第7話 事業継承 編
事業継承 編
三十七になる頃だ。あちこち身体が悪かった社長は入退院を繰り返していたがとうとう限界が来たようだった。しかも古くなった底曳き船の代船(中古だが)の契約したばかりで漁信連の借用書にサインするところまで進めていた。借入金額は一億五千万ほどだった。ところが虫の息の社長はサインする力さえ無かったのだ。そして、亡くなった。
俺は思案に暮れたが直ぐさま行動することにした。漁信連の会長に直談判することにした。そして、俺の思いを正直に伝えた。答えは「前社長に融資したのでは無い、若いお前の将来に融資したのだ」と言われた。現代ではこんな侍はいなくなったが、この頃はまだ僅かに残っていた。そして船を手に入れた。
社長がいなくなって代表者は保証人の俺しかいない。いよいよ一人で戦う日が来てしまった。借金はどんと増えて以前からのものを含めて三億ほどに膨らんだ。待ったなしで返済しなければならない。カニ船の営業未払い金も負担になっている。社会保険庁も税金も手形でしのいで、日々憂鬱な日々だったが底曳き船の船員はみな真面目だったし船長も真剣に会社のことを考えてくれた人だったからなんとか精神は持ちこたえた。
当時の俺は経費を浮かすためにいろいろ努力した。沖で流れてきたロープや網がスキュリューに絡まって片方の船が曳航して帰ることがよくあったがダイバーに頼るしか無かった。夜中にすぐに来てくれないし、早朝に出港させたいから俺が潜ることにした。ダイバーの講習は受けていたからボンベを担いで飛び込むのだが冬の港内の水はいくら潜水服を着てもジッパーから入ってくるから冷たさが身にしみた。直径二メートほどのスクリューの根元のシャフトに一抱えもロープや網が絡んでいると包丁をどこに入れていいか迷う。結局一巻きずつほどくしかないのだが暗い水中に少しの明かりで方向感覚も狂うし寒さと緊張でエアタンクの消費も早くなる。やってみないとわからないもんだ。四苦八苦して取り除いて市場にあがると仲買人まで俺の様子を見にきてた。結構有名な網元になっていた。でも、こんなに頑張っていても事故は思いもよらずに突然やってくる。
ある日の夜、電話が鳴った。いやな予感がした。(大抵 事故は夜だ)漁労長がパニックになっている。とにかく落ち着かせて話を聞くと出船の際、従船が前進全速で防波堤に激突してけが人が救急車で三人ほど向かっているとのことだった。よその港での事故だったから車で二時間半も飛ばして係船している船まで飛んでいった。車に乗っている間、途方も無く長く感じた、様々な思いが頭をよぎるが一刻も早く状態を確認したかった。暗い港がいっそう暗く感じた。とにかく船にたどり着いて漁労長に様子を聞いて救急病院まで行くと、二人の船員が骨折していた。幸い大事に至らなかったことだけが救いだった。けが人と普通に会話をしてから船に戻った。この仕事は順調にいきそうであっても、いきなりアクシデントに見舞われるから心臓の弱いやつには到底務まらない。こんなけが人が出た事故は後にも先にも無かったが漁業というのは本当に一寸先は闇みたいな不安定な事業だ。いいこともあったが、神経をすり減らされることのほうが多かった。船員の管理もまともじゃ無い。陸で飲み屋での喧嘩で警察に引き取りに行くぐらいはかわいいもんだ。それよりも沖での事故は震え上がる。経営者は現場にいないから帰航するまで悶々とした時間を過すことは神経をすり減らす。この事故では港内での事故だから時間的に速く状態を確認できたが、行方不明事故のように何日もこのような状態が続くと身も心も疲れ果てるんじゃ無いかと思う。俺は幸い三十数年この仕事をしたが死傷者は出さなかった。とは言っても船の事故は後の処理が大変だ。翌朝から海上保安庁の現場検証と船員の取り調べが始まるのだ。