海水で溶かして売るのだ。俺たち日本人には、これを見たらとてもくえたもんじゃないが現地の連中は干物にして油で揚げて食べている。インドネシア実習生に日本式の魚の扱いを教えるのは骨が折れそうだ。 

 案内人と現地送り出し会社へ挨拶に行くことにした。そこには日本へ行きたい実習生たちが日本行きのチャンスを待って日々、日本語の勉強や筋トレなどを行なっていたが、みな、痩せ細っていた。後でうちに来た実習生に聞くと皆、親戚中からお金をかき集めて借金してここでチャンスを待っていたのだと聞いた。たぶん劣悪な環境で過ごしているのだろう。家に来た子のなかで、スラウェシ島からきた一人が米を食べて感動していたことを思い出す。事事実、日本に来てから皆、身長が伸びたり、たくましい体に成長する。

 送り出しの会社はガソリンスタンドなども経営していたが、なんとなく怪しい感じがした。そこの社長と食事することになった。当然、案内人件、通訳も同行した。シーフード料理店だった。アジアのシーフードのお店は大抵、水槽に魚やエビなんかを生かしていて、客は好きなものを選んで調理方法を選択するスタイルがほとんどだ。魚の揚げたものにあんかけしたものをいただきながら社長の自慢話など聞いていたがカバンから自慢げにピストルを出して見せた。インドネシアでは拳銃は所持できないが特別にたくさんのお金を支払えば許可がもらえるとのことだった。その日はイスラム式お祈り用敷物と腰巻きをもらって帰ることにした。あとあと、こいつのことを調べると実習生から搾取するやくざものだったことがわかった。どおりで、事務所の雰囲気が異様だった。そこで働いていた若者がいたが、主に重要な書類などを作成し英文に直して労働省などに提出していた。確か、半年ほどして今回ジャカルタ行きの手配をしてくれた日本の会社が彼を引っこ抜いて新会社を立ち上げたらしいが、ヤクザ社長に何度も命を狙われたらしい。怖い世界だ。俺はこんなやつらとかかわりたくなかった。とにかく、最初の実習生が来たことでこいつらとの関係は終わりにしようと思っていた。

 ジャカルタから帰国途中、シンガポールに立ち寄った。仲介の日本の会社から駐在していた職員と、もともとの送り出しの世話をしていた中華系人と食事をすることになった。やっと熱も下がって空き時間にシンガポール観光をした。特別珍しいものは無かったがガイドのおばさんが「これからシンガポールのマンションはどんどん高くなるから買いなさい」と教えてくれた。インドネシアでは外国人は不動産を取得することはできないがシンガポールは大丈夫と言っていた。田舎のおっさんに、そんなノウハウはわからないし軽く聞き流していたが数年後爆上げしていた。海外では思わぬチャンスが転がっているもんだ。

 その夜、華人との夕食での話。日本の仲介会社は全漁連の油の買い付けをやってたらしいことがわかった。なんか、怪しい。日本の漁民たちが燃油の高騰に苦しんでいるさなかに、毎日飲んで遊んでゴルフ三昧か。華人と仲介会社とのお金の関係を怪しく感じた俺は誰にも頼ることはできんと覚悟した。「遠慮せずどんどん食べなさい」と進めてくれたが、帰国して仲介会社から請求書の一部に小さくその夜の食事代も含まれていたことにとっても腹が立ったことを覚えている。東南アジアでのビジネスは油断ができん。騙されるやつが悪いのだ。

 帰国して一連の手続きが終わり、インドネシア実習生が来ることになった。あらかじめ倉庫を改造した宿舎を用意していたので彼ら八人が寝泊まりすることに困ることは無い。

 大きな荷物を背負って彼らがやって来た。期待に胸を膨らませて。一緒に通訳と実習の指導を兼ねたマムンというのが付いてきた。彼は以前、九州のマグロ船に乗船したことがあり日本語はペラペラだった。まだ、うちの親父が元気だったから偉い張り切りようだった。少し広めのフロアで皆の歓迎会を開いた。長旅で疲れていただろうが、そんなことはかまわずに、うちの親父を始め日本人スタッフも珍しいもんだから結構遅くまで歓迎会は続いた。この頃が一番たのしかったなあ。

