第6話 漁業会社事務員 編

漁業会社 事務員 編



 カニ船が休漁期になって事務所に上がるようにと社長に言われたので行ってみると、事務所で働くようにと言われた。前からいた事務員はいたが、親戚は俺が初めてだ。毎日することが無いから社長とお茶を飲んで話をして終わりだったが少しずつ事務らしきことをするようになった。基本、漁船員は一年契約で漁期終了時に解雇だが、つぎの漁期の契約も同時にする。その時に契約金を支払う(四〇万ぐらいかな)船長(漁労長)なんかは一年間の水揚げの一パーセントもらう例もある。休漁期は契約した人は最低賃金で待機するが、ほとんどが漁網の修理や船の修繕に出て生活の足しにしている。

 給料計算は歩合制なのでちょっと面倒くさい。水揚げから市場手数料や燃油、氷、などの諸々の経費を引いたものを四五対五五で船員と船主と按分する。四五の船員分を船長1.8とか機関長1.5とかの部率をたしたものを船員の取り分四五パーセント分から割り、一人分を出して、それぞれの役に対して歩率をかけたものが、一人一人の給料になる。

 俺が最初に働いた底曳き船では半年ぐらい0.8歩の給料だったけど同じ年頃の人たちに比べたら四倍ぐらいあったから不満はなかった。近年では考えられないほど漁業が繁栄してたからやりがいもあった。昨今では、年齢からしたら多少陸上よりましかもしれないが、二十四時間縛られ自由の無い、所得の不安定な、しかも過酷な労働を強いられてまでやるほどの魅力はないだろう。だから、漁業従事者は高齢化だし、外国人技能実習生だよりになっている。後に述べることになる漁業に対して行政への不満、漁業者の社会的地位など俺にはどうしようもない問題だけど少しはみんなに知ってほしい。

 事務所で働くようになっても船が入港すると市場まで迎えに行くし、飲料水や燃油、氷の手配もしなければならない。そして水揚げされた魚を再度選別して売れやすいように並べなければならない。市が始まるまでに、夜通しバタバタして競りに間に合うよう段取りよく進めるのだ。くじ引き順に入港した船の競りが始まるといよいよ市場は賑やかになる。競り人の威勢のよい声とともに魚が売れていく。当時は底曳き船もたくさんいたので港は様々な人たちでごった返していたが今ではその面影も無い。さびれる一方だ。カニ船なんかほとんどいなくなった。一部完全に消えかかっていた巻き網は離島で順調な漁をしているらしいが、これもいつどうなるかは誰もわからない。回遊魚はある日突然いなくなることがあるからだ。凪の日の港は市場に魚もたくさんそろうし、和やかに過ぎていく。競りを終えて漁師や仲買人や市場の職員なんかが睦まじく今日の出来具合なんかを話している。仲買人は前日から築地や大阪、博多なんかの市場価格なんかを調べながらひっきりなしに電話している。それぞれがそれぞれにもうけがあった古き良き時代だった。今では都会の市場は競りでは無く相対でほぼ売値買値の幅なんて無いから勝負して思わぬもうけがあるなんてことは無い。余程の時化続きでものが無い時以外価格が跳ね上がることは無いし、情報が瞬時にわかるから昔みたいに一人勝ちなんて無い。今じゃ、だーれも儲からない。原因を考えるに一つは日本人が魚をたべなくなったこともあるが、世の中が便利すぎて家庭で魚をさばくなんてことしなくなったし、仕事から帰って疲れた体でそんな面倒なことしたくないし、生ゴミも出るし、要は余裕がなくなったことかな。もう一つはお皿に盛るだけの過剰サービスのために、どれだけ人件費がかかるか。川下から考えると、スーパーマーケットも仲卸も生産者市場も漁業者もすべて収益が薄くなって負のスパイラルになっている。後にこの問題をなんとか出来ないかと俺は6次産業化という事業に挑んだが撃沈されてしまった。