船員一人一人に同じことを問うわけだが、やたら長い時間をかけるし同じことを何度もしつこく聞くのでいやになる。こいつら事故があると鬼の首を取ったように仕事を増やして上に都合のよい報告書を作成するために張り切るのだ。韓国船と同じ漁場で操業している頃なんかトラブルがあってもなにも助けてくれなかったし当事者同士で解決しろと相手にしてくれないどころか少しでも違反操業をするとすぐに逮捕する。自国の漁船は厳しく取り締まり、他国船には面倒だから逃げる。水産庁も同じだ。尖閣諸島での映像で少しずつ見直されてきたようだ。弱腰外交で国民を守らず逆に自国民に厳しい国など日本ぐらいなもんだ。俺は北朝鮮に撃たれそうになったが、正しいと思う。自分ちの庭に勝手に入ってきて何もしないなんて昔の日本人なら斬られて当然だと初老親父は思うのだった。この事故で船の水中にある鼻先が潰れてしまった。これじゃ操業できない。造船所に回そうとしたが海運局の許可がいる。知らん顔して回航したが安全講習にも全員真面目に出席していたので写真をメール送るだけでおとがめは無かった。造船所も無理を聞いて夜中まで残業して突貫工事で修理してくれた。なにより泣けたのは漁労長の親戚一派の老船員二人が不足の船員に変わって漁を止めずに出てくれると言ってくれたことは男冥利に尽きて今でも泣けるし死ぬまで感謝している。この度、倒産したときも陰に日向に励まし助けてくれる。お金なんかよりしびれるぜ。サラリーマンには味わえない現代の忘れ去られた男の世界だ。そこらのチンピラヤクザにできるか。昔、先代社長が倒産したとき、ヤクザの親分が「オヤジ使ってくれ」って、五百万持ってきたことを思い出した。俺は堅気の人としか付き合いは無かったが漁労長や船員たちには感謝している。
造船所の突貫工事も終わって日曜日だったにもかかわらず、海運局の検査官は検査をしてくれて出港できるよう計らってくれた。老船員のおかげもあり一週間程で出漁にこぎ着けた。そこから何週間かして入院していた船員が一人出てきて入れ替わり元の形態に取り戻したのだった。この事故を契機に少しずつ経営状態を取り戻していくことになる。たいした儲けは無いが、確実に前にすすんで行く気がした。
数年こんなことをしながら辛抱していると徐々に負債も剥がれていった。借金が減って行くのは精神的に楽になる。と同時に、ビジネスチャンスも到来する。同じ港の底曳き船が廃業することになったが、引き受ける事業者がいないし市場の水揚げが減少するので誰かやるやつはいないかと言うことで俺に白羽の矢が立てられた。乗組員はそのまま、船が古いので改造費がかさむが「やっちゃえ」みたいな、後先考えない俺の性格で引き受けることとなった。乗組員は二船団、四艘で四〇人になった。漁労長は各船団に一人づつ、総責任者で船員をまとめる、歩合も彼が決める。二人とも仕事にたいして、くそ真面目だったから俺はずいぶん助けられた。ここからようやく運が開けてきたことが体感できるようになってきた。ある年の十一月の水揚げは両船団で八千万も揚げたのだ。やっと人並みに余裕ができて習い事の茶など始めるようになった。ゴルフも付き合い程度に始めるのだが、少しも上手にならなかった。なんてことない俺は漁師だからうちの連中と飲んでいる時が一番幸せなのだ。毎年、漁期が終わるとホテルの広間を借りて大宴会を開いた。数年前に亡くなった機関長が必ず最初にマイクを持つのだった。下手なカラオケが延々と続いてほんとうに楽しいひと時だった。こんなことがずっと続くとは思わなかったが俺みたいな成り上がりがひと時の夢を見させてもらえたことに、乗組員の皆さんには本当に感謝している
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