 翌、早朝から実習生たちはマムンの指導が始まっていた。宿舎は砂浜からすぐ近くの少し高台にある。そこからの風景は抜群できれいな海が目の前に広がっている。実習生たちはそこいらをジョギングしたあと朝飯を食べ、日本語の勉強をするのだが、日本の生活習慣から教えないといけなかったが、まず、トイレで終わったらペーパーでちゃんと拭くなんてことからだ。田舎の子だと、というかあちらでは大のあとでも備えの手桶を使って左手で洗う習慣なので桶は無いことを教えた。以前バリでひなびた食堂でトイレに行ったときトイレットペーパーが無いことに気がついた。その時は店の人が忘れていたんだろうぐらいに思っていたが、よそでも水桶と手桶がセットであったのでようやくここでの生活習慣が理解できたのだった。他にも空港の男子用トイレに小さい蛇口みたいのがあったのだが後で聞いたら男の先っぽをあらうためだという、世界は広いぜ。食事も右手を使って食べるのだがここでは箸を使わせた。みんな素直でいい子たちだった。今みたいにSNSでビデオチャットしたり、よからぬ情報に惑わされて逃亡したりすることなんて心配はまったく無かった。

 休漁期だから、俺も暇つぶしに毎日そこへ行ってマムンたちと話すのが日課になった。みんなイスラム教なのだが、アラブほど厳しくはないので日本では一日五回もお祈りすることは無い。夕飯の時なんか俺とマムンはよく酒を飲んだ。一度でも日本の船に乗ったことがあるやつは、大抵酒の味を知っている。何せ、どこの船長も陸にあがれば皆を連れて焼き肉屋とかで飲んでいる。うちのインドネシア実習生も連れて行ってもらい酒ものまされたことだろう。ずいぶんかわいがってもらっていた。よその会社では、殴られたとかいやになって逃げたとか聞くけどおれの船のインドネシア実習生は一人もいなかった。俺がつれてきた子に暴力とか、もしあったら俺が許さないことは、日本人の船員たちもよくわきまえていたからだ。倒産するまで逃亡は無かった。むしろ甘やかしすぎのところがあったぐらいだ。

 毎日マムンと話しているうち、俺たちでインドネシアから直接実習生をいれることができそうな気がしてきた。マムンは前にも書いた怪しいヤクザの会社からスピンアウトして日本の仲介会社と提携している現地送り出し会社にいた。マムンによると新会社の社長は前のヤクザ会社から狙われ路上でナタを持った殺し屋に襲われ大けがをしたが命は助かった。二度目は飲み物に毒を盛られたがこの時も命を取り留めた。やたらあぶねー話だが、発展途上国なんかこんなこと日常茶飯事みたい。俺はマムンにまともなやつはいないかと尋ねたら、知り合いに文部科学省の役人がいるから相談してみると言うことになった。なんとなくチャアーンスの匂い。直ぐさま国際電話であれこれ尋ねて船員不足問題をなんとかしたいことを伝えた。そして、俺はジャカルタへ殴り込みにいくことになった。

 一足先にマムンは帰国していたから俺一人でいくことになったが、乗り継ぎを間違えないようドキドキしながら国際線に乗った。問題は空港にマムンが約束通り迎えに来ているかだ。入国審査を終えて外に出た。マムンがプラカードをもって、立っていた。もしいなかったらと思うと知らない外国の地でどうしたらいいか路頭に迷うところだった。空港からジャカルタ市内までタクシーで移動してその日はチプトラというホテルに泊まった。

 翌日、マムンとインドネシアの文部科学省へ一発かましに行った。俺はトロール船の網元ということ、船員不足に悩まされていること、おかしげな怪しい業者しか、送り出していないことなどを日本語でまくし立てた。当然マムンが通訳していたのだが、伝わるかどうかわからなかったが最後まで聞いてくれた。俺も背中に汗が伝っていくのがわかった。