 地方は驚くスピードで人口減少と高齢化が進む。とことんいくとこまで行かないと若い世代の人達に未来は無いのだろうか。船員保険だつて前は陸上の人と違って非常に厚い手当だったし年金も五五歳から支給された。今では陸上と変わらないし船員であることの魅力など無い。この国に若者や生産者の未来があるだろうか。破産した俺などが偉そうに語られないが通信やITがどんなに進もうと飯は食わなきゃ生きれないだろう。じいさんたちが残してくれた漁法や食べ物の文化をなんとか残せないかね。

 バブルの頃、年末にうちのカニ船が持って帰ったベニズワイガニがコンテナ一つやく三〇キロが五万円もした。五〇〇コースしか無いのに二五〇〇万円の値をつけたことには驚いた。これで未払い金の一部が返せると思っていたのに社長がつまらん建物をつくったもんだから消えてしまった。昔の人だからどんぶり勘定だった。前に巻き網で失敗したことなんかすっかり忘れている。ある日のことだが、船員の給料を金庫に入れていたら将棋の駒に代わっていた。笑えない話だ。ウィンドウズが出て会計ソフトを導入するにしてもそんなもの何の役に立つかと理解してくれなかった。なぜ俺がこんな細かい計算を自分でやらなければならない状況になったかというと、銀行の融資に保証人になったからだ。

 親父には内緒にしていたがどんぶり勘定の社長は休漁期水揚げが無い時期、漁協や銀行から借金していたがカニ船の水揚げが悪くなり資金繰りに困ると高利貸しから融通してもらっていた。そんなことではまた、前のようになったらとんでもないことになると危惧していたから借入金を一つにまとめて県の制度資金を利用し、低金利で長期返済にしたのだ。一時期、社会保険料の未納が二千万以上あった。未納に対して高金利の滞納金が加算される。

 社長の死後、俺は滞納金も含めてすべて支払った。が、それだけじゃなかった。巻き網の頃の負債も、そうとう残っていた。だから、運転資金のやり繰りの負担を減らそうとしたわけだ。銀行は俺にも保証人になるよう言ってきた。今ではどこの銀行も会社の融資の保証は代表だけだが以前はこんなこと当たり前だったから自殺者もたくさんいた。葛藤はあったが逃げるわけにもいかないので保証判を押した。ここから長い長い戦いが始まるのだ。

 底曳き船とカニ船と運営していたがカニ漁が振るわなくなってきた。船員の給料質も次第に悪くなり半端物や入れ墨の連中になっていった。

 ある日のこと出漁の時間なのに出ようとしないから船内に入ってみるとサロンに全員座っている。どうしたものかと問うと人が足りないから出ないと言っている。おかしいと思いつつ穏やかに話そうとしたつもりだったが一人のチンピラ船員が俺に向かって若造痛い目にあいたいかと脅したので、当時二十六歳ぐらいだったと思うが、血気盛んで喧嘩に負ける気がしなかったから十人ほどの船員相手にかかってこいと啖呵を切った。今じゃあ肩だの膝だのあちこち痛くて重いもの持つのに「いててて」なんて言ってると「おやじなにしてる」ってわかいもんに笑われているけど若いときもあったのよ、信じられないけど。

船員の中で親分気取りのやつがまあまあと止めて社長と直接談判すると言い出した。それじゃあ事務所に来いと俺も引き下がった。後で聞いたところ船を止めるために弱そうなものを休ませて、人員不足を装って給料だけ取ろうとしていたらしい。こんな輩に負けるわけにいかない。三十年以上も前のことだが、その中にいた真面目な船員が当時の武勇伝をいまだに話してくれるが実際は心臓バクバクだった。俺は追い詰められると、どこかの時点から急に恐怖感がなくなるみたい、実際は小心者だ。そんなこんなで船員たちは事務所に行って社長と談判することになった。

 社長は給料保証の前に沖にある漁具をすべて回収してから話に応ずると提案したが、こいつら、聞き分けず当時の海運局に訴えたのだが回収してからにしなさいと言われスゴスゴ解散したのだった。情けない連中だ、所詮怠け者たちには誰も手助けしないことがわからんのか。俺は残り数人の船員と臨時船員とで沖の漁具をすべて回収した。そしてカニ船は始末した。

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