 そこの結構トップの人だと思うが「ここにきた日本人はお前が初めてでよく一人で来た。協力するから何でも言ってくれ」と言われた。知らない外国で言葉も通じない俺が度胸一つでなんとかなったのは、ラッキーと言うしか無い。マムンと手を取って喜んだ。

 インドネシアのドサ回りはきつかった。一日一五時間も車で移動したこともあった。何せインドネシアにはトンネルがない。ひどく遠回りしなければならなかった。一度は車がいやになって列車で移動することにした。ジャカルタからチレボンまで当時チレボンエクスプレスって言ってた。窓はほとんどヒビがが入っていた。たぶん石かなんか投げられたのだろう。当然日本人の俺としてはお約束のビールが飲みたい。マムンに食堂車風の車両からビンタンビールを買ってきてもらった。あとにとんでもないことになるのだが、とにかく、列車の旅の雰囲気で飲み干したのだがラーメンを食べに食堂車に行くと釣りで使う大型クーラーに泥水と氷が混じったなかに先ほどのビールが浮かんででいるのを見てしまった。やべーと思いつつ、さして気にせずにチレボンに到着した。

十数年も前のことだ。チレボンの駅はプラットホームもなかった。小さい階段を駅員が持ってきた。ホテルは駅からすぐの場所だった。事件が起きたのはついてまもなくのことだった。なんかお腹が怪しい感じ、緊急事態発生、トイレに直行、直ぐさまズボンとパンツを下ろして用を足そうと便座に座った瞬間だった。ギャーと言うつつ、そおーと痛みをこらえつつ便座を立つとなんということか便座のプラスチックにヒビが入っている。座った瞬間ヒビの間に俺のケツの肉を挟んだのだ。悔しいけど用を足すために便座にタオルを巻いて事を済ませたのだが泣き面に蜂だった。一晩この便座にお世話になることとなった。しかもトイレの壁は蚊を叩いたあとの血がついた痕跡もたくさんある。お腹と蚊と便座の戦いにげっそりした夜だった。

その当時から実習生は労働移住省の管轄だったが文部科学省でも対応してくれた。日本のJITUCOが窓口で入管などの手続きなどの書類を管理していたが、俺の場合送り出し会社がないから、インドネシアの水産高校にお願いした。文部科学省だから学校を送り出しにしたわけだ。日本の法律が改正になるまでその学校から送ってもらった。俺もインドネシアじゅうの水産高校をドサ回りした。一日に一五時間も車で移動したこともあった。ジャワ島の水産高校は、ほぼ網羅した。その甲斐あって、うちの船だけで無くまわりの船団からも声がかかるようになった。気がつくと一五〇人もインドネシア実習生を入国させるようになっていた。国際線の乗り継ぎもこなれてどこへでも一人で行けるようになった。うちの船員たちも実習生をかわいがったし町の人も温かい目で接してくれたので事業としては順調だった。

 勢いに乗った俺はもう一つ船団を手に入れた。これで、総勢六〇人の船員だ。インドネシア実習生のおかげで船員不足はなんとか解消できた。ただ、乗組員の高齢化が次第にボディブローのように効いてくるのは目に見えていた。

 インドネシア実習生の受け入れが市から組合に移されることになった。それと同時期に現地に法人を造らせ送り出しの許可をもらった。俺の事業も絶好調の頃だ。船団も六艘もあると、管理に目がゆき届かない。スタッフも頑張っていたが、すべて順調ということは無かった。船も古いから故障ばかりだし。漁も全船がいいというわけでも無い。

 数年後、俺が社長になってからずっと支えてくれた漁労長二人が退職することになった。この二人の漁労長のおかげで会社も大きくなった。ずいぶん頑張ってくれた。日本人船員も高齢で不足していたので一つ船団をやめて、二つの船団の人員をまとめることにした。そして、その頃政府が始めた六次産業に着手することにした。

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